頭蓋館事件⑥
──五分ほど前。
中庭はさして広くない四角い空間で、真ん中に板で塞がれた古井戸らしき物がある以外には、雑草が茂っているだけだった。
マジュウの姿はどこにも見当たらなかったが、燎子が中庭に出たところで、頭上から声が降って来た。
「……ここですよ、探偵さん」
足を止めた彼女が振り向くと、彼は後方の屋根の上にいた。スレート葺きの足場に四つの節足立ち、不気味な色の空を背に腕組みをしているのだ。
「『場所を変える』とは言いましたが、積極的にあなたと戦う義理はありません。私の狙いは、北郷たちだけですから」
そう告げたマジュウは、さっそく獲物たちのいる方──すなわち庭側へ体を向けようとした。
そんな彼を、燎子は静かな声で呼び止める。
「……大切なのは、血の繋がりだけですか?」
「何?」
「……あなただって、本当は許せることを知っているのではないですか?」
「……いったい、何の話を……」
答える代わりに、燎子は顔を上げ、同時にオイルライターを握った両手を振り上げる。
「……だとしたら、まだ戻れます。──さあ、私が焼き斬ってあげましょう……あなたを蝕む、その『蟲』を」
そして、彼女の指がホイールを弾いた直後、爆ぜた火花が、文字通り炎の柱となった。
それは、先ほど放った攻撃とは、明らかに火焔の質が違っていた。「生きた炎」とでも言うべきか、まるで紅炎の如く迸り流れているのだ。
しかも、一度剣のような形状になった火焔は、ボウッと音を立ててさらに燃え上がり、瞬く間に三倍ほどの背丈へと成長した。唸りながら滞留する巨大な刃の先端部分は、屋根の高さをとうに超え、天に挑むかのようだ。
「ま、まさか……⁉︎」
何かを察したように叫ぶ彼のお面の顔に、炎の影が黒々と落ちかかる。
「……燃やして燃えない物はない……!」
言いながら、彼女は豊かな胸を強調するように体を反らし、そして火柱を振り下ろした。
マジュウは慌てて跳び退こうとしたが、到底間に合わず、次の瞬間には、紅炎の刃は館ごとその体を斬り裂く!
彼は声を上げることもできず、叩き「斬られる」と言うよりは「潰される」ような形となって、屋根から転がり落ちた。
マジュウの全身は瞬く間に火の衣に包まれた──が、不思議なことに、館自体は一切燃えていない。
生い茂るペンペン草の上に落ちた火達磨は、絶叫しながらのたうち回る。
三分の一の長さに戻った炎の刃を下に向けつつ、燎子は口を開いた。
「……先ほどあなたが仰った、『目ん玉だけでもオヤジはオヤジ! 我が子の為なら、墓場からでも蘇る!』と言う言葉。……あれは、『妖怪子どもドロドロ』と言う古い漫画の登場人物──その名も“眼球だけオヤジ”の決め口上なんですね」
「……ぐっ、し、知っているのか……!」
「……イイエ」
どうにか顔を上げて叫んだ彼に、探偵は、
「……今検索っただけです」
いつの間にか左手に握っていた携帯電話の画面を向けた。
肩透かしを喰らわせた為か呆然としているマジュウに対し、彼女は片手でそれを折り畳みながら、さらに続ける。
「……眼球だけオヤジは、息子である主人公──“ドロドロ”が窮地に陥る度に、墓場から這い出て来きて彼を助ける。……そして、ピンチを救った後は必ず、埋葬された頭蓋骨の中に、帰らなくてはなりません。……それは、彼の魂がそこに縛り付けられているからで、だからこそ、目玉だけの姿でしか出て来られないのです。──あなたがこの頭蓋館の名前を気に入っていたのも、この設定に影響されたからでは……?」
「……だったら、何だと言うのです?」
「……紫郎さん。あなたは、朱美さんや北郷さん──それから、紅江さんたちもでしょうか──を試す為に、熱射病で倒れ、亡くなったフリをしたのですね? ……そして、その結果炙り出された『不届き者』たちに対し、眼球だけオヤジのように蘇り、制裁を下そうとした。──違いますか?」
「…………仰るとおりです」
彼が答えた途端、その身を包んでいた業火は、舞い散るように消えた。
「……懇意にしている医師に頼み込み、死亡診断書を書かせた私は、あ奴らがどう出るかを、密かに監視しました。……すると、さっそく北郷が餌にかかった。遺書の内容を密かに覗き見たあの男は、今回のことを朱美と紅江に持ちかけたのです!」
込み上げて来るか、マジュウの声は憎悪に震えていた。
「……奴の計画は、すでにお察しのことでしょう。しかし、本当は遺産を半分横領て、山分けするだけではありませんでした。……これは朱美たちにも秘密にしていたようだが、あ、あの男は……私の金だけではなく、碧花さえも自分の物にしようとしていたのです!
