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88.なかったことにしよう

 どうしたもんかなあ、とカヨウはため息を吐く。


 色々あってパンクしたのは分かる。受け止めるのに時間がかかるのは当然だ。

 初耳のはずなのに錯乱する様子もないミカゲツの方がおかしいのだ。自分だって、事前にカイロウから酒の席で話を聞いていなければ「いや意味分かんねえよ!」と咆哮していたことだろう。


 だからといって、部屋に閉じこもるヒソラを、「仕方ないから落ち着くまでそっとしておこう」というわけにもいかない。


 ヒソラは、この地に残された希望なのだ。

 彼に動いてもらわなければ、事態の早急な解決は見込めない。


「というわけでドアをぶち破ろうと思うんだが、まずいかな?」

「まずいでしょうねえ」


 末の弟のことをよく分かっている青年は、即座に答えを返す。今は自分と同じ高さにあるカヨウの大きな黒目を横に見ながら、腕を組んだ。


「色々迷って時間をかけて悩む分、一度結論を出したら意固地になりやすいんですよね。多分無理やり連れ出しても自分で歩こうとしないと思いますよ」

「ガキかあいつ」

「まあ一番下の弟ではありますしね」


 顔を見合わせ、「これってオレ達のせい?」「まさかあ。こんなややこしい事態を引き起こした悪魔って人のせいですよ」「そうだよな。あいつが全部悪いよな」と会話をしながら、カヨウとミカゲツはこのことを兄に報告しに行った。


「貴様らはなんてことをしてくれた!」


 残念ながら、次兄は理解を示すこともなく、お前達が悪いと怒鳴りつけた。


「いやでも、オレ達が何も言わなかったとしてもいずれこうなってたと思うぜ?」

「自分で自分を追い詰める傾向ありますからねあの子。時間の問題だったかと…」


 言い訳を口々に出す弟二人を睨みつけ、レイシンは、執務室のいつもの椅子に腰かける(体格が縮んだせいで大きさが合わず不釣り合いな格好になっている)兄を振り返る。


「…いかがしますか、兄上。このままでは…」

「甘えるなと叱りたいところだが。本人がそう決めたなら仕方あるまい」


 淡々と答え、カイロウは無表情で続ける。


「他の者に頼む他ないだろう。候補としてはイラか…」


 使用人の長、イラ。

 七年前、父トウセンが引退し、多くの同胞が彼と共にこの地を去った。その中には武闘派であった夫の姿もあったのに、イラは、カイロウ達のためにここに残り、何も変わることなく献身的に働いてきてくれた。

 誠実な彼女ならば、トウセンも蔑ろに追い返すことはないだろう。


 中央大森林に向かう目的は、「ジョン」についての情報を集めるため。ただしその情報自体も、アルンに住まう悪魔からもたらされたものであるため、完全に信頼できるとはいえない。

 その事情を深く把握しているのは、兄弟の中で己のみ。

 自分が動けるのならそれが一番良いが、カイロウは妙な予感を覚えていた。

 ヴァースアックの悪魔は、カイロウが変身してからというもの、至って友好的な態度を貫いている。それまで己が理想を押し付け身勝手に振る舞ってきたのが嘘のように、親身に接してくる。

