アンノウン①
呆然と呟いた燎子の瞳の中で、老人は膝を着いた。しかし彼は完全には倒れず、自らの胸に風穴を穿った存在を、呆然と見上げる。
──その乱入者の顔にも、チャチなお面が貼り付いていた。白い髪の少女が、ウインクしながらペロリと口の端に舌を出して笑っているのだ。
酷く場違いな顔の下には、グルグルと包帯を巻いたヒョロッちい体が。そこだけ見れば、まるで王家の谷から蘇った木乃伊である。
また、背中に垂れ下がった大きな翅や、首回りを覆う白いフサフサした毛など、その姿はどことなく蚕蛾を思わせた。
「…………」
蚕マジュウは無言のまま、数滴の返り血が付着した笑顔で紫郎を見下ろしていた。
すると、そのお面の下半分──端と端を結ぶ形に、横線が走った。さながら絡繰人形の顔が一瞬にして鬼女と化すように口が裂け、その隙間から、気味悪く蠕動する無数の暗黒が覗く。
──刹那、彼女は素早くライターの蓋を開けて炎の剣を着火し、スサマジイ神速さで斬りかかった。
「……その人から──離れて!」
まごうことなき必殺の一撃──に対し、マジュウの取った行動はただ一つ。
徐に右腕を伸ばし、「止まれ!」とばかりに真っ赤な掌を向けたのだった。
すると、斬撃は見えない盾に阻まれるように、空中で受け止められてしまったではないか。
──のみならず、突然意思を持ったかのように逆流し、あろうことか持ち主の手許に食らい付く!
(──私の炎が乗っ取られた⁉︎)
燎子はとっさにライターから手を離し、燃え狂う刃を──胸が少し危なかったが──躱した。途端に火焔は消え、彼女は落ちて行くそれを掴み取り蓋を閉じる。
と、思う間もなく、白い翅が彼女の顔面を殴り付けた。動揺の為かマトモに強打を受けた燎子は、その場でグルリと回り、うつ伏せに沈められてしまった。
彼女はそれでもすぐさま立ち上がったが、頭蓋の中身がミキサー状態になっているらしく、振り向く際はわずかながら蹌踉めいた。
(……どうして、マジュウが『曰く』の力を……? そんなこと、できていいはずがない……)
鼻からトロリと血が伝い落ち、唇の端も婀娜婀娜しく紅を塗ったかのように滲む。
するとそこで、先ほど蚕マジュウが現れた窓から、少年が姿を覗かせた。
「か、篝さん! その人、棺桶の中から出て来たんです! 小窓を開けて覗いてみたら霧が詰まっていて、それで……!」
「……棺桶?」
彼を一瞥した探偵は、改めて静かな瞳で敵を睨む。そして、地面を蹴り付け、再び弾き出された。
燎子の放った渾身の飛び蹴りを、マジュウの翅が純白の装甲となって阻む──と、同時に、靴底から火焔が噴き出した。彼女はさらに、空中にいるわずかな時間に拳撃の嵐を浴びせ、着地すると共にトドメの後ろ回し蹴りを炸裂させた。
人間離れした猛攻の連続により、剥がれ落ちた鱗粉が季節外れの粉雪のように舞っていた。
が、しかし、それでもまだ翅をこじ開けるには至らない。
燎子はすぐさま弓を引くように腰を捻り、お手本のように流麗な右ストレートを繰り出した。
そして、その鉄拳の先が翅の表面に触れるか触れないか、と言ったその瞬間──
彼女の掌の中から、爆炎が上がった!
