第四十七話:境内を揺らす足音と、背中合わせの密約
朝もやが薄れ、木漏れ日が神社裏の神楽殿を柔らかく照らし始めていた。
「……ん……っ……」
涼風瑠愛は俺の首元からゆっくりと顔を上げると、萌え袖の手で自分の朱に染まった頬を包み込んだ。琥珀色の瞳はとろりと蕩け、そこには朝露のように澄んだ、けれど恐ろしいほど濃厚な愛着が揺らめいている。
距離にして、ゼロ”センチ”。
「……黒木くんの体温……すっごく温かい……。このまま、時間が止まっちゃえばいいのに……」
「……そうだな。でも、もうすぐ6時になる。そろそろ作戦を考えないと、学校の開門前に路頭に迷うぞ」
俺が苦笑しながら言うと、瑠愛は甘えるように頭を俺の胸元へと擦り寄せてきた。彼女の繊細な髪から香る甘いシャンプーの匂いが、早朝のひんやりとした境内の空気を優しく支配していく。
「……大丈夫。黒木くんと一緒なら……どこに逃げても、そこが私たちの『特別な場所』になるから……」
瑠愛は萌え袖の手で俺の学ランの裾を強く握りしめた。その指先からは、「絶対に妹たちには渡さない」という無言の主張がひしひしと伝わってくる。
だが――その甘美な沈黙を破り、境内の石段の下から、バタバタと猛烈な勢いで駆け上がってくる複数の足音が響き渡った。
◇◇◇
「お兄ちゃーん!! どこにいるのーっ!?」
「愛空ちゃんのセンサーがビンビン反応してるんだよ! この上の神社の中に絶対に隠れてる!!」
「お、お兄様……! お願いです、出てきてください……! 私、お兄様がいないと……生きていけません……!」
石段をドシドシと踏み鳴らしながら叫ぶ、三つ子の妹たちの怒号と悲鳴。
「っ……!? 嘘だろ、もうここまで追いついてきたのか!?」
俺は跳ね起きるように立ち上がろうとした。
しかし、瑠愛は焦る様子も見せず、むしろ恍惚とした笑みを浮かべて俺の腕を力強く引き戻した。
「……黒木くん、静かに……」
瑠愛は俺を神楽殿の太い木柱の影へと引きずり込むと、自分の華奢な身体を俺の胸へと完全に密着させてきた。
背中を古い木造の壁に押し付けられ、正面からは瑠愛の柔らかい体温が覆いかぶさる。
距離にして、完全なゼロ”センチ”。
「……息……殺して……。ここで動いたら……見つかっちゃう……」
瑠愛は俺の耳元に唇を極限まで近づけ、熱い吐息とともに囁いた。
その瞬間、神楽殿のすぐ脇の小道を、ジャージ姿の愛陸と愛空、そして涙目の愛海が駆け抜けていった。
「おかしいわね……! 境内の表にはいなかったわよ!?」
「愛陸姉ぇ、裏手だよ! 神楽殿の裏とか、絶対怪しいって!」
「お、お兄様……! 涼風様に変なおまじないをかけられてしまわれたのでは……っ!」
妹たちの足音が、俺たちが隠れている木柱のすぐ反対側でピタリと止まった。
壁一枚、距離にして十数”センチ”の隔たり。
俺の心臓は破裂しそうなほど激しく鐘を鳴らしていた。もし今、瑠愛が小さな声を漏らしたり、俺が深く息を吸ったりすれば、一発で位置が特定される。
だが、当の瑠愛は恐怖どころか、最高潮の快感に震えていた。
(……ふふ……黒木くん……)
瑠愛は声を出さず、口動きだけで俺に語りかけてくる。
彼女の琥珀色の瞳が怪しく光り、萌え袖の手がゆっくりと俺の学ランのホックへと伸びた。
(っ……! 瑠愛、待て……! 今ここでホックを外したら……!)
俺は目配せで必死に制止しようとしたが、瑠愛は可憐に小首を傾げると、萌え袖の先で俺の首筋を優しく撫でまわし始めた。
壁の向こうでは、愛空が「おかしいな……お兄ちゃんレーダーの針が振切りそうなんだけど……」と首をかしげている。
その極限の緊張感の中で、瑠愛は俺の耳朶にそっと自分の唇を重ねてきた。
「……ん……っ……」
かすかな水音が、朝の境内に溶ける。
(……私を拒んだら……大きな声で……黒木くんの名前……呼んじゃうよ……?)
瑠愛の瞳が、そう語っていた。学園の「氷の姫君」が見せる、甘く凶悪な脅惑。
俺は降伏するように目を閉じ、瑠愛の腰を抱き寄せるしかなかった。
瑠愛は満足そうに瞳を細めると、俺の首元に残る昨日の痕の上から、さらに深く、深く、熱い上書きの唇を押し当ててきた。
壁一枚隔てた先で俺を探し回る過保護な妹たち。
そして木造の陰で、人目を忍んで愛を刻みつけ合う俺と瑠愛。
「愛陸姉ぇ! あっちの裏山の方も探してみよう!」
「そうね! 走るわよ愛空、愛海!」
「はいっ……! お兄様、待っていてください……!」
バタバタと遠ざかっていく妹たちの足音。
その音が完全に消え去るまで、俺と瑠愛は早朝の境内の陰で、溶け合うような過剰な密着を重ね続けるのだった。




