副業①
翌日。
羽衣港を出発した小さな遊覧船は、水飛沫を立てながら、青緑色の波間を進んでいた。
容赦ない陽差しが注いでいるせいか、さして広くないデッキには、客の姿はほぼ見当たらない。今はある人物がただ一人、手摺に腕を乗せ、透明度の低い水面を見下ろしているだけだ。
すると、船内へと続くドアを開け、新たな乗客が影のように現れた。「影のように」と表現したのは、それが全身黒尽くめの格好をしていたのに加え、あまりにも静かに先客へと歩み寄ったからだ。
その人物も、彼女がすぐ背後から声をかけるまでわからなかったらしい。
「すみません、お待たせ致しました。なにぶん、いちいち変装をしなければならないもので……」
先客が振り返ると、そこにはまるで黒子のような格好をした女が佇んでいた。
彼女は和装──と言うか、神社で働いていそうな巫女の装束を着ているらしいのだが、お決まりの赤と白ではなく、どう言うわけか白衣も緋袴も一様に漆黒い。この炎天下にそんな格好でいては、たちまち熱を吸ってブスブスと煙が上がりそうだ。
声をかけられた人物も少々面食らった様子だったが、黒子は気にせず着物の左袖に手を入れた。
「ご依頼の品をお持ちしました。どうぞ、こちらを」
そう言って彼女が取り出したのは、黒いお年玉袋のような物だった。
塩っ辛い風を真横から受けつつ、その人物は恐々とそれを受け取る。
袋の表面には翅を開いた蛾を象ったらしい、白いマーク──家紋のような物が刻印されていた。
「使い方は予めお伝えしたとおりです。何も難しいことはございません。ただ強く、思い浮かべればいいのです。……なるべき姿を」
黒尽くめの巫女は不気味な笑みを、片頬に仄めかす。
しかし、その「何か」を受け取った人物は、もう彼女の存在など眼中にない様子だった。まるで魔物にでも魅入られたかのように、じっと羽撃く蛾の姿を凝視しているのだ。
(……これで、復讐ができる! この力で、裏切り者に天罰を……!)
顔中に浮かぶ汗も気にせず、袋を持つ指に力を込めた。それを見た女は、満足げに目を細め、
「……お客様に、蟲魅様のご加護がございますように……」
潮風に黒髪と着物の裾をはためかせるその姿は、まるで巨大な黒揚羽のようだった。
※
午後二時を過ぎた頃。
裏寂れた雑居ビルの二階に居を構える探偵事務所の中、宰は勢いよく頭を下げた。
「お願いします! 僕にマジュウのことを教えてください!」
対して、書斎机の向こうから寄越された返事は、
「……………………勘弁シテクダサイ。…………あと、あんまり大きい声出さないで。頭に響くから……」
力なく突っ伏した燎子は、死にそうな声を出す。どう言うわけか相当グロッキーらしく、敷きっぱなしの布団のようにグッタリとしていた。綺麗なはずの髪も、残念なことに酷く痛んでボサボサになっている。
ロクに吸わないうちから灰皿に置いた煙草の煙は、線香を焚いているようだった。
「そこを何とか──て言うか、なんでそんなにシンドそうなんですか? やっぱり、まだ昨日のダメージが……?」
顔を上げ──左頬の絆創膏は、新しい物に変わっていた──、宰は心配そうに尋ねた。
その問いに答えたのは、高村だった。
「気にすることはないよ。ただの二日酔いだそうだから」
イカツい顔に微苦笑を湛えた彼は、アイスティーらしき物が注がれたグラスを、そっとデスクに置く。見ると、応接用のテーブルにも同じ物が二つあり、さらに手作りらしきクッキーが皿に盛られていた。
「二日酔い、ですか……」
後ろを軽く振り向いた宰は、再び彼女の姿を見下ろした。
燎子はヨロヨロと体を起こし、大儀そうにグラスに手を伸ばす。昨日ゼロ距離からの粉塵爆発に巻き込まれておきながら、負傷らしい負傷は右手くらいにしか見当たらない。回復力が異常なのか、それともそもそも「造り」が頑丈なのか……。
(……なんだろう、篝さんの怪我ことがなんとなく気になるような……よくわからないけど、謎の罪悪感みたいなのが……)
宰の視線は、彼女の包帯を巻いた右手に向けられていた。
すると、少年が急に黙り込んだのが気になったのか、燎子は小首を傾げる。
「……何? ……どうかした?」
「えっ──い、いや別に! なんでもないです」
慌てて空笑をする彼を、燎子はやはり無駄に澄んだ瞳で見つめ、高村もまた不思議そうな視線をその背中に投じていた。
「と、とにかく、知りたいんです! マジュウのことや、霧海について! お願いします! 僕に教えてください!」
