アンノウン④
古い型のスカイラインを降りた宰は、テールランプの光を見送ってから、後ろを振り返った。
彼が立っているのは閑静な住宅地の一角で、すぐ目の前には二階建ての可愛らしい一軒家があった。庭はごくわずかなスペースしかなく、道路と隣家にコジンマリと囲まれている。
(……大丈夫かな、予定より遅くなった上に、こんなボロボロの格好で帰って……)
憂鬱そうに溜め息を吐いた少年は、ほどなくして意を決したように、レバー型のノブを握った。
「た、ただいまぁ……」
それでもまだ不安げな様子で声をかけつつ、宰は中に入った。靴箱の置かれた小さな玄関からは、左右にドアの並んだ狭い廊下が伸びており、左手には上へ続く階段が見えていた。
すると間もなく、向かって右側の一番手前にある扉が乱暴に開かれ、一人の若い女──二十歳前後と言った年恰好で、まだ少女と呼んでもいいだろう──が、彼を出迎える。
「ゴラァ宰! こんな時間までどこで何してたんだ! 遅くなら事前にそう言えっていつも──って、汚っ⁉︎ つか焦げ臭っ!」
あまり女性らしいとは言えない口調で叫んだ彼女は、喫驚した様子で鼻を摘んだ。赤みがかったセミロングの髪を、オレンジ色のリボンでポニーテールに纏めており、健康的で行動力のありそうな印象を受ける。寛いでいたからか、それとも普段からそうなのか、彼女はボーダーのタンクトップに紺のホットパンツと言った、四肢が剥き出しの格好だった。
対して、弟は「面目ない」とばかりに頭を掻きながら、
「ごめん、葉月姉。ちょっといろいろあって……」
「いや何があったらそうなるんだよ。火事にでも巻き込まれたの? ──て言うか、お前頰っぺた怪我してんじゃねえか! 大丈夫か? アレなら医者行くか?」
見かけによらず過保護なのか、頬の絆創膏を見るなり葉月は狼狽え出した。
「い、いや、全然大丈夫。大したことないから」
むしろ申し訳ないとばかりに、宰は掌を見せてそう言った。
それでもなお「本当か? 遠慮しなくていいんだぞ? お前そう言うところあるからなぁ」と、心配し続ける姉に、宰はスニーカーを脱ぎつつ、
「本当に平気だよ。初バイトで疲れはしたけど、これくらい別に」
「は? バイト? ──お前、バイト始めたの……?」
「え?」
予想外の反応に、彼は片足だけ床に乗せたまま凍り付いた。宰はカクカクとギコチナイ動作で顔を上げつつ、
「……み、観月姉から聞いてないの?」
「……ない。……つうか、観月姉は知ってるんだな、バイトのこと。……なのに、私にはいっさい報告なしとか……何? 差別? 姉差別なのか?」
「ご、ごめん」サッと目を逸らし、「……反対されそうで、つい……」
「ほほう」
仁王立で腕組みをした葉月は、ジトリと目を細め、彼のことを見下ろしていた。
すると、助け舟を出すかのようなタイミングで、廊下の奥──玄関から見て左手のドアが開く。
そして、ホカホカとした湯気と共に出て来たのは、小柄な少女──にしか見えない──だった。
風呂上がりらしく首にタオルを引っかけた彼女は、宰たちに気付くと、ペタペタと足音を鳴らしてやって来た。
「おー、宰帰ったのかー。どうだった? 初仕事は」
暢気な口調でそう言った彼女は、マスカット色の可愛らしいパジャマを着ていた。後はもう歯を磨いて寝るだけと言った格好である。
髪の色は宰と同じ黒で、長さも割と近い。が、普通のショートヘアーではなく、横髪だけが他に比べ長めだった。葉月とは違ってかなり色白な上、華奢な体付きであり、「もやしっ子」と言う不名誉な渾名が似合いそうである。
アッケラカンとした彼女の言葉に、すかさずもう一人の姉が噛み付いた。
「観月姉! バイトのこと知ってたのかよ!」
「え? まあ、知ってるも何も、私が斡旋したからなぁ」
「はあ⁉︎ 中三の弟働かせようとすんなよな!」
「だって、『夏休みのうちにバイトして、少しでも家計の足しにしたい』って、宰が言うから。立派なことじゃないか」
「そう言う問題じゃねえだろ! ……つうか、いい加減お前が働けよプー太郎が。一年以上ニート決め込みやがってこのヤロウ」
「そ、それはほら……私にもいろいろ、覚悟やら心の準備やらが必要でな……」
痛いところを突かれたらしく、観月は語尾を弱めて目を逸らした。
これに対して妹──見た目的にはどう考えても逆だが──の機嫌は荒れる一方で、彼女は癇癪筋をまた一つ増やす。
「んなモンさっさと決めろよ! だいたい、見ろこれ!」着いて行けていない様子の弟を指差して、「観月姉が紹介したバイトのせいで、宰が怪我してんじゃねえか!」
「いや、本当にたいしたことないから」
と言う宰の言葉は、どうやら葉月の耳には届かないらしい。
威嚇する犬みたいに八重歯を剥き出しにした彼女に、長女はどこか小馬鹿にするような笑みを浮かべ、
「葉月は相変わらず大袈裟だなー。あれか? ブラコンと言う奴なのか、お前は」
「あーそうだよ? 弟超可愛いよ? 文句あんのかコラァ」
「……ない。ついでに異論もない」
何故かほのぼのとした感じで頬を押さえ、観月はそう言った。かなり個性の強い姉妹だが、そのお陰か宰の「次女に内緒でバイト始めた問題」は、スッカリ有耶無耶になっている。
彼は安堵した様子で、改めて中に上がった。
「とにかく、宰はさっさと風呂入れよな。着替え出しといてやるから」
「ああ、うん、そうするよ。ありがとう」
「……なんか、お前今日素直だな」
「そう? いつもと変わらないと思うけど?」
そう言って脱衣所に向かう宰の姿を、葉月は不思議そうに見つめていた。
──中に入りドアを閉めた彼は、洗面台に背中を向けたまま、シャツのボタンを外し始めた。
(……そう言えば……何か大切なことを忘れてるような……でも、なんだっけ?)
彼は暫時不思議そうに首を傾げていたが、ほどなくして、洗濯機の傍にある籠に脱いだ物を入れた。
「まあ、いいや。早くお風呂入ってサッパリしよっと」
独りごち、今度はTシャツに手をかけた。
すると必然的に、露わになった華奢な白い背中が、洗面台の鏡に映り込む。その裸身もどこか中性的であり、むしろ後ろ姿だけ見れば、まるっきり乙女のそれだ。
──そして、よく見ると、肌の下から浮き出た肩甲骨の辺りに、何か一対の痣のような物が。
赤紫色をしたそれは、まるで小さな蝶──あるいは、蛾の翅を思わせる形状をしていた……。




