鵺退治①
少年は籐椅子から転げ落ち、床にヘバリ付いた。体を起こそうと腕を立てた途端、彼は嘔吐してしまう。
げえげえと胃の中身をぶちまけた宰は、口許を拭いながら、荒く息をしていた。
「……………………吐き、出さなきゃ…………全部、戻さなきゃ……」
そんな呟きを喘ぎ喘ぎ漏らすその顔は、笑っていた。
いや、単にそう見えると言うだけで、実際の感情とは無関係なのだろうが。──つまり、精神のバランスが崩れかかっているが為に、表情が歪んでしまっているのだ。
彼は自らの手を口に突っ込み、なおも嘔吐を続けようとする。少女と見紛うような顔貌の彼が、獣じみた呻きを上げながらヨダレを吐くさまは、狂気的な光景であると同時に、とても痛々しいくもあった。
──そして。
いつの間にか彼の背後には、黒い和服を着た女が立っていた。
「緋沼朱美」は、悲しげな表情で少年を見下ろす。
しばし唇を固く結んで黙っていた彼女だが、やがて宰の傍に膝を着き、
「……大丈夫、あなたは何も悪くはございません。ですから、どうかそのようなことはおやめください」
諭すような声で言いながら、彼の腕を掴んで、口から指を抜き出させた。
宰は彼女の存在に気付いているのかいないのか、汚れた床を一心に見つめたままだ。
「……食べちゃった……朔姉を……朔姉を……」
「……違います、宰様。本当は、あなたではないのです」
「──え?」
そこでようやく、彼は朱美の顔を振り仰いだ。
「朔様や敬紫様を喰らったのは、あなたではございません。どうか、気をシッカリ持ってください」
彼女はまっすぐに目を合わせてそう言うと、胃液と吐瀉物で汚れた少年の口許を、着物の袖で拭った。
宰は正気を取り戻しつつあるのか、戸惑って表情で、
「あ──あな、たは……?」
「私は現在の古神家の臨時当主──朱美と申します。あなたのお祖父様の部下の一人で、黒巫女たちの教育係をしておりました。──鶫様も、私が黒巫女として育てたのですよ?」
「か、母さん、も……?」
「ええ。鶫様は私の見て来た弟子の中でも、特に優秀でした。……例の病がありながら、厳しい修行に耐え抜いたのですから」
一瞬だけ遠い日々を懐かしむように微笑んだ朱美は、宰に寄り添いながら、共に立ち上がった。
「……お話しなければならないことがございます。さあ、こちらへお座りください」
少年を籐椅子に落ち着かせると、彼女は部屋の奥の棚に向かい、中から二つの物を取り出して来た。
ほどなく、宰の目の前のテーブルに置かれたのは、燎子のライターと黒い小瓶。
「この二つをあなたに渡すようにと、敬紫様から言い付けられておりました。宰様のお力になるはずだ、と」
「僕に? ──で、でも、このライターは篝さんの物で」
「今はそうですが、元々はあなたのお父様の武器です。……あなたはこのライターの『曰く』に、適合できる」
「そ、それはつまり──僕にも使えるってことですか⁉︎」
「はい。あなたは先代探偵の実の息子。つまり、『繋がり』があるのでございます。──事実、一昨日は本能的に、力を引き出していたでしょう?」
「……た、確かに……そうだった、みたいですけど……」
「……それから、こちらの瓶でございますが、この中にあなたの血が入っているのは、覚えてらっしゃいますね?」
「は、はい……」
「あなたは、人間蠱毒を生き延びた。つまり、あなたの体に流れる血は、それ自体がある種の毒薬と化しているのです。──そして、これこそが、他の家筋に対抗する際の最大の武器となる」
「最大の、武器……」
「ええ。……あなたの血には、敬紫様から与えられた『設定』──すなわち、『曰く』が宿されているのですから」
そこで宰は改めて、朱美が取り出した品々に目を向けた。そこにあるのは、謂わば二つの「曰く」付きの武器。
──すると、彼女の手がそれらを取り上げ、
「とにかく、受け取ってください」
有無を言わせず少年の装束の左袖の中に、手にしていた物をしまい込んだ。
「あ、あの……朔姉は、生きていたんですね……? 本当は、七年前に死んだんじゃなかった……」
「左様でございます。──そして、そのことを知った私は、密かに朔様を逃して差し上げました。敬紫様がお気付きにならぬうちに。……それ以来、彼女の居場所を知っていたのは、私と観月だけでした」
「観月、姉が……? ──じゃあ、やっぱりあの二人も!」
「ええ、我々の仲間でございます。もっとも、葉月は七年前の蠱毒や、今回の件には関わってはいませんが……。
──とにかく、朔様は生き延びておられました。……が、しかし、やはり敬紫様の目を欺き続けることはできなかったのです。それどころか、本当はとうにバレていたのでございましょう。──敬紫様も、わかっていながら見逃していたのです」
「え……?」
「……この部屋にあるアルバムは、すでにご覧になりましたね? あの方は、鶫様を溺愛しておられた。にもかかわらず、最愛の娘を供物に捧げた──それが、あの方にとっての歪みでした」
「歪み……」
「ご理解いただけないでしょうし、私も確かなことは存じません。しかし、あの方なりに苦悩──後悔や激しい自己嫌悪──があったことは想像できます。……娘や孫たちの命と、一族の存亡。その狭間で苦しみ続けた敬紫様は、歪みを超克する為に、七年もの歳月を費やされました。あの方がブレてしまっては、あなたの血に与えた『設定』を定着させられないのです……。
──そうして、どうにか想いを貫き通した敬紫様は、最後にあなたの手によって命を絶たれることを望まれた」
「そ、そんな! か──勝手すぎる!」
「仰るとおり、とても身勝手なことでございましょう……決して許されはしませんし、元より許しを乞うつもりもございません。──ですが、無為にもできないのです。あの方がして来たこと……そして、犠牲となった多くの命を!」
朱美はまっすぐに宰の顔を見据えてそう言いきった。その瞳には、決然とした意志の火が灯されていた。それは少年にも伝わったのだろう、彼は一瞬たじろいだ表情を見せる。
「我々の行った儀式の為に、五人もの人間が亡くなりました。もしこれであなたが敬紫様の跡を継がず、我が一族が滅びるようなことがあれば、彼女らの犠牲や敬紫様の苦悩は、全て無駄だったことになってしまいます。それだけは、それだけは絶対に、あってはなりません」
「で──でも、僕は、僕は……」
「どうか、よくお考えください。正式な血を引く後継者は、もうあなたしかいないのです! 鶫様や朔様の死を無駄にはなさらないでください。どうか、どうか……!」
彼女は椅子の前に跪き、額を床に着けながら懇願した。
(ぼ、僕は……いったい、どうしたらいいんだ……⁉︎)
酷く狼狽した様子の少年を、朱美は昏い瞳でさりげなく見上げる。
後もう一押しで、彼は流されてしまいそうに思えた。そして、闇の巫覡の一族に迎え入れられ、やがてはその長として君臨するだろう、と──
「ぼ、僕は……」
再び宰が意味のない声を発した、その時。
──彼の背中の先にあるドアが、開く。
「──迷うことはないさ。君がどのような選択をしたとしても、君の家族の命は無駄にはならない。みんな、君の中で生き続けるのだからね」
戸口に立った彼は、低いがよく通るバリトンボイスでそう言った。
首を捻り、その姿を目にした宰は、直後喫驚の声を上げる。
「た──高村警部⁉︎」
全身ボロボロに傷付いた高村は、イカツい顔で微笑みかけた。