「……だから、頭が痛いんデスケド……」
額を押さえてみせた彼女は、左手で灰皿の煙草に手を伸ばす。
「……なら、高村警部に教えてもらいなさい。……警部も、大丈夫ですよね? ──と言うか、その為にわざわざ来てくださったのでしょう?」
そう言って煙草を咥えた燎子の言葉に、宰は意外そうな様子で振り返った。
警部は気恥ずかしそうに頬を掻く。
「まあ、二人の様子を見る目的もあったがね。……しかし、いいのかい? 君はてっきり反対するかと……」
「……構いません」
彼女の短い答えから何事か察したのか、高村もそれ以上は尋ねなかった。
「では、こちらへ来たまえ古神くん。今日は、簡単な物だがクッキーを焼いて来たから、一緒に食べながら話を聞いてもらおう」
「は、はいっ、ありがとうございます!」
かくして、宰が依頼人用の席に、高村が昨日燎子が座っていた側にそれぞれ腰下ろし、マジュウに関するレクチャーが開始された。
「……さて、もう君もわかっているかも知れないが、マジュウとは大雑把に言ってしまえば、異形の姿となった犯罪者のことだ。彼らは、『最も強く影響を受けた漫画やアニメ等のヒーロー、ヒロインに関する記憶』を基に、巨大な昆虫と融合した怪物となって、犯行に及ぶ。──そして、ここで一つ注意しなくてはならないのは、マジュウ化した者も、元々は普通の人間と言うことだ」
「はあ。……でも、それじゃあどうやって変身を……?」
「詳しくすると長くなるから省くが……彼らは、謂わば即席品の呪力とでも言うべきシロモノを使って、あの姿になるんだよ。……我々はこの力のことを、『蟲』と呼んでいる」
「『蟲』、ですか……」
「うむ。『蟲』には今言ったような、使用者の中に根付いている、漫画やアニメなどの登場人物から受けた影響を、引き出す効果がある。──が、しかし、それは完全な姿ではなく、必ず歪んだカタチとして顕現されるんだ。あのおもちゃのお面や安っぽい衣装、そして昆虫のパーツは、ここから来ているわけだね」
「な、なるほどぉ……。つまり、その『蟲』さえあれば、誰でもマジュウになれるんですね?」
「そう言うことだ。──ここまでは理解できたかな?」
「は、はい、一応は……」
突飛な話にもかかわらずスンナリと受け入れられたのは、身を持ってそれを体験した後だからだろう。
そして、理解すると同時に、新たな疑問が浮かんだらしい。
「……でも、マジュウになる人たちは、どうやって『蟲』を手に入れるんですか? まさか、どこかで売ってるわけじゃないですよね……?」
「……その『まさか』さ。──彼らはある人物、または組織から、『蟲』の込められたお札を買うことにより、マジュウになる力を手に入れる」
「か、買えるんですか⁉︎」
「うむ、困ったことに、売り捌いている連中がいるんだ。それも、大昔──何百年も前からね」
「そんなに昔から……」
「だからこそ、我が国では、古くから霧海が発生する──つまり、マジュウによる事件が起こると言うわけだ。
──ちなみに、これももう薄々わかっているだろうが、霧海は本物の霧ではない。ただそう思い込まされているだけなんだ。……だから、人体に害を及ぼすと言うのも実は嘘だし、一度マジュウの姿を完全に認識した者の目には、映らなくなる」
「でも、どうして毒があることになってるんです?」
「人払いの為さ。なるべく無関係な市民が巻き込まれぬよう、『霧海の霧は有害』と言うことにされているんだ」
つまり、ある意味敵の性質を利用して来たと言うわけか。それも、何百年もの間。
「話が少し逸れたが、とにかくマジュウ事件の裏には、『蟲』を売る不届き者がいる。……そして、彼ら──いや、彼女らと言うべきか──こそが、我々の本当の敵。……“黒巫女”と称される、闇の呪術者集団なのだよ」
「じ、じゃあ、もしかして、昨日の山火事も……⁉︎」
「そう、おそらく黒巫女の仕業だろう。──そして、例のアンノウンとやらも、彼女たちが何か関係しているはずだ」
「アンノウン……」
少年が呟いたところで、不意に高村のズボンで振動音が鳴った。スマートフォンを取り出した彼は、「失礼、部下からだ」と断ってから立ち上がり、ソファーを離れて電話を取った。
「もしもし? ……ああ、まだ篝くんのところにいるよ」
高村が通話している間、宰は顎に人差し指を当て、中性的な仕草で一人小首を傾げていた。
(やっぱり、昨日のことで何か忘れてるような気がするんだよなぁ……うーん、なんだろう?)
