アンノウン③
依然、大火に蹂躙される雑木林の中を、燎子は左手の甲で口許を抑えつつ進んで行った。
館から拝借したらしい消火器を一つ、脇に抱えながら。
辺りはまるで地獄の竃のような惨状で、普通なら目を開けているのが精一杯だろう。しかし、それでも彼女は懸命に瞳を動かし、少年の姿を捜しているようだった。
(……この火事も、あのマジュウの存在がキッカケで起きたと考えて間違いない。……ならば、二人は火元の近くにいる可能性が高い、はず……)
燎子は素早く周囲を見回し、木々や草花の燃え方を瞬時に観察しているらしい。いったん立ち止まりかけた彼女だったが、何か確信に至るヒントを見付けたのか、すぐにまた駆け出した。
そこからの燎子の足取りには、一片の迷いも見受けられなかった。
──頭蓋館にて披露したトンデモぶりを見る限り、彼女の推理法は飛行機とよく似ている。飛行機が──あのような鉄のカタマリが──、何故空を飛べるのか。「ベルヌーイの定理」と言うモットモらしい説明がよく用いられるが、実はこれだけでは完全に証明しきれていない。実際の翼は完全流体ではなく、上と下を通った風は一点で合流するとは限らないからだ。
しかし、それでも──飛行機は飛ぶ。
原理が不明だろうと、こじ付けの定理だろうと、空を駆け遥か彼方まで行くことができるのは事実だ。
──そして、燎子のトンデモ推理も、過程はどうあれ真相に辿り着いてはいた。力尽くで、正直野蛮とさえ思えるやり方だが、それ故誰よりも神速い。
──果たして、燎子はまたしても、そこに着地しようとしていた。
前方に、少年の姿が見えたのだ。
「バイトくん!」
「か──篝さん……⁉︎」
彼女が呼びかけると、宰は驚いた様子で振り返った。衣服は土や煤でスッカリ汚れており、左頬の絆創膏も半分取れかかっていたが、それ以外に特に変わった様子はない。
安堵の表情を浮かべた少年は、すぐさま不思議そうに首を傾げた。
「ど、どうやってここを?」
「……別に、簡単な推理をしただけ。──そんなことより、彼は?」
「えっと……さあ? すみません、気が付いたらいなくなっちゃってました」
「……そう」短く呟いた燎子は、すぐさま踵を返した。「……さっさと戻るよ。……丸焼きにされたくないでしょ?」
「は、はい!」
彼女は躊躇いなく消火器の安全栓を抜き、負傷している方の手でノズルを構えた。そんな物で消火できる規模ではないのだから、逃げ道を確保する為に使うのだろう。
「…………」
彼は背後を気にしている様子だったが、結局そのまま燎子に続いた。
※
夏の夕空の下、駆け付けた消防隊により、懸命な消火活動が行われていた。
幸い、この山火事は一部が激しく炎上しているだけで、規模自体はさほど大きい物ではない。火災発生から通報までが迅速だったこともあり、このまま飛び火さえしなければ、大事には至らないだろう。
よって、火事その物による被害は、今のところ森の一部を焼くのみで済んでいるのだが……。
──中庭の片隅。
地べたに座り込んだ碧花は、血に染まった手袋を握り締め、声を押し殺して泣いた。他の家族たちも、あれほど険悪であったのが嘘のように、みな戸惑っている様子だった。
──すると、二度目の「別れ」に直面する彼らの元に、壁に穿たれた大穴を潜り、ある人物が近付いて来る。
「お取り込み中失礼します。こちらにお住いの方たちですね?」
低いがよく通る声でそう尋ねたのは、イカツい顔立ちをした大柄の男だった。
「そ、そうですが……何か?」
怪訝そうな顔で、朱美が聞き返す。
「私、羽衣署所属、霧海被害対応課の者です」その男──高村は、取り出した名刺を彼女に渡した。「本日このお宅で、超局地的な霧海が発生したとの報告を受け、お話を伺いに参りました」
