第四十四話:深夜の解錠と、甘い密告
妹たちによる怒涛の詰問ラッシュをなんとか交わし、夕飯のハンバーグを駆け込むように胃袋へ流し込んだ俺は、逃げるように自分の部屋へと駆け込んでいた。
カチャリ、と内鍵を閉める。
「……ハァ……っ、死ぬかと思った……」
俺はベッドの上に大の字になって倒れ込み、天井の蛍光灯を見上げた。
今日の夕食時は、まさに針の山だった。
長女の愛陸は「本当にただの古典の課題だったんでしょうね!?」と何度も念を押し、次女の愛空は俺が箸を動かすたびに「お兄ちゃん、首元が動くたびに学ランの襟を直す癖がついてる! 絶対に何か隠してる!」と鋭い指摘を飛ばしてきた。そして三女の愛海は、「お兄様のお体をお拭きします……!」とおしぼりを手に何度も首元へ迫ってきたのだ。
もしもホックが外れ、涼風瑠愛が雨の資料室で上書きしていったあの小さく甘い痕跡が見つかっていたら――我が家は間違いなく大惨事になっていただろう。
「……ふぅ」
俺はポケットの中から、去り際に瑠愛から渡されたメモ用紙を取り出した。
小さく折りたたまれた白い紙を開くと、そこには流麗な文字で短いメッセージが記されていた。
『……妹さんたちのご飯、美味しかった……? 私の熱、ちゃんと残ってる……? 今夜、11時にLINEして。……電話、声が聞きたいな』
「瑠愛のやつ……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような甘い疼きを覚える。
学園では誰とも群れず、氷のように冷静で完璧な「氷の姫君」。そんな彼女が、俺の前でだけ見せる甘く、重く、一途で過剰なまでの執着。
時計の針を見ると、時刻は夜の十時五十八分。
タイミングを計ったように、スマホがブブッと短く振動した。
画面に表示されたのは、涼風瑠愛の名前。メッセージではなく、直接の音声通話の着信だった。
俺は息を呑み、ドアの向こうに妹たちの気配がないかを確かめてから、画面をスワイプして耳に当てた。
「……もしもし、瑠愛?」
『……あ……黒木くん』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、微かに湿り気を帯びた、吐息のように甘い彼女の声だった。
耳元で直接囁かれているような錯覚に、背筋にゾクゾクとした痺れが走る。
『……ちゃんと、電話……出てくれたね。……嬉しい』
「ああ。約束だったからな。……瑠愛、家には無事着いたか?」
『……うん。……でも、お家についてから……ずっと、黒木くんのこと……考えてた』
電話の向こうから、衣擦れの音がカサリと響く。瑠愛がベッドの上で身をよじらせているのが、目に見えるようだった。
『……妹さんたちに……怒られなかった……?』
「怒られたっていうか……尋問の嵐だったよ。愛陸も愛空も愛海も、俺の首元を剥ぎ取ろうと必死でさ。冷や汗で服がびっしょりになったくらいだ」
『……ふふ』
瑠愛が小さな含み笑いを漏らした。その声には、どこか満足げな響きが含まれていた。
『……ダメだよ……妹さんたちに見せちゃ。……だって、あの痕は……私と黒木くんだけの……秘密の証明だから……』
「お前が大胆につけるからだろ……。明日の朝も隠すのが大変なんだからな」
『……隠さなくて、いいのに』
瑠愛の声が、すっとトーンを落とした。甘く、重い熱気が、電波を通じて俺の部屋の空気を塗り替えていく。
『……本当はね……学園のみんなにも、妹さんたちにも……全部見せちゃいたいの。……黒木くんは私のものだって……私が黒木くんの特別な存在なんだって……みんなに分からせたい』
「瑠愛……」
『……ねぇ、黒木くん』
受話音量の向こうで、瑠愛の微かな呼吸音が荒くなっていくのが分かった。
『……今ね、私……萌え袖の手で……自分の首元、撫でてるの』
「え……?」
『……さっき、雨の資料室で……黒木くんに抱きしめてもらった時の体温……まだ、残ってるよ。……黒木くんの匂いも……制服に染み付いてて……離れたくないのに……』
