89.出会い
いつになったら進展するんだろう、とトンタは何度目ともしれないため息を吐いた。
経緯は実に簡単。ヴァースアックと仲良くなるために、お宅にお邪魔したらゴタゴタに巻き込まれて拘留される羽目になった。
そもそも、我らが首領たる公爵様はヴァースアックを毛嫌いしていた。否、ヴァースアックのみならず。嫌いじゃないものの方が少ないと言った方が正しいだろう。
アルンという国の立役者である、長い時を経ても衰えることを知らぬ絶大な人気を誇る賢者ジルベルト・女傑アンリの二人も。
その末裔である、我々と対立する立場であるヘンリー公爵とその派閥も。
かつてジルベルトとアンリと共に大陸を救い、英雄王として名を馳せ、西の大国に君臨するレリウス王家も。
世界に恐怖を轟かせ誰もがひれ伏す圧倒的な力を保持するヴァースアック一族も。
ぜーんぶ、公爵様は嫌いだった。
だからこそ、それらのいずれかと繋がりを持てれば、突出した評価を得られるのは自明の理。
何しろ守旧派というレッテルに恥じず、公爵様派閥の人間は古い付き合いを大事にするばかりで新たな関係値を構築しようという意欲がまるでなかった。
その中で颯爽と現れる「ヴァースアックの信頼を勝ち取って身内になった男」!
ヴァースアックという後ろ盾により、アルンは更なる力を得てレリウスなど及びもしない世界一の大国へと変化する。
その功労者は誰か?無論、ヴァースアックとの関係を築いた男である!
彼は元々伯爵の次男坊で、公爵様の歯牙にもかけられない存在だった。そんな人間が、誰も成し得なかった「ヴァースアックとの親交」をやってのけた!これはもう英雄と呼ぶ以外にない!
伯爵どころでは収まらない。ヴァースアックがバックに付く彼は公爵すら飛び越えて王に相応しい!
彼こそアルン王、トンタ!
…などという幻想は、しばらく前に打ち砕かれた。
ヴァースアックはとっくにヘンリー公爵との交流があったし、仮にトンタがうまいことやったとしてもどうせ全て兄の手柄になるのは分かり切ったことだった。
しかし。
予想外だったのは、兄が、失敗したことだった。
ヴァースアック一行がアルンの国を訪れた際。トンタの兄、ココーン伯爵は、彼らにちょっかいを出して手痛い傷を負った。
英雄の血筋だのヘンリーの弱みだの何やら頭の良さそうな策謀を巡らせていたようだったが、結局うまくいかず、果てにはヴァースアック本家ではなくその使用人にコテンパンにされたらしい。
キリカのことがあって当初はあまり気にかけられなかったが、ヴァースアック一行が国を去り事態が落ち着いてから見ると、兄は、いつの間にやらひどい心的外傷を抱えていた。
黒色のものを恐れ、夜の闇を恐れ、まるで別人のように余裕を失ってしまった。
これひょっとして俺が伯爵に成り上がるルートあるんじゃね?と密かに期待したものの、傷を負ったとはいえやはり兄は兄で、私生活の態度が矮小になったところで業務には何の支障もきたさなかった。
まあそうだろうなあと思う。幼少から貴族らしく優雅で優秀で、才能も容姿も両親の良いところを全て合わせ持って生まれたような男。周囲からも期待と信頼を寄せられていた。
それとは反対に両親の悪いところ全てを合体させて生まれたようなのが自分だったわけだが…。
いずれにせよ、兄が失敗し、ヴァースアックに目をつけられ、それを公爵様が不快に思っているという点は、事実には違いない。
故にトンタは、はるばる僻地へと赴いてきたのである。兄の尻拭いをするため、ひょっとしたらあるかもしれない下剋上の伏線をばら撒くために。
だから。
のうのうと田舎生活を堪能しているようなこの現状は、断じて不適切なものなのだ。
「おーいトンタさん、ご飯ができたんだよー」
「はーい」
のんびりと少女が二人分の食事を運んでくる。ちなみにそれは彼女が作ったものではない。彼女が実家でお手伝いさんに頼んで分けてもらっているまかないだ。
拘留の一日目こそ張り切って「わたしが作るんだよ!」と腕を振るっていたが、味付けに失敗してしょんぼりしながら二人で平らげたのを境にこの形になった。しかし料理以外では未だに世話を焼こうとしてくるので早く適材適所を学んでほしいと願っている。
トンタが寝泊まりしている家は、以前ヘンリー公爵の供人であるエジット・セルペット一行が使用していたものらしく、備品が整えられていた。大人数での滞在だったためかトンタ一人には潤沢であり、キリカが居着いても何の問題もなかった。