彼の言葉に、緋沼の者たちはハッとした様子だった。おそらく、屋内に発生した霧と言う異常現象と、それに輪をかけて非現実的なマジュウの存在を思い出したのだろう。
それまで泣き崩れていた碧花も、涙で濡れた顔を上げ、高村を見つめた。
「け、警察の方ですか⁉︎ ちょうどよかった!」
錯乱気味に叫んだのは、秘書だった男である。先ほどの恐怖が抜けきらないのか、ポマードまみれの髪を振り乱した北郷は、縋り付くように、
「私、襲われかけたんです! 死んだと思っていた男が実は生きていて、しかも突然変なお面の怪物になって!」
「ほう、怪物ですか。それは奇妙なお話ですな」
「う、疑ってるんですか⁉︎ ですが、私だけじゃありません! ここにいる人たちは、みんなあれを見てるんです! ──ねえ、そうですよね?」
振り返った彼は必死の形相で尋ねるが、女たちは何も言わなかった。
北郷はじれた様子で、再び警部へと訴えかける。
「とにかく、本当なんです! 信じてください!」
「ずいぶん恐ろしい目に遭ったようですね。まあ、落ち着いてください。よろしければ、キャラメルでもどうです? 甘い物は、霧海の毒によく効くんですよ」
そう言って、高村はスーツの上着から取り出したお菓子の小袋を、ポカンとしている男の手に素早く握らせた。
そして、一見物わかりのよさそうな笑みを湛えたまま、
「では、その点も踏まえて、補償のお話をさせていただきましょうか」
「ほ、ほしょう?」
素っ頓狂な声で繰り返し、彼は眼鏡をかけ直さずに目を瞬かせた。他の者も、概ね同じような反応をする。
「ええ。つまり、みなさんが霧海によって被った損害を、何もかもこちらで負担させていただくと言うことです。──お屋敷の修繕費はもちろん、精神的なケアにかかる費用も、全額お支払い致しましょう」
「……つまり、金を払うからバケモノのことは忘れろと?」
腰に片手を当てつつ、紅江が不審感を露わに尋ねる。
「そう捉えてくださっても構いません。我々ムガイ課は、霧海による被害を補償させていただく為の窓口です。被害報告書類を作製致しますので、なんなりとお申し付けください」
高村の口調は丁寧その物だったが、その実暗に選択肢はないことを告げていた。
彼の姿を呆然と見上げていた碧花は、そこでまた手の中の物に目を落とした。その持ち主の不在は、どんなに金を積まれようとも埋めらない。
彼女は唇を噛み締め、再び肩を震わせた。
「……………………では、取り敢えず新しい消火器をお願いします。……勝手に借りてしまいましたので」
抑揚の乏しい女の声に、碧花はヨロヨロと顔を上げる。
彼女が振り仰いだ先には、探偵と少年が立っていた。
宰の方は、まるで煙突でもひと潜りしてきたかのように全身煤だらけである──のに対し、粉塵爆発に巻き込まれたはずの燎子は、やけに小綺麗な格好に変わっていた。どうやら、わざわざどこかで着替えて来たらしい。
彼女は、予備の衣類が入っていたであろうトートバッグを肩にかけ、左手に消火器を提げていた。また、宰は宰で、何故か黒猫を抱いている。
「おお、二人とも無事で何よりだよ。古神くんも、初仕事だと言うのに災難だったね」
「……それより警部、少しみなさんとお話ししたいのですが」
「うむ、君の『役目』を果たしなさい」
鷹揚に答え高村は、大きな体をどかして燎子たちを通した。
すると、宰の腕の中にある物に気付いたらしく、
「ルナ! よかった、本当に見付けて来てくださったのですね!」
「あ──は、はい! 偶然そこで出会ったんですけどね」
慌てて答える少年から、藍奈は「ありがとうございますわ!」と礼を言いつつ、愛猫を受け取る。
「このご恩は忘れません! それこそ三日飼われた猫のように!」