「っ……」
情景が、鮮明に脳裏に浮かび上がる。
自分の部屋のベッドの上で、ダボついた部屋着の萌え袖を口元にあて、琥珀色の瞳をトロンと蕩かせながら俺の声を聴いている瑠愛の姿。
距離にして、電話越しであっても**あと三センチ**の距離に彼女がいるような圧倒的な密着感。
『……黒木くん……声、もっと聴かせて……? ……「瑠愛が好きだ」って……昼間みたいに……囁いて……』
「……瑠愛。電話でそんなこと言わせる気か……?」
『……言わせて……。……じゃないと、今すぐ黒木くんの家まで走っていって……窓から忍び込んじゃいそう……』
彼女の言葉は、冗談には聞こえなかった。
学園の「氷の姫君」が一線を越え、俺への絶対的な執着を開花させてからというもの、彼女の情熱はどこまでも直球で、どこまでも危険な甘さを帯びていた。
「……好きだよ、瑠愛」
俺は声を潜め、スマホの向こうの彼女にだけ聞こえるように低く呟いた。
「誰よりも……瑠愛のことが、好きだ」
『……んっ……!!』
スピーカー越しに、瑠愛が息を呑む小さな艶っぽい声が響いた。
『……あぁ……黒木くん……。……ずるいよ……そんな優しい声で言われたら……もっと、欲しくなっちゃう……』
瑠愛の甘い吐息が、夜の静寂に溶けていく。
『……明日ね。……朝の角で会ったら……抱きしめてね……? ……誰も見てない隙に……一回だけ……ゼロ距離で……』
「……善処するよ。妹たちの目を盗めたらな」
『……ふふ。……約束だからね。……おやすみなさい、私の黒木くん』
ブツッ、と通話が切れた。
静まり返った部屋の中で、俺の心臓は鐘のように激しく打ち鳴らされていた。スマホを握る手が、彼女の熱の余韻でじんわりと温かい。
だが――その直後だった。
トントン。
「……お兄ちゃん? まだ起きてるの……?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、三女の愛海の消え入りそうな声だった。
俺は跳ね起き、慌ててスマホを布団の下へ隠した。
「あ、愛海……!? どうしたんだ、こんな遅くに……」
ガチャリ、と鍵を開けてドアを少しだけ開けると、そこにはパジャマ姿で、大きな枕を両手でギュッと抱きかかえた愛海が立っていた。湿り気を帯びた大きな瞳で、俺をじっと見上げてくる。
「……お兄様……。なんだか、お部屋の中から……お話し声が聞こえたような気がして……」
(っ……!? 聞かれてたのか……!?)
「あ、いや! それはラジオを聞いてたんだよ! 海外の深夜ラジオ番組をな!」
「……そうですか……?」
愛海は首をかしげ、不審そうに俺の部屋の中を覗き込もうとした。その視線は、俺のガチガチに留められたパジャマの首元へと注がれている。
「……お兄様。お休みになる時まで、そんなに首元を閉めていらっしゃると……お息苦しくありませんか……? 私が……お解きしましょうか……?」
「だ、大丈夫だ愛海! 俺は首元が暖かくないと寝られない体質なんだ!」
「……お兄様……最近、私に隠し事をしていらっしゃいますよね……?」
愛海の手が、枕をキュッと強く握りしめた。
その可憐な顔立ちの裏に、愛陸や愛空とはまた違う、静かで底深い「お兄様への執着」が覗く。
「……涼風様のこと……本当は、古典の課題だけじゃないんですよね……? お兄様が……私以外の女の子の匂いをさせて帰ってこられるの……私、すごく……悲しいです……」
「愛海……」
「……今夜は……一緒にお休みさせていただいても……よろしいですか……? お兄様がどこかへ行ってしまわれないように……」
過保護な妹たちの包囲網が、深夜の自室にまで迫ってくる。
そして明日の朝には、通学路の角で萌え袖の手を握りしめた瑠愛が、俺との「ゼロ距離」を待っているのだ。
昼と夜、密室と日常。二つの濃厚な熱量に挟まれながら、俺の過熱する青春は、誰にも止められない領域へと突き進んでいくのだった。




