第三十二話:角を曲がった先の熱と、秘められた手
「じゃ、俺先に行くから!」
「あ! 待ちなさいってお兄ちゃん! まだ私の髪飾りがセットできてないでしょー!?」
背頭から響く愛陸の叫び声を背に、俺は逃げるように我が家の玄関を飛び出した。
朝の澄んだ空気が、火照った顔面を心地よく冷やしてくれる。三つ子の妹たちの凄まじい過保護と束縛から脱出した安堵感。……そしてそれ以上に、俺の胸を支配していたのは、この先で待っている彼女への強い高揚感だった。
通学路の途中に存在する、住宅街の小さな交差点。ブロック塀の影になったその角に近づくにつれ、自然と足取りが早くなっていく。
角を曲がった、その瞬間――。
「……遅い」
ぽつりと漏らされた可憐な音。
壁に背を預けて立っていたのは、涼風瑠愛だった。
朝の柔らかな光を浴びて、彼女の繊細な黄金色の髪がキラキラと輝いている。ダボついた制服の萌え袖を胸の前でぎゅっと握りしめ、琥珀色の瞳が俺の姿を捉えた瞬間、パッと華やかに跳ねた。
「……おはよう、黒木くん」
「おはよう、瑠愛。……待たせたか?」
「ん……少しだけ。でも……来てくれたから、許す」
瑠愛は足音を立てずに俺の目の前まで歩み寄ってきた。
距離にして、わずか三十センチ。
昨日の放課後、あの非常階段の暗闇で交わした密着と触れ合うだけの口づけ。その記憶が互いの脳裏を駆け巡り、ふたり分の息が同時に詰まった。
「……っ」
「……ねぇ、黒木くん」
瑠愛が上目遣いで、潤んだ瞳を俺に向けてくる。耳たぶがぽっと朱色に染まっていた。
「……昨日の、おしおきの……続き」
「え……?」
言われるがまま立ち尽くしていると、瑠愛は萌え袖の中から細い指先をちょこんと覗かせ、俺の制服の手首のあたりをギュッと掴んできた。
「……手、繋いで」
「っ……! ここ、通学路だぞ? 誰に見られるか――」
「嫌……。繋いでくれなきゃ……歩かない」
駄目だ、完全に甘えモードに入っている。
普段の「氷の姫君」としての厳格な面影はどこにもない。俺だけにしか見せない、圧倒的な無防備さ。
「……分かったよ」
俺は覚悟を決め、彼女の華奢な手をそっと包み込んだ。
萌え袖の柔らかい生地越しに伝わってくる、彼女の熱い体温。瑠愛は嬉しそうに口元を緩めると、指と指を深く絡ませる恋人つなぎへと持ち替えてきた。
「……ん。……ぬくもり、すごい……」
「瑠愛の手、すごく温かいな……」
「黒木くんが……温めてくれてるからだよ……」
二人は並んで歩き出す。
周囲の住宅から登校中の生徒たちの姿が見え始めるたび、俺たちはサッと繋いだ手を制服の大きなポケットの中へと隠した。
ポケットの中という密室で、重なり続けるふたつの手。
「……ふふ、秘密の恋人みたい」
「みたいというか……俺たち、もう不干渉条約なんて……形骸化してるよな」
「……条約は、破られたの。……黒木くんが、私を……甘やかすから」
瑠愛は俺の肩に、自分の小さな肩をぽんと預けてきた。
歩くたびに伝わる微かな振動と、彼女のシャンプーの甘い香り。
校門が見えてくるまでのわずか数百メートルが、まるで永遠に続いてほしい至福の時間に感じられた。
◇◇◇
しかし、校門の前にたどり着いた瞬間、その楽園は唐突に打ち砕かれた。
「あー!! いた! お兄ちゃん!!」
「やっぱり先に行って逃げようとしてたでしょ! この浮気者ー!」
校門の脇から飛び出してきたのは、息を弾ませた愛陸と愛空だった。遅れて三女の愛海も「お、お兄様……!」と駆け寄ってくる。
(っ……! 速攻で追いついてきやがった……!)
俺と瑠愛は反射的にポケットの中で手を引き剥がし、数十センチの距離を取った。
愛陸は仁王立ちで俺を睨みつけると、ふと俺の隣に立っていた瑠愛へと視線を移動させた。
「……ん? あれ……?」
愛陸の目が細められる。
学園トップの美少女・涼風瑠愛と、自分たちの自慢の兄・黒木蓮。
二人が絶妙な距離感で隣り合って立っている姿に、次女の愛空が直感めいた危機感を察知したように瞳を大きく見開いた。
「ねぇ……お兄ちゃん? なんで涼風さんと一緒に学校に来てるの……?」
「えっ……? いや、たまたま角で遭遇して――」
「嘘だ!」
愛空が俺の胸元へ突進してきて、その鼻先を俺の上着に擦り付けた。
「やっぱり……! 今朝のお兄ちゃんから漂ってたあの甘い香り、涼風さんのシャンプーの匂いと同じじゃん!!」
「っ……!?」
場に凍りつくような緊張が走る。
愛陸が驚愕の表情で瑠愛を凝視し、愛海も湯呑みを落としそうなほどの衝撃を受けて蒼白になっている。
当の瑠愛はというと――。
彼女はすっと表情を消し、いつもの冷酷で完璧な「氷の姫君」の面容へと瞬時に戻っていた。
「……何か、ご用かしら? 黒木くんの妹さんたち」
氷のように澄んだ、凛とした声。
「私たちはただ、偶然通学路が重なっただけよ。……それとも、私が黒木くんと歩くことに、何か不都合でも?」
「っ……! 不都合なんていうか、お兄ちゃんは私たちの――」
愛陸が言いかけようとしたその時。
瑠愛は妹たちに背を向けながら、俺の視界だけにしか入らない位置で、制服の萌え袖から覗く人差し指を、自分の唇にそっとあててみせた。
(……『昨日のこと、秘密ね』……!)
妖しく、甘く、勝ち誇ったような悪戯っぽい微笑。
妹たちには絶対に見せない、俺だけに与えられた絶対領域の合図。
「……じゃあ、私は先に行くわね。……黒木くん、また放課後に」
そう残して、瑠愛は優雅に校内へと去っていった。
取り残された俺と、猛烈な嫉妬と疑惑の炎を燃やす三つ子の妹たち。
「お兄ちゃん……説明してもらうからね……!」
「愛空ちゃんの『お兄ちゃん奪還作戦』、今日から本気出すから……!」
「お、お兄様……私を捨てないでください……!」
過保護な妹たちの包囲網がさらに激しさを増す中、俺と瑠愛の「秘密の放課後」は、より甘く、よりスリリングに拍車がかかっていくのだった。
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