アンノウンⅡ①
深夜零時を過ぎた頃。
リビングのソファーからずり落ちた宰は、「痛っ」と言う声と共に目を覚ました。薄暗い部屋の中で体を起こした彼は、眠たそうな瞳を擦る。
冷たい水の底から見上げるような月明かりが、カーテンの隙間から暗い室内に差し込んでいた。
(……そうか、いつの間にか寝ちゃってたんだっけ……)
彼が目を向けると、カーペットの上では、未だに燎子が寝息を立てていた。体を丸めている姿や横顔は、案外無垢い。
彼女の様子を見下ろしていた宰は、眠りに就く前のちょっとしたアクシデントを思い出したのか、一人赤面する。
(と、取り敢えず、自分の部屋に行って寝直そうかな! うん!)
誰にともなく宣言し、彼は立ち上がった。ダイニングの方にも灯りは点いておらず、姉妹の酒宴はすでにお開きとなっているらしい。
宰はそのままドアへと向かいかけた──が、すぐに足を止めた。
「ん?」と、不思議そうな声を漏らした彼の視線は、テーブルの上──二機のコントローラーやテレビのリモコンなどと一緒に置かれている、ある物体に吸い寄せられる。
──それは、小さなレッサーパンダのぬいぐるみだった。
あの可愛らしい雑食動物を象ったおもちゃが、チョコナンと円らな瞳で宰を見上げているのだ。
「これって確か──小さい頃に買ってもらったぬいぐるみ!」
少年は驚きながらもはしゃいだ様子で、それを手に取った。長い尻尾も含めて大きさは二十センチほど。それなりに古いらしく、一見するとかわり辛いが、ところどころ焦げ茶色の汚れが着いていた。
(スゴイ、懐かしいっ! ……でも、なんでこんなところにあるんだろう? 今の家に引き取られる時に、気が付いたらどっか行っちゃってたはずなのに……)
暫時不思議そうにレッサーパンダを見下ろしていた宰は、そこでふと思い出したように、
「あ、そうだ。確か、この辺りを」
ぬいぐるみのお腹を軽く右手で押さえた。
すると、学名「炎色の猫」はやや不明瞭な声音で、
『……コンニチハ、元気? 今日もちゃんと、二本脚で立ててる?』
「まだちゃんと声出るんだー。て言うか、こんな深い感じのセリフだっけ?」
少年は嬉しそうに、再び綿の中のボタンを押す。
『……コンニチハ、元気? 今日もちゃんと、二本脚で立ててる? ……』
先ほどと全く同じ声に、おなじ言葉。
しかし、今度は最後の方に、微かなノイズが走った。
『……コンニチハ、元気? 今日もちゃんと、二本脚で立ててる? ……こ』
「──こ?」と首を傾げた宰は、すぐさま四度目のセリフを聞く。
『……コンニチハ、元気? 今日もちゃんと、二本脚で立ててる? ……こ──ろ』
その瞬間、彼の表情が凍り付き、髪の毛がゾワゾワと動いた。何かしら、ゾッとさせられる雰囲気を感じ取ったのだろう。
(今、なんか変な声が──)
小さなぬいぐるみに釘付けとなる宰。
室内はそれきりシンカンと静まり返った。まるでこの家──いや、住宅地全体が、深い眠りに落ちてしまったかのように……。
すると、その時。
「………………ハッ⁉︎ バイトに遅れる!」
と言う、頓狂なのに抑揚の乏しい声を上げ、燎子が体を起こした。
当然ながら少年は喫驚したようで、「ひっ⁉︎」と小さく悲鳴を上げかけた拍子に、手にしていた物を落としてしまう。
彼が恐る恐る振り返ると、燎子は未だに寝惚けていうようで、
「…………ナンダ、今日は休みか……」
そんなことをホザいたかと思うと、再びそこに丸くなった。──そして、早くもスウスウと寝息を立てる。
あっけに取られた様子の宰は、やがて力が抜けるように溜め息を吐いた。
「……僕も早く寝直そ」
呟きながら、彼は先ほどのぬいぐるみを拾い上げた──
直後、それは起こった。
『……………………こ──ろし──て……お願い……』
少女の物と思しき声が、ひとりでに再生されたのだ。
それを聞いた少年は、今度こそ凍り付いた。
彼の右手の中で、レッサーパンダは再び人語を発する。
「…………こ──ろし──て……お願い──殺して』
最後にはハッキリと、その物騒なワードが聞こえて来た。
瞬間、宰の手から、再びぬいぐるみが零れ落ちる。
その足元でレッサーパンダが軽くバウンドした時、彼は頭の毛を掻き毟るように掴んだ。
(な──何、今の声……⁉︎ ──と言うか、前にもどこかで聞いたことがあるような……!)
宰は青褪めたまま、カーテンの引かれた窓とテレビラックの間の辺りに目を向けたまま、立ち尽くす。しかし、彼の瞳はすでにこの現実の景色を映し出してはいないのだろう……。
輻輳する思考回路。
絶対だと信じていた頭蓋の中身が、得体の全く知れないシロモノだと気付かされる感覚。
そうした渾沌的状況に少年が置かれているであろうことは、その表情や焦点のブレた眼から、容易に想像できた。
彼はいっそう強く髪の毛を握り締め、ガチガチと奥歯を打ち鳴らす。
「そ、そう、だ……ぼ、僕はあの時も……」
流れる雲が月を呑んだのか、細く差し込んでいた青白い光が遮られた。俄かに闇の深まった室内で、影法師は呆然と呟く。
「……………………ち、違ウ──オ、オレ……ハ……!」
少年は、そこでようやく頭から手を離し、張り詰めていた糸が切れたかのように項垂れた。ダラリと力なく垂れ下がった両手は、邪悪な憑き物が落ちた──あるいはその反対に、「入った」ことを表しているのだろうか?
いずれにせよ、この時彼の中で何かが切り替わったことは、明らかだった……。