 そして、その理由としては、カイロウが「スイ」に似ているから。その一点に尽きる。

 ならば、そのカイロウが不在になった時。彼が一気に心変わりをして人々を潰しにかかる可能性を、払拭し切れない。

 何せ、アルンの国に向かうためカイロウが長期不在になっている間に、奴が領地の男共の精神を歪ませたという前例ができてしまったのだ。

 故に、カイロウは慎重にならざるを得なくなっていた。


「イラさんかあ。まあイラさんなら安心よな」

「そうですね。むしろヒソラより良かったまでありませんか?」


 次善策が定まって安心したのか、カヨウとミカゲツは好き勝手に話し始め、レイシンに一喝されている。

 何事もなく済めばいいが、とカイロウは静かに息を吐いた。




 使者として旅立つのは、ヒソラではなく、イラになったらしい。

 そう聞いて、アリナは「大丈夫なのかしら」と戸惑いを抱いた。イラに対してではない、部屋に引きこもるヒソラに対してである。

 家族会議で任命された時も呆然とした顔つきをしていたが、それより前、キリカと話した時も、彼は精神的に辛そうな印象だった。


 そのキリカは、領地に滞在することになったというトンタに付いて回っており、今のヒソラについてどう思っているのか分からなかった。

 アリナが声をかけても、「ごめん、今お取り込み中なんだよ」と申し訳なさそうに言われて、込み入った話をすることは叶わなかった。

 彼女には、色々聞きたいことがあった。どうして悪魔の存在を知っていたのか、どうして「アリナならなんとかしてくれる、一緒に悪魔をやっつけられる」と思っていたのか。どうやって、いつ、昔の記憶を取り戻したのか。

 けれど、眉を下げて真から心苦しそうに「今は話ができない」と断られてしまえば、それ以上追求する意思は貫けなかった。


 何か、不穏なものを感じる。しかし、アリナにはそれをどうすることもできなかった。何よりキリカとヒソラの問題は両者にしか解決できないものであり、ヒソラが部屋にこもっている今、進展は難しい。


 だがいずれにせよ、ずっと不変ではいられない。

 アリナはヒソラの部屋の前に食事を運んだり、森の外まで出るのは久方ぶりだというイラの旅支度を手伝ったりなど、自分にできそうなことに従事し、日々を送っていた。


 そんな、ある日。




「お話があります」


 部屋に引きこもるヒソラと、トンタに付きっきりなキリカ。その二人を除いた面子を居間に集め、カヨウは重々しい口調で切り出した。


「オレのパンツが盗まれました。犯人は名乗り出てください。今なら一発殴って許す」


 空気が凍り、愕然とした視線が交わされ合う。誰も発言する者が出てこない。するとカヨウはわっと両手で顔を覆い、その肩をカイロウが無表情で抱いた。


「こんなのってひどい!嘘つきの変態と一緒になんて暮らせないわあ!」

「辛かったな、可哀想に」

「おーんおんおんおんおん、おーうおうおうおう!」

「カイロウ兄さんの極度の棒読みはともかく、カヨウ兄さんの犬の真似はなんですか?」

「犬じゃねえよバカ!乙女が泣いてんだろうがこのバカ野郎が!」

「泣いてないじゃないですか」

「うるせえ!」


 強引に打ち切ると、カヨウはダン!と右足を踏み鳴らす。そうして大袈裟な身振り手振りで主張し始めた。


「いつかはこうなると思ってました!いくらお前らが今男色に染まっているとしても、元は女に飢えた薄汚い獣!魅力的過ぎるオレに襲いかかってきやしないかと日々怯えて過ごしておりました!」