キリカは、どうやら兄弟喧嘩でもしたらしく実家に帰ろうとせず、四六時中トンタと一緒に過ごしたがる。ヴァースアック本家がゴタついていて交流不可能な今、別にやることもないので構わないが、ずっと隣でおしゃべりされるのも違和感がある。
何しろ人に付き纏われる経験などないもので。
全く奇妙な少女だと思う。何がそんなに気に入ったのだろうか。初対面でトンタが歯の浮くような台詞を口にしたからか。それがお世辞で、嘘であったことは、とっくに彼女自身も把握していたというのに。
トンタだって、誰かに好かれるのが嫌なわけではない。ただ、どう足掻いてもキリカは子供に過ぎないし、何よりヴァースアックに取り入るための便利な橋渡し役でしかない。
そしてそれも、彼女は知っているのだ。知った上で「振り向かせてみせるんだよ」と宣言している。
奇妙を通り越して人知を超えている。
目の前でもくもくと野菜を口に運ぶ少女を見つめる。
所詮は道具。悲惨な過去があろうと、それに同情する必要もない。
それなのに、どうして自分はあの報告書を見つけた時に「あんたは人でなしだ」などと兄に怒鳴りつけたのだろうか。
兄の手下に襲われ、ヘンリー公爵の配下に拉致され、意識を失って横たわる少女を目にした時に、心臓が凍りつくような感覚を覚えたのは何故か。
つい先日。ヴァースアック邸で、暗い部屋の中で蹲る彼女を見て、駆け寄らずにいられなかった理由は。
「…どうした?」
彼女の仕草に思考が乱れ、トンタは声をかける。
キリカは唐突に顔を上げ、空へうつろに視線を回していた。
が、トンタに呼びかけられて、ハッとすると「なんでもないんだよ」と誤魔化す。
「…あのね、トンタさん」
「なんだ?」
「わたしの名前、知ってる?」
「なんだその質問。キリカ以外にあるのか」
すると、彼女は満面の笑みを浮かべ、「ううん!」と元気に否定するとフォークを手に主菜へと取り掛かった。
何だか知らないが、自分一人で納得したらしい。変な子…と思いつつ、トンタも食事を再開した。
未だにヴァースアックの当主からは何の続報もない。
さっさと謝罪してわだかまりを解消し、より仲を深めるためにごますりに行きたいというのに、出入り禁止が一向に解除されない。
キリカに何が起きているのか尋ねても「よくわからないんだよ」と首を振られて情報も得られなかった。
かといって他の人間に聞き込みに行くというのも危険極まる。ヴァースアックの人間に知性などあるはずもない。どれだけ気の良さそうな顔をしてもどうせ豹変して殺しにかかってくるに決まっている。
今のトンタにはキリカしか頼りがいないのだ。ライラック共和国まで馬車を引いてきた御者は一人悠々とニラ街で離脱しているし。道連れにできる人間も生贄にできる人間もいない。
だというのに、キリカは、情報収集に行ってくれる気配がなかった。ずっと借家にいて、どこにも出かけず、じっとしている。
彼女は何やら、ぼんやりしている時間が増えた。何かを探すようにうろうろ彷徨い、ある時ハッとしてトンタの隣に戻ってくる。奇行である。
当初は、夜になると実家に帰って寝ていたのに、近頃は寝泊まりすらしようとしてくる。
予備の寝具で勝手に寝る分には構わないが、一緒に眠りたいと言い出した時には辟易した。
「俺が殺される原因になりたいなら何も言えないけどな…」
「ダメかあ、そうだよね」
「というか家に帰らないのか。門限とかないのか」
「あるかもしれないけど、ちょっと無理かなあ」
今顔合わせたら何か変になりそうなんだよね、と小さく呟く。まだ兄弟喧嘩は続いているらしい。
自分が悪いなら早めに謝ったほうがいいぞ、周囲の目がどんどんキツくなるからな、と先人の助言を授けると、あまり見たことのない緩やかな笑い方で「そうだよね」と頷いた。
結局その日は実家に戻ることなくトンタとは別の布団で眠りについたが、深夜、彼女は起き出し、寝室を出ていった。
眠りの浅いトンタが物音に反応してずるずる身を起こし、安眠妨害の文句をつけに行くと、彼女は、ベランダから真っ黒な空を見上げていた。
「…お姉ちゃん」
はて。キリカに姉などいただろうか…と思いつつ、トンタは寝起きのガラガラした喉で「大人しくした方がいい、寝不足になるぞ、俺が」と声をかける。
すると彼女はびくりと身を震わせ、驚いたように振り返ってから、笑って「ありがとう」と言った。
