第四十六話:朝もやの逃亡と、二人の隠れ家
「で、デートって……こんな早朝からか……!?」
朝もやの立ち込める無人の公園。
ベンチの脇で、涼風瑠愛は俺の手をポケットの中で固く握りしめたまま、琥珀色の瞳を可憐に細めた。ダボついた萌え袖の先端から伸びる彼女の細い指先は、しっとりと熱を帯びており、俺の指と一本ずつ熱く深く絡み合っている。
距離にして、ゼロ**センチ**。
「……うん。……だって、学校が開くまで……あと二時間以上あるでしょ……? それに……こんなに誰もいない街で、黒木くんを独り占めできる機会なんて……めったにないもの……」
瑠愛はつま先立ちのまま、自分の体をさらに俺の側腹部へと押し当ててきた。
制服越しに伝わる彼女の華奢な身体の柔らかさと、早朝のひんやりとした空気の中で際立つ甘い香気。
「でも……家を出る時、俺は勝手口からコソコソ脱出してきたんだぞ。そろそろ妹たちが目を覚まして、俺の部屋が空っぽなのに気づいたら……」
「……大丈夫」
瑠愛は俺の言葉を遮るように、空いている方の萌え袖で俺の唇をそっと優しく塞いだ。
柔らかい布地の感触と、彼女特有の甘い体温。
「……妹さんたちが追いかけてきても……私が、黒木くんを隠してあげる。……誰にも見つからない場所に……二人だけで……閉じこもろ……?」
「閉、閉じこもるって……」
「……来よう。私のお気に入りの場所」
瑠愛は嬉しそうに口元を綻ばせると、俺の手を引いて早朝の住宅街を歩き出した。
◇◇◇
二人が向かったのは、通学路から少し外れた、古い神社へと続く裏山の参道だった。
うっそうと茂る木々が朝日を遮り、幾重にも重なる緑の葉から朝露がぽたりと落ちる。鳥のさえずりだけが響く静寂の世界。
鳥居をくぐり、苔むした石段を上りきった先にあったのは、小さな社の裏手にある木造の神楽殿の影だった。
「……ここなら、妹さんたちも絶対に来ない」
瑠愛は神楽殿の板張りの縁側に腰を下ろすと、俺の学ランの裾をキュッと引っ張って隣へ促した。
「……座って、黒木くん」
「……ああ」
俺が隣に腰を下ろすと、瑠愛は待っていましたとばかりに俺の腕に抱きつき、頭を俺の肩へと預けてきた。
密着するふたつの体温。朝の冷気が二人の周りだけ溶けていくような、圧倒的な密室感。
「……ふぅ……」
瑠愛は安心したように深く息を吐き出すと、萌え袖の手で俺の首元――ガチガチに留められた第一ボタンとホックへと手を伸ばした。
「あ、瑠愛……? 何を……」
「……確認。……私の痕、消えてないか……見せて……?」
瑠愛の細い指先が、ホックをパチンと外す。
朝の冷たい空気が俺の首筋を撫で、同時に昨日の放課後に瑠愛が残していった赤く甘い痕跡が露わになった。
瑠愛はその痕跡を琥珀色の瞳でじっと見つめると、感涙にむせぶような熱い吐息を漏らした。
「……よかった……。ちゃんと、残ってる……。……妹さんたちに、消されてなかった……」
「消されるわけないだろ。必死でガードしたんだから」
「……ありがとう、黒木くん……。私のお願い……ちゃんと守ってくれて……」
瑠愛は愛おしそうに痕跡へ指先を這わせると、そのまま自分の柔らかい唇を押し当ててきた。
「ん……っ……」
「……あ……瑠愛……! 外だぞ……!?」
「……大丈夫……。誰も……見てないよ……」
朝もやの境内で重なり合うふたつの影。瑠愛は俺の首元に顔を埋めたまま、萌え袖の手で俺の腰をきゅっと強く抱きしめてきた。
「……黒木くん……。私ね……最近、すごく欲張りになっちゃってる……」
首元から響く、小さく切ない声。
「……前は……黒木くんの隣にいられるだけでよかったのに……。今は……妹さんたちから黒木くんを奪いたくて仕方ないの……。……学校にいる間も、お家にいる間も……ずっと私だけのものにしたい……」
学園の「氷の姫君」が見せる、剥き出しの独占欲と執着。
俺は胸を打たれ、彼女の華奢な背中に手を回して強く抱き返した。
「瑠愛……俺はどこにも行かないよ。お前だけの……特別な存在だから」
「っ……! 黒木くん……!」
瑠愛はパッと顔を上げると、潤んだ瞳で俺を直視し、つま先立ちで俺の頬へと自分の唇を寄せた。
ゼロ**センチ**の距離で交わされる、朝露のような甘い契約。
◇◇◇
その頃――黒木家。
「大変だよ愛陸姉ぇ!! お兄ちゃんが部屋にいない!!」
愛空が俺の部屋の扉を叩き割り、絶叫していた。
「なんですって!?」
ジャージ姿の愛陸が駆け込み、ベッドの上が空っぽであること、そして勝手口の鍵が開いていたことを確認して顔を青くした。
「勝手口から逃げたのね……! 朝の五時に逃げ出すなんて、よっぽどの理由があるはずよ!」
「お、お兄様……! 私のお手製朝ご飯も召し上がらずに、どこへ行ってしまわれたのですか……!」
愛海が涙目になりながら、俺の部屋のゴミ箱や机の上を検分する。
愛空は「お兄ちゃん捜索レーダー」をフル稼働させ、窓の外の朝もやを睨みつけた。
「……間違いない。お兄ちゃんは……朝の5時に『誰か』と待ち合わせて逃げたんだ! この時間に動くなんて……あの女しかいない!」
「涼風瑠愛……!!」
愛陸が拳を激しく握りしめる。
「全員、制服に着替えなさい! 学校までの全通学路と裏道をローラー作戦で捜索するわよ! お兄ちゃんをあの女の毒牙から奪い返すの!!」
「「了解!!」」
三つ子の妹たちの過保護な包囲網が、早朝の街並みへと一斉に解き放たれる。
神社のかげりで抱き合う俺と瑠愛。そして、街を猛スピードで駆け巡る妹たち。
朝陽が街を朱色に染め上げる中、二人の「ゼロ距離」と妹たちの「執着」は、さらなる激突の瞬間へと刻一刻と近づいていたのだった。