「カヨウ兄さん」

「だから意外性はありません、あるのは失望だけ!見損なったぜバーカ!バーカ!」

「カヨウ兄さん」

「なんだよ!?」


 優しく弟に呼びかけられ、カヨウは動きを止めて問いかける。対してミカゲツは、穏やかな笑顔で首を振った。


「前にも言ったと思いますが。僕は女のカヨウ兄さんには、微塵も興味ありません」

「ふざけんなお前一緒にヌード撮ろうって計画してたじゃねえかめちゃくちゃ興味あるだろうが!」

「それは将来の僕のために、です。現在の僕自体には、今のカヨウ兄さんはちっとも響きません」


 不埒な計画を耳にして般若の面構えになるレイシンを意に介さず、何故なら、と、ミカゲツは笑いながら告げる。


「今でも僕は男のカヨウ兄さんに想いを残しているからです」

「ぐっ…」

「言わせないでくださいよ、本当に。自分で言ってて気持ち悪くなるはずなのに全然気持ち悪くなれなくて発狂しそうになるじゃないですか」


 笑みを微塵も崩すことなく言いのけるミカゲツに、カヨウは表情を引き攣らせてから小声で呟く。


「…カイロウ兄さんに共感できそうな奴がここにも…」

「怒るぞ」

「ごめんて」


 勢いを失ったカヨウが寸劇に付き合わせた長兄に謝罪する傍ら、ミカゲツはニコニコと話を振る。


「誤解なきよう言っておきますが。カヨウ兄さんだけじゃなく、他の女性に対しても。今はどれだけ巨乳でも美脚でも正直何も感じないんですよ、ね、レイシン兄さん」

「わ、私に聞くな」


 ギョッとしてレイシンは体をビクつかせる。

 その背中を叩き、ミカゲツは実に親しげに、彼の本音を引き出すべく―――道連れにしようと、語りかけるのをやめない。


「でもそう思うでしょう?どうです?実は僕こうなってからすっごく日々に支障が出てるんですよね。一度開いてみたんですよ、夜に、お気に入りの本を。絶望しましたね。こんなことがあるのかと」

「お前チャレンジャー過ぎるだろ…」

「ええ。カヨウ兄さん、やめれば良かったですよ、本当に」


 聞きつけ口を挟んだカヨウに空虚な笑顔を向けると、ミカゲツはぽんぽんとレイシンの背中を叩き続ける。次第に、その手には力がこもっていく。


「ねえレイシン兄さん。どうでした?試してみました?」

「…答える義務はない」

「無理でしたよね?僕おかしくないですよね?僕だけじゃないですよねこんなことになってるの?そうでしょ?ねえ?ねえ!?レイシン兄さん!?ねえってばぁ!!」

「叩くのをやめろミカゲツ…!」

「答えてくださいよぉ!答えるまでやめない覚悟の上ですから!」


 どう見ても笑顔なのによく見たら笑っていない弟の目に狂気を感じ、レイシンは大粒の汗をかく。このままでは弟は一生精神に異常をきたすのではないかという予感さえ覚え、「わ、分かった」と答えざるを得なかった。


 ひりつく背中を後ろ手でさすって、弟の笑顔を間近に向けられながら、レイシンは咳払いをする。

 一人唖然と状況を眺めている赤髪の少女の視界からできるだけ外れるように、体をずらし、口元を手で隠した。


「…どちらも…」

「え?」

「……それで……みたら……どちらも……」


 アリナの位置からは決して聞き取れない、普段からは想像もできないような声量で、レイシンはミカゲツの耳元に喋っている。みるみるうちにミカゲツの表情が驚愕に染まり、目も口も大きく開いて信じられない面持ちで兄を見つめた。


「え、なに?なに?」

「そ、それが……で……試して……結果的に……」


 カヨウが身を乗り出し、ミカゲツから内容を耳打ちされ。彼と同じ、無音だが盛大な反応をしてレイシンを見上げる。視線に耐えられなくなったのか次兄は頭を抱えて背中を丸めてしまった。

