第三十六話:扉越しのアリバイと、密室の誓い
「……ん……っ……」
旧第一資料室の重厚な木製扉。
そのわずか数十センチ隔てた向こう側では、三つ子の妹たちが必死にドアノブをガチャガチャと回し、激しく扉を叩いている。
「開けなさいってお兄ちゃん! なんで鍵かけて閉じこもってんのさ!」
「そうだよお兄ちゃん! 愛空ちゃんの『お兄ちゃん不審行動レーダー』がビンビンに反応してるんだから! 中に誰かいるんでしょ!?」
「お、お兄様……! なかで私に言えないような……あられもないことをされているのですか……!?」
ドアの向こうから聞こえる、愛陸の怒声、愛空の詰問、そして愛海の悲痛な叫び。
けれど、いま俺の膝の上にちょこんと乗っかり、俺の胸板にその小さな体躯を押し当てている涼風瑠愛は、逃げるどころか微動だにしなかった。
むしろ、琥珀色の瞳を怪しく輝かせ、萌え袖の手で俺の制服の襟元をキュッと握りしめてくる。
距離にして、ゼロセンチ。
「……ねぇ、黒木くん」
瑠愛が耳元で囁く。湿り気を帯びた熱い吐息が肌をくすぐり、俺の背筋に強烈な痺れが駆け抜けた。
「……声、出したら……バレちゃうね」
「っ……瑠愛、お前……面白がってないか……?」
「面白がってなんか……ないよ。……ただ、すごく……高揚してるだけ」
瑠愛は耳たぶを真っ赤に染めながら、さらにぐっと俺の首元へと顔を寄せた。彼女の繊細な黄金色の髪が揺れ、甘いシャンプーの香りが狭い空間に充満していく。
(やばい……本当にドアの隙間から香りが漏れる……!)
「おい、お兄ちゃん!? 返事しなさいよ! 黙ってたら本当に教頭先生呼んできて鍵開けてもらうからね!?」
愛陸の容赦ない脅迫が飛んでくる。教頭先生を呼ばれたら本当に終わりだ。鍵が開けられた瞬間、学園トップの「氷の姫君」と俺が密着している姿が白日の下に晒される。
「待て! 教頭先生は呼ぶな!」
俺は必死に声を張り上げ、平静を装って叫んだ。
「い、いま……資料の整理中なんだよ! 旧校舎の資料室は埃っぽいから、鍵をしめて集中してたんだ!」
「嘘だ! 埃の匂いじゃなくて、絶対に女子の甘い香りが漂ってきてるもん!」
愛空の嗅覚が鋭すぎる。だが、俺はここ一番の頭脳戦を繰り広げるしかなかった。
「そ、それは……ほら! 資料室の奥に置いてあった、昔の芳香剤の瓶をひっくり返しちゃったんだよ! だからすごく匂いが強いんだ!」
「え……? 芳香剤……?」
ドアの向こうで愛陸たちの動作がピタリと止まった。
「本当か……? だとしたら、なんで鍵までかけてるのさ……」
「お前らが放課後になると凄まじい勢いで追いかけてくるからだろ! ゆっくり資料も読めやしない! ……とにかく、俺はまだしばらく作業があるから、お前たちは先に帰ってろ!」
「むぅ……お兄ちゃんがそこまで言うなら……」
愛陸の声に迷いが生じる。すかさず愛空が「でも愛空ちゃんは納得いかないー!」と抗議しているが、愛海が「お、お兄様が作業中なら……お邪魔をしては……」と引き留めているようだ。
やがて、カツカツと足音が遠ざかっていく。
「……ふぅーーーーっ!!」
俺は全身の力を抜き、分厚い扉に頭を打ち付けた。冷や汗で制服の背中がびっしょりと湿っている。
「……すごーい。黒木くん、お口が上手……」
「誰のせいでこんな命がけの弁明をしなきゃいけなかったと思ってんだ……」
俺が呆れ顔で視線を落とすと、膝の上の瑠愛は萌え袖を口元にあて、可憐な笑みを浮かべていた。
しかし、妹たちの足音が完全に消え去ったのを確認した瞬間――瑠愛の表情から悪戯っぽさが消え、代わりに濃密な熱が宿った。
「……ねぇ、黒木くん」
瑠愛は俺の太ももの上で身を乗り出し、俺の両肩をギュッと掴んできた。
「……妹さんたち、行っちゃったね」
「ああ……なんとか誤魔化せたな……」
「じゃあ……ここには、もう……私と黒木くんの二人だけ……」
瑠愛の琥珀色の瞳が、潤みを帯びて艶やかに揺れている。彼女は自分の唇を、俺の唇からわずか三センチの距離まで近づけてきた。
「……さっきの……おしおきの続き。……まだ、終わってないよ」
「瑠愛……?」
「『芳香剤の匂い』なんて……寂しいこと言わないで。……私のシャンプーの匂い……黒木くんの体に……もっといっぱい……染み込ませたい……」
瑠愛は萌え袖の手を俺の首元にしっかりと巻き付けると、背の伸び上がるような体勢で、俺の唇へと自分の柔らかい体温を重ねてきた。
「……ん……っ……」
密室の資料室に、微かな水音と甘い息遣いが溶けていく。
一度一線を越えてしまった彼女の「あと3センチ」の境界線は、もうどこにも存在しなかった。
外の夕闇が深まっていく中、俺たちは誰にも言えない秘密の契約を、何度も、何度も重なり合う熱とともに刻み込んでいくのだった。