何が何だか分からないが、満足そうだったので、トンタは戻って肌に合わない安物の布団に潜り込んだ。
「トンタさん。お願いがあるんだ」
ある日、唐突に彼女は言い出した。
「今日ね、手を握っててほしいんだよ、ずっと」
「えぇ…」
「それで絶対に放さないでほしいんだ。お願い」
何の遊びだろうか、こちとら暇ではないというのに…と暇を持て余すトンタは渋々了承する。彼女は小さな左手をしっかりトンタの手に繋ぐと、長椅子の隣に座った。握る手は物凄い力だった。どこからそんな握力が生まれているのか、肌が白むほどに痛い。
いつもは絶えず話しかけてくる彼女が、だんまりで動かない。時間が流れるのが異常に遅く感じられ、暇潰しにトンタは以前物置に取り残されていたのを発見した立方体のパズルを、片手で不器用に操作し始めた。
いつまで経っても完成しないので「これひょっとして不良品なのでは」という疑惑が持ち上がり始めた頃、繋いだ右手に違和感があった。
見ると、キリカが両手で耳を塞いで、自分の細い膝に顔を埋めていた。
繋いだままの右手が彼女の耳に触れている。微妙に震えていた。具合でも悪いのかもしれない。
焦燥感に駆られて、空いた左手で細い肩を叩く直前。
「…あ」
彼女が急に身を起こした。
目線は、こちらには向かない。しかし、その表情が明らかに切羽詰まっているのを見て、トンタは物怖じした。
彼女が立ち上がる。あんなに強く固められていた右手は今にも解かれそうだった。
トンタに見向きもせず、彼女は走り出した。
「ちょっおい!」
慌ててついていく。手は離れていない。何だか知らないが絶対に放さないでほしいと言っていた。約束を反故にしたらきっと怒る。彼女の機嫌を損ねるのは本意ではない、ヴァースアックとの鎹がなくなってしまう。もっとも彼女がトンタといる時はいつも上機嫌でそんな心配をした経験はないのだが…。
家を飛び出し、周りを気にもせず走り、少女は森に踏み込んでいく。
森は、この地を囲んでいる。土はゴツゴツしているし木はモサモサしているし岩はゴロゴロしているし、土地勘がない者では絶対に突破できず、迷子になる。故に誰も、ヴァースアックの里へと辿り着けない。
そんな森を、彼女はスイスイと駆けていった。慌てて道を記憶しようとするが、似たような風景が続き方向感覚が混乱する。トンタには覚えられない。彼女の手を放さないようについていくので精一杯だ。
やがて、森を抜けた。
馬車があった。
己の乗ってきた馬車とは違う。行商人が使うような安物の荷馬車だ。
その周りに、人がいた。
「…まだ目星は付かないのか」
「いやあ、我々も前来た時にできるだけ覚えようとしたのですがなにぶん監視の目が厳しく…」
聞いたことのある、声だった。
赤に近い茶色の整然とした髪に、落ち着きのある碧色の瞳。遠目からでも人目を惹きつける容姿に不釣り合いな、質素な服装。立ち姿だけで人の好感を掻き立てる天性の支配者。
我らが公爵様の天敵。
ヘンリー公爵。
「…あ」
どうしてここに。
そんな声が漏れる前に。
繋いでいた手から、力が抜けていた。
「ああ」
銀髪がなびく。立ちすくむトンタを振り返りもせずに、彼女は駆け出していく。
突進する不審者に気づいた護衛が、一挙にわらわらと立ち塞がる。その間を、驚くほど容易くすり抜けて、彼女はヘンリーの元へ辿り着いた。
そうして、彼の体に縋りついた。
緊張が走る。公爵を狙う暗殺者が、その手に刃物を隠し持って現れたのだと。
けれど彼女は、ただ、抱きついただけで。空色の瞳からは、滂沱として涙が流れていた。
「お姉ちゃん…っ」
「…なんだ、この…子供は?」
平静とした態度で、ヘンリーは不審者を見下ろす。周りの護衛が殺気立つのを宥め、体全体を震わせて泣きじゃくる子供に声をかけた。
「何のつもりだ、君は」
「…よかった…」
けれど、その問いに答えることはなく、子供は泣き続けた。
「良かった。良かった…!お姉ちゃんは、幸せ、だったんだね。ジルお兄ちゃんが、一緒にいてくれたんだね。良かった。ああ、本当に…!」
「……」
「ああ、ああ、良かった…!…ああ…そっか…」
得心のいった声を出し、涙で濡れた顔を上げ、子供は、ヘンリーに微笑んだ。
それを目撃して、遠く、トンタは、息を飲む。
「そうだったんだ。ぼくは」
嫌な、予感がした。それが何であるかなど見当もつかないが、それでも。
「―――ぼくは、君に会うために、今までずっと生きてきたんだ」
その結論にだけは、至らせてはならなかったと、何かが叫んでいた。