本来ならば三日飼われただけで恩を忘れないのは犬なのだが……。宰は頭を掻きながら、ひたすらはにかんだ。
──彼らのやり取りを尻目に、探偵は右手をポケットに突っ込んだまま、口を開く。
「……紫郎さんから、ご家族の方々に伝言を預かっています。……ズバリ、遺言状の内容は無効にするとのことです。……これで、みなさんが望んだとおり、平等にわけ合えますね。メデタシメデタシ……」
冷酷に思えるほど淡々と、彼女はメッセージを告げた。
関係者たちはみな、その内容や燎子の態度に少なからず面食らった様子である。
ほどなくして、まっさきにそれに応じたのは、碧花だった。
「……そうですか……。ありがとうございます。……でも……助けてはくださらなかったのですね。……父のことを、助けては……」
彼女は泣き濡れた顔に、引き攣ったような笑みを浮かべてそう言った。感情の処理が追い付かず、エラーか起きてしまったかのような表情だ。
その姿を見た宰は、いたたまれなそうに目を伏せた。
それが普通の反応だろうが、その前に佇立した燎子は違った。彼女は相変わらず、「神経なんてございません」と言った風に、
「……ソンナコトヨリ、依頼料についてですが……依頼自体はちゃんと解決しましたし、もちろんいただけますよね?」
カケラも悪びれずに言い、彼女は首を傾げる。にもかかわらず、全く曇りのない瞳をしているのが、かえって異様に思われたほどだ。
一瞬、得体の知れない昆虫を見たかのように絶句した碧花だったが、すぐにまた口を開きかけた。
が、彼女が何か抗議するよりも先に、
「ちょっと、いい度胸しすぎじゃない? あんたがしたことなんて、騙し討ちで覆面剥がしただけでしょ。そんな偉そうなこと、よく言えたわね」
と、長女の隣に立った紅江が、眦を吊り上げ、
「この娘の言うとおりです。……主人の言葉を伝えてくださったことには、感謝します。ですが、そんな言い方はあんまりじゃないですか。……あなたのような人にお支払いする物など、何もございません。お引き取りください」
毅然とした態度で、朱美が告げた。「共通の敵」が現れた為か、ここに来て血の繋がらない家族たちに、不思議な「結束」が生じたらしい。
これには、ある意味碧花が一番驚かされたようだった。
彼女らの姿から依頼料をもぎ取るのは不可能と悟ったのか、首の角度を元に戻した燎子は、
「……残念デスネ。……では、もうここには用はないのでお暇させていただきます。消火器、ありがとうございました。──行くよ、バイトくん」
消火器を放り捨て、さっさと踵を返してしまう。
宰は戸惑ったように会釈だけしてから、例により慌ててその後を追いかけた。
「せっかくだから、送って行こう。──みなさんには私の部下がお話を伺いますので、よろしくお願いします」
と、高村も二人に続く。燎子の隣りに並んだ彼は、少し声を潜め、
「何と言うか、君は本当に損な性分をしているね」
「……ナンノコトデショウ」
「『憎まれ役』を演じる為に、わざわざ着替えて来たんだろう? まあ、君が異常なほどタフなことは知っているから、心配はしないがね。──とは言え、そのポケットの中の手は、ちゃんと治療した方がいいだろう」
「……………………ハイ」
そんなやり取りをが交わされる後ろで、宰はどこか釈然としなさそうな面持ちを、足元に向けていた。
やがて館の外に出、門扉まで来たところで、少年は一度振り返る。
夕闇に沈みつつある景色の中、山火事を背景に佇む頭蓋館。まるで少しずつ緞帳が降ろされるかのように、それは巨大なシルエットと化しつつあった。
──もっとも、長い永い物語のうち、ほんの一幕が終わったにすぎないのだが……。