 その背に、先ほどの暴力とは違って心から優しさを纏い、彼らは慰めるように手を置いた。


「…なかったことにしましょう」

「おう。オレら、今、何も聞いてねえよ」


 言葉もないアリナの見る前で、憑き物が落ちたように温かい視線を交わし、彼らは頷き合った。


「それで。カヨウの下着を取ったのは誰だ」

「ああそこに戻るんですね。なんて冷静なカイロウ兄さん」

「いやでもマジで誰だよ。お前らじゃないなら他の奴らか?」

「とはいえ男は全員興味ないですからね、今のカヨウ兄さんのパンツ。となると…?」


 この地に存在する正常な男は、部屋から出てこないヒソラと、屋敷の出入りを禁じられているトンタ。彼らには物理的に不可能。

 彼らは胡乱げな顔をし、黙りこくった。

 ここに来て頭に浮かんできた可能性から、目を逸らすわけにはいかなかった。


「…この屋敷に、今のオレのことを好きな女が存在する…?」

「ちょっと待ってください。僕達が小さい頃からお世話になっている女性はいても、妙齢の女の子はいませんよ」

「そもそも家の外に範囲広げても、同年代の女の数自体少ねえもんな…」

「…ということは…?」


 結論を出すのを躊躇い、言葉数が少なくなるカヨウとミカゲツ。未だに頭を抱えているレイシン。

 空気を裂くようにカイロウは言った。


「単純に取り違えて持っていかれたのではないのか」


 雰囲気が和らいだ。


「ああ、確かに!」

「なんで気づかなかったんでしょう!」

「そういやオレが今履いてんの、母さんが大量に置いてった予備の一つだから年齢層も合うしな!」

「えっそうなんですか気持ち悪ッ!」

「バッカ新品に決まってるだろ買うだけ買って放置されてたやつだよバカが変なこと言うなマジで!」


 温かな笑みを向けながらバシバシと互いに小突き合う。しかし、ふとミカゲツは眉を顰め、息を飲んだ。


「…ということは、じゃあ、まさか、もしかしたら、今、カヨウ兄さんの使用済みのパンツを誰かが履いてる…!?だ、誰かが犠牲に…!?」

「汚物みてえに言うんじゃねえよ洗濯済みだわ!」

「それは関係ないですよ実際汚いじゃないですか!」

「こ、この野郎…!」


 今のオレは綺麗なお姉さんだし、汚くねえし、とカヨウは怒りに打ち震えるが、本人もその可能性に戸惑いを覚えたのかすぐに困った顔つきになる。


「まずいことになったかな…いやでもよく考えると、母さんのあの派手な下着誰も手出さねえと思うんだけどな…」

「派手って。どんな趣味してるんですかカヨウ兄さん」

「不可抗力だよオレは。なんかワインみてえな色の布地に紐とレースついてんだよ」

「えっ?」

「えっ?」


 特徴を説明されて、声を上げたのは、ミカゲツではなくアリナ。

 それに応じてカヨウも声を上げ、二人は無言で見つめ合った。


「…え?」


 一拍遅れてミカゲツが間の抜けた声を漏らした。


「…え?え?え?」

「いやいやいやいや」

「ちょちょちょちょちょ」


 混乱するアリナ。後ずさるカヨウ。これはまずいと仲介しようとして足がもつれ転ぶミカゲツ。まだ我関せずで苦悶しているレイシン。


 カイロウは無表情で尋ねた。


「今身に付けているのか」

「いや直球過ぎるだろ!?」

「最低ですよ兄さん!!」

「は、履いてはない、です!」

「ねえのかい!!」


 否定しつつ、アリナは必死に言い募る。


「で、でも!おかしいです!だ、だって、その、それ、あたし、前から使ってる…」

「えっ!??」

「じゃあアリナが使ってたやつをカヨウ兄さんが自分のものにしたってことですか!!?」

「えっ!?!?」


 一気に騒然とする現場で、やはりカイロウは表情を乱すことなく淡々と告げた。


「いや。母は全く同じ衣服を何着か揃える癖があった。下着もその類なのだろう」

「な、なるほど?」

「あ、あたし、着替えとか、一式、全部ここに来た時貰ったので…」

「なるほど」

「アリナが使用していたものと同じ種類のものを偶然カヨウが箪笥の肥やしから選び取った。そうしてカヨウが洗濯に出した下着を、アリナが自分のものと間違えて持っていった。そういうことではないのか」

「なるほどお!」

「さっすがカイロウ兄さん!」


 やんややんやと弟達から称賛を受け、カイロウは水を差すことなく無言で頷いた。

 彼らは謎が解明したことで興奮している様子だ。そのまま平静になることなく「良かった良かった」で綺麗さっぱりこの件は忘れてくれればいいが。

 自らがどんな形の下着を身につけているか、他者に知られて喜ぶような性格を、アリナはしていないのだから。


「やっぱり兄貴はすげえや、オレ絶対屋敷の姐さんの誰かがオレを狙ってるのかと思ったぜ!」

「僕もです、てっきりこういう豊満な年下系を趣味とする女性が性癖を隠して働いているのかと…!」

「よく考えたらそんな人いるわけなかったな!皆既婚者だしな!」

「いやあ考え過ぎって良くないですねえ!」


 和気藹々と弟二人が盛り上がる中、カイロウは静かに、全く立ち直る気配のないレイシンの背中と、「ひょっとしてさっきかなり恥ずかしいことを明かしてしまったのでは」と気づいて汗をかくアリナの肩を、労わるように叩いた。

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