最後には声に出して唸っているその姿を、燎子は無気力そうに煙草を燻らせながら眺めていた。相変わらず考えの読めない顔付きだが、それでも何かしら引っかかったようだ。
「──そうか、わかった。すぐに現場へ向かおう」
ほどなくして、通話を終えた高村は、スマートフォンをしまいつつ部屋の奥を振り返る。
「篝くん、出動要請だ。この付近で、霧海が発生した」
「……わかりました。……ちょうど今日はバイトもありませんし、稼ぎに行きましょう」
微妙に締まらない返事をしつつ、灰皿に煙草を押し付け彼女は立ち上がった。
そして、テーブルの傍までやって来ると、宰には目もくれずに、
「……君は留守番をお願い。……適当にここの掃除でもしていて」
「ぼ、僕も連れて行ってくれるんじゃないんですか⁉︎」
「……当然。……昨日みたいに巻き込まれたら面倒だし、正直邪魔」
「そ、それはそうですけど……。でも、ここまで来たら、もっといろいろ知りたいんです! ──お願いします、危ない目に遭っても文句は言いませんから、同行させてください!」
勢いよく立ち上がった宰は、必死に訴えかけた。
が、やはり彼女はにべもなく、
「……君はよくても、君のお姉さんたちは違うと思うよ。……私は二人から君のことを頼まれてる。……危険だとわかってて来させるわけにはいかない」
「…………ぐっ。は、はい……」
一応は素直に頷いたものの、まだまだ諦めきれない様子である。
──すると、意外なところから助け舟が出された。
「そこまで言うのなら、連れて行ってあげたらどうだね?」高村は、鷹揚に続けた。「離れたところから見ているぶんには、さほど邪魔にはならないだろう」
「……ですが」
「心配せずとも、今回は初めから私たちがいる。彼が巻き込まれぬよう注意しておくよ。……それに、いざと言う時は、君が護ればいいだけじゃないか。先代がそうだったように」
「…………」
「──もちろん、自信がなくなったと言うのなら、話は別だがね」
穏やかな口調のまま、彼はなかなか無茶なことを言う。
暫時冷徹たい瞳で少年を見下ろした探偵は、やがて目を伏せ、
「…………わかりました。……同行を認めましょう……」
どうやら高村の言葉は、彼女にとって少なからず影響力を持っているらしい。
「……彼一人を護るくらい、余裕です。マジュウを秒殺すればいいだけですので」
無愛想に言うと、さっさと出て行ってしまった。見た目のクールさに反して、意外と単純な性格なのかも知れない。
それを見送った少年は、むしろ一番不思議そうな様子で、
「あ、あの、本当にいいんですか?」
「もちろんだとも。君はもうすでに一度マジュウの事件に巻き込まれている。……いや、むしろ、それよりずっと以前から、無関係ではないのだからね」
「え?」
その意味深長なセリフを、当然ながら宰も聞き逃さなかったらしい。
が、しかし、彼がそれについて尋ねるよりも先に、背後のドアが控えめに開き、
「……まだですか?」
「ああ、すまない、今行くよ。──と、その前にテーブルの上を片付けなくては」
せっかちな子供のように顔を覗かせた燎子に答え、高村はグラスと皿に手を伸ばす。
結局そこではそれ以上話をせずに──そして、全くクッキーを賞味しないまま──、彼らはマジュウ狩りの現場へと向かった。




