第三十九話:冷めぬ余熱と、廊下の視線
「……ん」
朝の通学路、角の陰。
三つ子の妹たちの足音が遠くから近づいてくる緊張感のなか、涼風瑠愛は俺の学ランの襟元を萌え袖の手でそっと撫で下ろした。
「……またあとでね、黒木くん。……教室で、待ってるから」
彼女は琥珀色の瞳を可憐に細め、名残惜しそうに指先を離すと、何事もなかったかのようにすっと姿勢を正した。
その瞬間に見せたのは、学園の誰もが恐れ敬う「氷の姫君」の完璧な仮面だった。
「あー!! いた! お兄ちゃん!!」
「やっぱり先に行って逃げようとしてたでしょ! この浮気者ー!」
曲がり角から飛び出してきた長女の愛陸と、次女の愛空、そして息を切らせた三女の愛海。
「……あら、おはようございます。黒木くんの妹さんたち」
瑠愛はいつもの冷徹で隙のない声をかけ、優雅に一礼する。
「っ……! す、涼風さん……! おはようございます……」
愛陸たちは、瑠愛の圧倒的な気品とオーラに気圧され、一瞬だけ足を止めて言葉を詰まらせた。だが、愛空の鋭い視線は逃さなかった。俺の首元――ガチガチに留められた学ランのホックと、瑠愛の制服の袖口を交互に見つめ、悔しそうに歯噛みする。
「お兄ちゃん……今日の放課後は……絶対に逃がさないからね……!」
「……ええ、頑張って頂戴。では、失礼するわ」
瑠愛は素っ気無く言い捨てると、優美な足取りで校門へと歩き出した。すれ違いざま、妹たちには絶対に見えない角度で、俺だけに萌え袖の先端をちょこんと振ってみせる。
その悪戯っぽい仕草だけで、俺の胸は激しく打たれた。
◇◇◇
朝のホームルームが終わり、1時間目の授業が始まる直前の廊下。
俺は教科書を抱えて移動教室に向かおうとしていたが、後ろから聞こえる囁き声に身を縮こまらせていた。
「ねぇ、見た……? 今朝、涼風さんと黒木くんが一緒に登校してたんだけど……」
「マジで!? あの『氷の姫君』が男子と登校なんて、一度も見たことないぞ……!」
「しかもさ……涼風さん、黒木くんと話す時だけ、なんかほんの少し顔が赤くなかった……?」
クラスメイトや他クラスの生徒たちの視線が、俺の背中に突き刺さる。
第30話で一線を越え、ゼロ距離の熱を知ってしまった俺たちの関係は、どれだけ隠そうとしても、空気感として校内に伝波し始めていたのだ。
(まずいな……噂が広まれば、瑠愛の学園での立場にも関わるし、何より妹たちの監視網がさらに過激化する……)
俺が冷や汗をかきながら廊下を急いでいると、前方から黄金色の繊細な髪をなびかせた少女が歩いてきた。
瑠愛だ。
彼女の周りには自然と人だかりを避けるような空間ができており、誰もが遠慮がちに彼女を見送っている。
すれ違う、その**3センチ**の瞬間。
彼女は誰にも見えないように、すっと制服の萌え袖からメモ用紙を滑り込ませ、俺の手に握らせてきた。
手と手がかすかに触れ合う触感。
すれ違いざま、彼女の甘いシャンプーの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。瑠愛は無表情のまま前を見据えて歩き去っていったが、その耳たぶは真っ赤に染まっていた。
「……っ」
俺は階段の踊り場まで移動し、こっそりと渡されたメモ用紙を開いた。
そこには、流麗で美しい文字でこう書かれていた。
『みんなが私たちを見てる。……でも、私には黒木くんしか見えないよ。……放課後、必ず資料室に来て。……また、おしおきしてあげるから』
「瑠愛のやつ……」
心臓が跳ね上がる。
学園全体の視線が集まる緊張感のなかで、二人だけが共有する圧倒的な「甘い秘密」。
妹たちの猛烈な包囲網をかい潜り、放課後の旧第一資料室へ向かうための俺の闘志は、静かに、けれど熱く燃え上がっていたのだった。




