第四十三話:夕暮れの牽制と、解けぬ密約
雨上がりの濡れたアスファルトが、沈みゆく夕日の朱色を鮮やかに反射していた。
住宅街のど真ん中、狭い通学路の中央で対峙するふたつの陣営。
かたや、予備のビニール傘やタオルを抱え、怒りと困惑で肩をいからせている三つ子の妹たち――長女の愛陸、次女の愛空、三女の愛海。
かたや、一本の小さな折りたたみ傘の下で、俺の腕にしがみつくように身体を寄せる涼風瑠愛。
「親切で送ってあげてた……ですって!? どこがよ!!」
沈黙を破り、弾かれたように叫んだのは愛陸だった。短めの黒髪を激しく揺らし、濡れた舗装路をドシドシと踏みつけながら俺たちへと詰め寄ってくる。
「親切で送るだけなら、なんでそんなにお兄ちゃんにぴったり密着してんのよ! 傘の幅だって余ってるじゃない! 完全に肩と肩が重なってるでしょ! 相合い傘っていうか、ただの抱きつきじゃない!!」
「そうだよ愛陸姉ぇの言う通りだよ!」
すさかさず愛空が同調し、目ざとく俺たちの足元と肩の距離を指さした。
「愛空ちゃんの『お兄ちゃん密着度測定センサー』が限界値を突破してるもん! 涼風さん、学園では『氷の姫君』なんて呼ばれて男子を寄せ付けない高嶺の花のフリしておいて、なんでお兄ちゃん相手にはそんなデレデレ……ううん、ヌルヌルした甘いオーラ出してるのさ!?」
「あ、愛空ちゃん……ヌルヌルは言い過ぎでは……っ」
愛海が泣きそうな顔で制止しようとするが、その両手はしっかりと予備の大きなタオルと折りたたみ傘を握りしめ、今にも俺を瑠愛から引き剥がそうと手ぐすねを引いている。
「お、お兄様……! お濡れになっておられるのでしたら、私がお持ちしたこの大きな特製バスタオルをお使いください……! 涼風様のお手をお煩わせするわけにはまいりません……! さあ、どうぞこちらへ……!」
愛海が差し出してきたフワフワのタオル。
だが、俺がそれを受け取るために一歩踏み出そうとした瞬間――ポケットの中で俺の指を絡め取っている瑠愛の細い指先が、ぎゅっと力強く締め上げられた。
痛いほどの力ではない。けれど、「離さない」「どこにも行かせない」という、恐ろしいほどの執着と拒絶がこもった熱い圧迫。
「……あら」
瑠愛は、妹たちの激しい詰問を前にしても、ピクリとも表情を崩さなかった。
むしろ、夕暮れの朱光に染まる琥珀色の瞳を可憐に細め、萌え袖の手で口元を優雅におおいながら、すっと小首を傾げてみせる。
「……親切に他意はないわ。ただ、黒木くんが傘を持っていなくて可哀想だったから……雨に濡れて風邪でも引かれたら、同じクラスの委員として心配でしょう?」
「委員ならもっと離れて差し出しなさいよ!!」
「……それに」
瑠愛は愛陸の怒号をさらりと受け流し、視線だけを俺の顔へと向けた。
距離にして、わずか三センチ。
「……黒木くん自身が、私と一緒に帰りたいって……私と相合い傘がいいって、言ったのよ……ねぇ、黒木くん?」
「っ……!? お、俺が……!?」
瑠愛が上目遣いで覗き込んでくる。その瞳の奥には、「ここで否定したら、今日の放課後のおしおきの続きを今夜LINEでたっぷりしてあげる」という、可憐で凶悪な脅迫が仕込まれていた。
同時に、正面からは三つ子の妹たちの「お兄ちゃん、本当なの……!?」という殺気立った視線が突き刺さる。
右に行けば瑠愛の過剰な執着の底なし沼。左に行けば妹たちの過保護な拷問部屋。
まさに進退維谷、絶体絶命の極限状態だった。
「あ、いや……それはだな……!」
俺は冷や汗を怒涛のように噴き出させながら、必死で頭脳をフル回転させた。
「雨が急激に強くなってきたから、昇降口で立ち往生してたら涼風が声をかけてくれて……! お前たちが傘を持って追ってきてくれてるなんて知らなかったから、好意に甘えただけなんだよ! な、決して変な意味じゃなくてだな!」
「……ふーん?」
愛空が目を細め、じりじりと距離を詰めてくる。その視線は俺の顔から下へと移動し、ガチガチに留められた学ランの第一ボタンと、その奥のホックへと注がれた。
「じゃあお兄ちゃん。なんでそんなに首元を頑なにガードしてるわけ? 風邪予防にしては、今さっきまで雨が降って湿気ムンムンだったのに、首元に汗かいてるんじゃない?」
(ひっ……! 鋭すぎる……!!)
