第三十一話:熱の残り香と、翌朝の急襲
「……お兄ちゃん? 起きてる……?」
耳元で囁かれた可憐な声。
まぶた越しに感じる光と、鼻腔をくすぐる香ばしい焼き魚と出汁の香り。俺がゆっくりと目を開けると、視界いっぱいに広がっていたのは、我が家の三女・愛海の可憐な顔面だった。
距離にして、わずか数センチ。
「うわっ……! ま、愛海!?」
「あ……お兄様、おはようございます……っ」
俺が飛び起きると、愛海は萌え袖の手を胸元でパタパタと振りながら、頬をぽっと朱く染めて後退した。オーバーサイズのエプロンに身を包んだその姿は、相変わらず小動物めいた愛くるしさに満ちている。
「びっくりさせてしまって……すみません。でも、お兄様がなかなか起きてこられないので……心配になって……」
「いや、起こしてくれて助かったよ。……って、今何時だ!?」
枕元のスマホを手にとり、画面を点灯させる。
(……っ! クラスメイトや妹たちからの通知に混じって、彼女からのメッセージが入ってる……!)
通知欄に表示されていたのは、涼風瑠愛からの短文。
『……おはよう。昨日のこと……夢じゃないよね? 学校で、待ってるから』
送信時刻は今朝の6時半。
昨日の放課後、あの薄暗い非常階段の踊り場で交わした密着と、触れ合うだけの小さな口づけ。その強烈な記憶が脳裏に蘇り、一気に心拍数が跳ね上がる。
(夢なわけないだろ……。俺の唇には、まだ瑠愛の柔らかい熱が残ってるような感覚すらあるんだから……!)
「お兄様……? お顔、すごく赤いですけど……熱でもおありですか……?」
愛海が心配そうに顔を覗き込んできた。華奢な指先が、俺の額へと伸ばされる。
「だ、大丈夫だ! ただの寝起きだから! すぐ着替えて降りるよ!」
「はい……。お味噌汁、温めておきますね……」
愛海はどこかわだかまりを感じ取ったような複雑な表情を浮かべつつも、パタパタと部屋を後にしていった。
俺は大きく息を吐き出し、乱れた髪を掻き揚げる。
(落ち着け、黒木蓮……。今日から第二部……いや、俺たちの関係は新しい局面に入ったんだ。平常心を保たないと、家でも学校でも一瞬で察知される……!)
◇◇◇
一階のダイニングルームに降りると、そこはすでに戦場と化していた。
「あ! 遅いよお兄ちゃん! 昨日は途中でどこ消えてたのさ!」
テーブルクロスを勢いよく叩きながら叫んだのは、長女の愛陸だ。短めの黒髪を揺らし、トーストを口にくわえたまま俺を睨みつけてくる。
「下駄箱にも生徒会室の周辺にもいないし! 私たちがどんだけ校内を探し回ったと思ってんの!?」
「だから言ったでしょ愛陸姉ぇ」
隣で優雅に紅茶を飲んでいた次女の愛空が、波打つロングヘアを揺らしながら妖しげな笑みを浮かべた。
「お兄ちゃんは昨日、絶対に『校内の女』とどこかに潜んでたんだよ。ほら見て、今朝のお兄ちゃんの目……なんだか甘やかな毒に当てられたみたいに、ボーッとしてるもん」
「っ……! 別にボーッとしてなんかない!」
ギクリと肩を跳ねさせながら、俺は指定の席についた。愛海がすかさず「お兄様、どうぞ」と温かいご飯とお味噌汁を並べてくれる。
「本当かなぁ〜? じゃあお兄ちゃん、腕出して」
「は? 腕?」
愛空が立ち上がり、俺の隣へ音もなく忍び寄ると、俺の制服の袖口に鼻先を近づけてクンクンと嗅ぎ始めた。
「……あ」
「……何だよ、愛空」
「やっぱり……昨日より濃厚になってる。この甘いシャンプーの匂い……完全に、昨日お兄ちゃんに触れた女子の匂いだよ。しかも、ただ通りすがっただけじゃない……密着してないと、制服の繊維にここまで移らないもん」
(鋭すぎるだろ! どんな嗅覚してんだよこの妹は……!)
背中に冷や汗が噴き出す。
昨日の非常階段での出来事――瑠愛と狭い物置の隙間で抱き合い、唇を重ねたシーンが脳裏を駆け巡る。もしあれが妹たちにバレたら、我が家の平和は一瞬で崩壊する。
「ただの……図書館の消臭剤の匂いだろ。大袈裟なんだよ」
「ふーん……? まあいいや。今日の放課後は、絶対に逃がさないからね? 私と愛陸姉ぇで、お兄ちゃんの教室のドアを両脇から固めるから!」
「愛海も、お兄様のお弁当箱の回収にかこつけて、教室前で待機します……!」
「お前らなぁ……そこまでされると、本気で迷惑なんだが……」
過保護すぎる三つ子の包囲網。
だが、今の俺には彼女たちの言葉すらどこか遠くに感じられていた。
なぜなら、ポケットの中のスマホが、再び小さく振動したからだ。
誰にも見えないように画面を覗き込むと、そこには瑠愛からの二通目のメッセージ。
『……今朝、登校中の角で待ってる。……一緒に、行きたい』
「っ……」
学校での冷酷な「氷の姫君」からは絶対に考えられない、あまりにも直球で甘いおねだり。
一線を越えたことで、彼女の中の「あと3センチ」の壁は、完全に崩れ去っていたのだ。
「お兄ちゃん? またスマホ見てニヤニヤしてる!」
「ニヤニヤしてない! ほら、早く食べて学校行くぞ!」
俺は一気に味噌汁を飲み干すと、鞄を掴んで立ち上がった。
過保護な三つ子の妹たちの視線を振り払い、俺は甘く激しい「第二部」の始まりへと、足を踏み出したのだった。
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