ヘンリーは無言で子供を観察する。
これまでも、民衆に寄って集られた経験は何度となくある。ヘンリーと会って涙した人間もいる。あなたに会えて光栄ですと平伏した人間もいる。これで生きる力が湧いてきましたと感謝した人間もいた。
だが、目の前にいる子供は、そのどれとも異質な感覚があった。
この子供自体には、覚えがある。かつてヘンリーがアルンの国でアリナを発見した時、彼女の傍らに無表情で佇んでいた少女だ。記憶にある。この少女を助けるために、アリナは一度は己に付き従ってくれたのだから。
確か、アリナが口にしていた、この子供の名前は、
「ぼくは、アック。君に会えて、本当に嬉しい」
…キリカ、ではなかったようだ。
業を煮やした護衛が、アックと名乗った子供を引き剥がしにかかる。それまでの勢いが嘘のようにあっさりと、アックは縄で巻かれた。不敬な子供への対応としては些か物騒だが、先ほどの人並外れた動きを考えれば、妥当には違いなかった。
捕縛という状況に陥ってもなお、子供は嬉しそうに笑っている。これが人生最大の幸福だと言わんばかりの様相だった。
「ま、待って、お待ちください!」
焦り声が、空気に割って入った。
見ると、アルンの貴族と思しき男が、転がるように走り寄ってくる。どこかで目にした覚えがある。確か彼は、
「トンタ・ココーン。何故ここに?」
「お、覚えていていただきありがたく存じます。その…その少女は、ヴァースアック本家の養子の、ご令嬢です。手荒く扱うのは、どうか…」
「そんなのは分かっている」
トンタの言葉を遮り、エジットがずいと前に出てくる。エジット・セルペット。最近までヴァースアック領地に滞在していた男。一族と多少の信頼関係は築けたと豪語しており、事実、アルンに帰還してきた際に目にした、アリナ達との関係は悪くなさそうではあった。
ヘンリーは仕草で合図しエジットに場を任せる。胸を張ると、エジットはトンタに反論し始めた。
「しかし見ただろう先ほどの愚行を。あんな得体の知れない技を目にして、我々が警戒を強めるのも当然だと思わんか?とはいえ子供相手に縛るのは可哀想なので解放しよう、縄を解け」
「……」
「…あの…解いてもらっていいですか…」
エジットが敬語になっても、護衛の面々は動こうとしない。
ヘンリーの腹心エジットは部下からの人望厚い優秀な人材ではあるが、彼を良く思わない者も多い。その筆頭がヘンリーの護衛隊の面々である。彼らはヘンリーに忠誠を誓っているが、自分達以外のヘンリーの配下を疎んじている。
わかりやすく言えば、独占欲と嫉妬である。
「縄を解け」
「はっ」
故にヘンリーが命じれば即座に従う。
縄を解かれ、護衛隊に恐ろしい目で睨みつけられ、しかしアックは何ら動じることなく、再びヘンリーに近づいた。
殺気立つ護衛隊が剣すら抜こうとするのを、ヘンリーが片手で制する。
「アック、と言ったか。ヴァースアックに属する君が、何故私にそこまで思い入れがあるのか聞かせてもらいたい」
「だって君は、君達は、お姉ちゃんと、ジルお兄ちゃんの宝物だもん。ぼくにとっても大切だよ。君達を守るために…君達が、幸せになるために、ぼくは頑張ったんだから」
「…トンタ・ココーン。解説を求めても?」
視線を向けると、男は至極困惑した顔で、「いえ、その、私も彼女が何を言っているのか分からず…」と恐る恐る近づいてくる。トンタは自分には目も向けない子供の肩を叩き、声をかけた。
「…キリカ。どうしたんだ?」
「あ…ごめんね。でも、分かって。ぼく、今、本当に幸せなんだ。ずっとこのままでいたい。だから、ごめんね」
「さ、さっきから、一体、何を言って…?」
どうにも会話が噛み合っていないようだ。
このまま続けさせても得るものはないだろう。そう判断し、ヘンリーは意識的に自分を律して、アックに要求する。
「ここで話していても埒が明かないだろう。領地に案内してほしい。君ならば、この森を抜けられるのではないか?」
「うん、いいよ。じゃあ行こう!あ、そうだ、君の名前を聞いてもいい?」
「ヘンリーだ」
「よろしくね、ヘンリー!」
無邪気に子供は笑う。護衛隊の殺意が膨れ上がっていくのを感じ、静かにため息を吐きつつも、ヘンリーはアックの案内で森に踏み入っていく。
物々しい護衛隊、若干引いているエジット一行がそれに続き、最後に、トンタは、動揺に足をもつれさせながら、後を追いかけた。