……私はそこまで知った時、奴だけはこの手で始末しなければならないと決意しました。私はその時から──眼球だけオヤジとなったのだ!」
揺るぎない決意の露われかのように、マジュウは再び節足を踏ん張って立ち上がった。まだ、蝕むモノは、まだ焼き斬られていないのだ。
「……ナルホド」燎子はいったん目を伏せると、携帯電話をジャケットにしまい、「……ですが、どんな理由であろうと見過ごすわけにはいきません」
「……無駄ですよ。オヤジと言うのは、元来頑固な生き物なんですから」
「……そうなのですね。──しかし、先ほども言ったはずです」
彼女はそこで、脚を開き、腰を落とし、半身になって、居合斬りのような構えを取った。
「……燃やして燃えない物はない、と」
澄んだ瞳の中に相手の姿を映し出し、燎子は告げた。
そして間もなく、決着の瞬間が訪れる。
「うおぉぉぉぉぉ!」と雄叫びを上げながら、眼球だけオヤジは、節足で地面を蹴って弾き出された。
これを迎え撃つ燎子は、すでに述べたとおりの格好のまま、静かに待つ。
両者の距離は、見る間に縮まって行った。
──すると、マジュウは何を思ったか、弾き出された傍から前節足を地面に突き刺し、自らブレーキをかけたではないか!
これには彼女の顔筋も、本来の仕事を思い出させられたらしい。見開かれた鳶色の眼の中で、巨大なガガンボは体を縦に回し、後ろ節足を着いてブリッジの体勢を取った。
必然的に、探偵のすぐ目の前には、銃口のような昆虫の腹の先が突き付けられる。
「……オヤジの武器と言ったら、やはりコレでしょう! 喰らえ──“香る一発”!」
刹那、黒い砲門から黄土色を帯びたガスが、さながら間欠泉の如く噴射された!
彼の半身はガガンボでもアメンボでもなく、ミイデラゴミムシだったのか。とにかく、恐るべき威力の「一発」が、至近距離から燎子を襲う。
爆風の如きガスは彼女の得物の刃に引火したと見え、燎子の姿は瞬く間に、火焔の中に消えた。
業火に呑み込まれた彼女は、全身を焼かれる苦痛を味わったことだろう。また、あまりの熱気に、断末魔すら上げられなかったとしても、おかしくはない。
少なくとも、普通の人間ならそうなるはずである。
「思い知ったか! オナラ──もとい、オヤジのチカラを!」
彼はブリッジの姿勢のまま顔だけを上げて、炎の壁の向こうへ叫んだ。
直後、業火は咆えるようにひときわ強く燃え上がる。
──かと思うと。
火焔はまるである一点に流れ込むように、彼女の握るライターの先へと集約されて行く!
「な──何⁉︎」
マジュウが喫驚した声を上げた時、そこにあったのは、未だ炎の剣を構えている、燎子の姿だった。彼女は頬をイッパイに膨らませ、必死に息を止めているらしい。
探偵はそのまま踏み込んだ足に力を込めると、さらに腰を捻って勢いを付け、
「……燃やして燃えない物はない!」
意地なのか何なのか。口を開けずに叫びながら、燃え狂う刃を振り抜いた。