「──しまっ」
「た」と言い終えるよりも速く、火焔は周囲を舞う鱗粉に引火。連鎖的に膨張した紅蓮の炎が、燎子の上体を見る間に呑み込んだ。
──粉塵爆発と言う奴か。
喩えるなら、栓を抜いた手榴弾が、投げ付ける前に暴発したようなものである。常人なら──いや、人間ならば誰であろうと、ヒトタマリもないだろう。命を落とす、あるいは一生消えない傷が残ったとしても不思議ではない。
「か──篝さん⁉︎」
宰が悲鳴を上げた時、爆風はゆっくりと収束して行った。晴れて行く景色の中、彼女は膝から順に倒れる。焼け焦げズタボロになった体の至る場所から、煙を立ち昇らせて……。
幸い顔や頭の方はまだマシのようだが、右腕──特に掌の損傷が激しく、ドロドロに糜爛した赤黒い肉のカタマリと化していた。むしろ、それでいて五指のうち一つも欠いていないのが不思議である。
「……………………くっ…………そ……!」
あれだけの爆発に巻き込まれておきながら意識を保っている辺り、ある意味彼女も「化け物」だ。
苦しそうに顔を上げた燎子は、一メートルほど先に転がったライターをどうにか掴もうと、左手を伸ばした。
すると、その時。
「……探偵さん、もう、結構ですから……」
紫郎は全てを悟ったような、不思議なほど穏やかな顔を向けてそう言った。
「……ただ、一つだけ……伝言をお願いしても、いい、ですか……? ……あ、あの遺言は取りやめにする、と……碧花たちに、伝え」
彼が言い終える前に、マジュウのお面の裂け目から黒い触腕のようなモノが無数に飛び出し、老人の体に群がった。
──見る間に彼の姿を覆い尽くしてしたのは、どこにしまわれていたのかと思うほどの百足の大群だった。それも、一匹一匹がニシキヘビほどもあり、猛悪な不快さでうねり、絡み、蠢きながら、獲物の体表を這い回っているのだ。
まさしく悪夢としか言いようのない光景に、少年はアングリと口を開けたまま絶句し、探偵も慄然とさせられた様子だった。
カサカサカサカサグシャグシャグシャグシャグシャ……。──蠢く節足同士が擦れ合い、顎肢が肉を喰む音が、絶え間なく響いた。
──やがて、百足の塊が再び裂け目の向こうに収納された時。
そこに残されていたのは、血に塗れた手袋などの、わずかな衣服の残骸だけだった。
悪夢の化身たちは、瞬く間に人一人を食い尽くしてしまったのだ。
「…………」
マジュウは、お面の顔を燎子に向けた。裂けていた部分が静かに閉じ、元どおり「少女」の笑顔が現れた。
「…………どう、して……? ……どうして、あの人を殺した、の? ……彼はもう、戻って来ていたのに……何故!」
この問いかけに対し、マジュウは意外にも人間の言語を手繰り、
「……………………鵺ガ……鳴イタ……鵺、ノ……声、ガ……」
探偵は言葉の意味を探るように目を細め、反対に少年は見開く。
「……『鵺の……」
「声』……?」
二人がリレーするように呟いた時、今度はその姿にある変化が現れた。
怪物の体は突如、ガスでも溜まったかのように、内側から膨れ上がった──かと思うと、途端に爆ぜたのである。
燎子たちが呆然と見つめる先で、包帯や翅やお面は幻のように消え去り、代わりにある人物がそこに佇立していた。
「ま──まさか!」
見開かれた宰の瞳は、ついさっき捕食されたはずの老人──緋沼紫郎の姿を映し出した。
「へ、変身、した……⁉︎」
彼らが見つめる先で、先ほどまでの紫郎と寸分違わぬ姿と化した怪物は、悠々とライターを拾い上げた。
手袋をした親指がホイールを回した──瞬間、螺旋状に渦巻く炎の刃がそこに現れる。
「…………センセイの、ライターに……気安く、触、るな……!」
彼女は敵の姿を睨みながら、喘ぎ喘ぎそう言った。青い火焔のような、静かな怒気を漲らせて。
──その上に覆い被さるように立った紫郎は、問答無用で炎の剣を振り上げた。
「……前言撤回させてもらいますよ、探偵さん。今ならあなたに勝てそうだ」
声までも完全に変化しており──それどころかそのセリフを聞く限り、記憶さえ引き継いでいるようだ。
(か、篝さんが……!)
その光景を目の当たりにした宰は、破られた窓の桟を両手で掴んだ。
(……ダメだ……殺させちゃダメだ!)
割れ残ったガラスのことも気にせずに、彼はその手に力を込める。
そして、意を決っした表情を浮かべると、少年は窓枠を飛び越え、中庭に降り立った。
と、同時に──
怪物は容赦なく、右腕を振り下ろす。
それを見上げた燎子は、少なくとも負傷は免れないと、覚悟したことだろう。
──が、しかし。
次の瞬間、炎の刃が彼女を焼き焦がすよりも先に、真横から飛んで来たある物体が、手袋の右手を襲った。
痛烈に手を弾かれた紫郎は、堪らずと言った風に指を開き、ライターを取り落としてしまう。
当然、これには燎子も驚きを隠せない様子だったが、その正体にはすぐに気付いたらしい。
──火の消えた得物の傍に転がっていたのは、彼女の武骨なブーツだった。
「……そ、その人から、離れろ!」
スローイングの体勢を解いた宰は、必死にそいつを睨み付けながらそう言った。彼の左肩には、燎子から預かっていた例のトートバッグが。
「…………ば、バイト、くん……。──ダメ、君が来ては」
「でも、見捨てられません! ……見捨てたく、ないんです」
乱入者から少しも目を離さずに、彼は答える。
燎子はどうにか体を起こそうとしたようだが、それが叶わぬうちに、老人は歩き出した。
「ま、待って……!」
彼女は這い蹲りながら手を伸ばしたが、その足を掴むことは叶わなかった。
着々と近付いて来る姿を見据えつつ、宰はトートバッグの持ち手を握り締める。
「ダメじゃないか、人に物を投げるなんて。両親に教わらなかったのかね?」
──結局、何者にも阻まれることなく、怪物は彼の目と鼻の先までやって来て、立ち止まった。