「そ、それは……ほら! 旧校舎の資料室の掃除をして、地下通路を走って抜けてきたから熱気が籠もってるだけで……!」
「資料室ぁ!?」
愛陸が目ざとく反応した。
「やっぱり今日の放課後も旧校舎にいたのね!? 昨日に引き続き、なんでそんなに旧校舎に行くわけさ! 芳香剤の掃除は昨日終わったって言ってたじゃない!」
「それについては、私からも説明できるわ」
静かに割り込んだのは、瑠愛だった。
瑠愛は萌え袖の手で俺の腕をさらに固く抱きかかえ、妹たちに向かって堂々と告げた。
「古典の授業の課題で、旧資料室に保管されている古い文献を参照する必要があったの。私が黒木くんに手伝いを頼んだのよ。……先生からの正式な手伝い要請だから、何の問題もないはずだけれど?」
「うっ……古典の課題……」
愛陸が言葉に詰まる。優等生であり学園の「氷の姫君」である瑠愛からそう堂々と言われてしまえば、ただの高校生である妹たちにはそれ以上追及する術がない。
だが、愛空と愛海は納得いかない様子で唇を噛みしめていた。
「……とにかく!」
愛陸は強引に気持ちを切り替えるように、パンと両手を叩いた。
「ここからは私たちが傘を持ってきたんだから、お兄ちゃんは私たちの傘に入りなさい! 涼風さん、お兄ちゃんを送ってくれてありがとうございました! ここからは家族の領分ですので、お引き取りください!」
愛陸が俺の左腕を掴み、ぐっと引き寄せる。
「お兄ちゃん、お家に帰ろ! 今夜は私特製のハンバーグだから!」
「あ、愛陸姉ぇズルい! 私も右腕持つ! お兄ちゃん、帰ったら一緒にゲームの続きやる約束でしょ!」
「お、お兄様……! お風呂のお湯、もう沸かしてありますから……!」
三つ子の妹たちが一斉に俺に群がり、左側から引っ張り始める。
だが――右側を死守する瑠愛は、一切引こうとしなかった。
彼女は萌え袖の手で俺の右腕をしっかりと抱きかかえたまま、俺のポケットの中で絡めていた指先を、さらに深く、固く繋ぎ直した。
「……だめ」
小さく、けれどはっきりと響いた瑠愛の声。
「え……?」
愛陸たちが動きを止める。
瑠愛は夕暮れの街並みをバックに、どこか儚げで、けれど揺るぎない絶対の意志を宿した瞳で妹たちを見据えていた。
「……黒木くんは、まだ私と……話の続きがあるの。……だから、家につくまで……私と一緒に歩く」
「はぁ!? なんで他人の涼風さんがそこまで主張するわけ!? 家族より優先される話ってなんなのよ!」
「……秘密」
瑠愛は可憐に微笑むと、妹たちに見えないように、俺の耳元へ顔を寄せた。
熱く湿った吐息が、俺の耳朶をくすぐる。
「……ねぇ、黒木くん。……このまま私と……駆け落ちしちゃう……?」
「っ……!!」
「冗談だよ……ふふ」
瑠愛は楽しそうに密やかに囁くと、ゆっくりと俺の右腕から手を離した。だが、離れ際に萌え袖の先で俺の手に小さなメモ用紙を押し付けてくる。
「……じゃあね、黒木くん。……明日も、ちゃんと朝の角で待ってるから。……妹さんたちに、首元の痕……消されないように気をつけてね?」
そう言い残すと、瑠愛は優雅に一礼し、雨上がりの通学路を一人、夕日の中へと歩き出していった。その背中はどこまでも気高く、そして美しかったが、去り際に振り返った一瞬の瞳には、俺に対する深い、深い熱が宿っていた。
「……なんなのよ、一体……!」
愛陸が悔しそうに地踏みをする。
「お兄ちゃん! 涼風さんと絶対何かあったでしょ! 正直に言いなさい!」
「愛空ちゃんのセンサーが『お兄ちゃんが奪われそう』って大警報を鳴らしてるんだから!」
「お、お兄様……! お首元……やっぱり少し赤くなっていらっしゃいませんか……!?」
妹たちに囲まれ、詰問の嵐を浴びながら、俺はポケットの中で瑠愛から渡されたメモ用紙をそっと握りしめた。
妹たちの猛烈な過保護包囲網と、日増しに甘さと重さを増していく瑠愛の絶対的な執着。
雨上がりの夕闇が街を包み込む中、俺の第二部は、さらに激しく過熱する日常へと飲み込まれていくのだった。
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