第三十話:触れ合う唇と、放課後の絶対領域
非常階段の踊り場を支配する濃密な静寂。
薄暗い空間をかすかに照らすのは、非常口の誘導灯の緑色の光と、扉の隙間から漏れ出る朱色の夕光だけだった。
「……あとの三センチ、埋めて……」
耳元で囁かれた涼風瑠愛の微かな吐息。
学園一の美少女と称され、誰も寄せ付けない「氷の姫君」として恐れられていたはずの彼女が、いま俺の腕の中で、熱く湿った眼光を向けながら震えている。
「瑠愛……本気、なのか……?」
「……本気に、決まってるでしょ……」
瑠愛は萌え袖に包まれた手をゆっくりと持ち上げ、俺の頬に優しく添えた。ダボついた制服の生地越しに、彼女の華奢な指の形と、じんわりとした温もりが直接伝わってくる。
「ここで……拒絶されたら、私……もう黒木くんの顔、見られなくなる……」
「拒絶なんて、するわけないだろ」
「じゃあ……なんで、ためらうの……?」
瑠愛が上体をほんの少しだけ伸ばす。
その瞬間、二人の間に存在していたわずかな間隙すらも消滅した。
互いの唇が触れ合う、寸前の距離。
吐息が混ざり合い、彼女の琥珀色の瞳に、俺の必死な顔が映り込んでいるのがはっきりと見えた。彼女の甘いシャンプーの香りが脳髄を揺らし、思考能力をどこかへ吹き飛ばしていく。
(……ああ、もう駄目だ)
俺は覚悟を決め、彼女の細い腰を抱き寄せ――。
「……ん」
密着する微かな触感。
柔らかく、甘く、温かい熱が、重なり合った唇を通して全身へと波及していく。
それはほんの数秒間の、繊細で触れ合っているだけの口づけだった。だが、俺たち二人にとっては、世界が反転してしまうほどの決定的な瞬間だった。
「っ……」
先に体を離したのは、瑠愛の方だった。
彼女は両手で自分の口元を覆い、そのまま扉に背中を預けて力なくへたり込みそうになる。俺は咄嗟にその腕を掴み、体を支えた。
「瑠愛……! 大丈夫か!?」
「……だいじょうぶ……じゃ、ない……」
耳たぶどころか、うなじまで真っ赤に染め上げた瑠愛が、指の隙間から俺を見上げていた。その瞳は潤み、息は荒く乱れている。
「……黒木、くんの……バカ……」
「えっ、俺!? 自分から言ってきたのに!?」
「だって……本当に、するなんて……思わなかった……」
「そこは『する』流れだろ!?」
「うぅ……胸が、苦しくて……頭が、おかしくなりそう……」
瑠愛は俺の制服の胸元に顔を押し当て、ごしごしと擦り付けた。
普段の冷徹な姿からは想像もつかない無防備な甘えよう。そのギャップの破壊力に、俺の心拍数も限界突破しそうになっていた。
◇◇◇
カン、カン、カン、カン――。
その時、非常階段の下層から、金属製のステップを叩く足音が響いてきた。
「……お兄ちゃんー!? どこにいるのー!?」
「愛陸姉ぇ、声が大きい! でも本当におかしいよ、下駄箱にもいないし、生徒会室の近くにもいなかったもん!」
「お、お兄様……どこへ行かれてしまったのですか……? まだお家に帰ってきてくださらないなんて……」
(……三つ子たちだ……!)
俺と瑠愛は同時に息を呑み、体を硬直させた。
足音は確実にこの非常階段を登ってきている。長女の愛陸、次女の愛空、三女の愛海の三人が、校内捜索の末にこのデッドエンドへと近づいているのだ。
「……っ、黒木くん……」
瑠愛が蒼白な顔で俺を見つめる。
「……見つかったら、どうなるの……?」
「俺が妹たちに拘束されて二度と放課後に自由行動できなくなるし、何より瑠愛が変な誤解を受けることになる……!」
「嫌……。黒木くんと会えなくなるのは……絶対、嫌……!」
瑠愛が力強く首を振る。彼女は俺の手をギュッと握りしめると、非常階段のさらに上――屋上へと続く踊り場の陰を指差した。
「あっち……隠れよ」
俺たちは足音を殺し、階段の最上部、踊り場の物置用のスペースへと滑り込んだ。古びた清掃用具と大きなプラスチック箱の隙間。大人が二人入るのが限界の狭い暗闇だ。
「……っ」
狭い空間で、再び瑠愛の体が俺の胸の中にすっぽりと収まる。
重なる体温。先ほど交わした口づけの余韻が、互いの体にまだ鮮烈に残っていた。瑠愛は息を殺しながら、俺の服の裾をきつく握りしめている。
ギィ……と重い音を立てて、踊り場の鉄扉が開いた。
「あれー? ここにもいないなぁ……」
愛空の不満そうな声が、すぐ下の階から響いてくる。距離にして、ほんの数メートル。
「おかしいな……お兄ちゃんの上着からした、あの甘い匂い……この階段の近くから漂ってる気がしたんだけど……」
「愛空の鼻はアテにならないでしょ! もー、お兄ちゃんたらどこ行っちゃったのよ! まさか本当に女子とどこかに出かけたの!?」
愛陸が苛立たしげに足踏みをする。
「……お兄様……。私を置いて……どこへ……」
愛海の悲痛な呟きが暗闇に溶けていく。
三人の足音と会話が、ゆっくりと遠ざかっていく。階段を下り、鉄扉が再び「バタン」と閉まる音が聞こえるまで、俺と瑠愛はピクリとも動かずに息を潜めていた。
◇◇◇
「……行った、みたいだな」
俺が低く囁くと、瑠愛は俺の胸に顔を埋めたまま、小さく安堵の吐息を漏らした。
「……びっくり、した……。心臓、止まるかと……思った……」
「本当に危なかった……。あいつら、勘が鋭すぎるんだよ」
「……でも」
瑠愛はゆっくりと顔を上げ、暗闇の中で琥珀色の瞳を妖しく光らせた。
「……スリルがあって、ちょっと……楽しかった」
「楽しかったって……お前な……」
「だって……秘密の共有、でしょ?」
瑠愛は萌え袖の先で俺の指先に自分の指を絡ませてきた。恋人つなぎの形で、固く、固く結ばれる指と指。
「妹さんたちにも……誰にも言えない、私たちだけの絶対領域……」
彼女の口元に、微かな悪戯っぽい笑みが浮かぶ。そこにはもう、心を閉ざしていたかつての「氷の姫君」の面影はどこにもなかった。
「黒木くん……。私、もう……『あと3センチ』の距離には……戻れないよ」
「……ああ。俺も、戻るつもりはない」
狭い物置の隙間で、俺たちは再び静かに寄り添い合った。
外の世界で妹たちが俺を探し回っていようと、学園の誰が噂していようと関係ない。
放課後のこの瞬間だけは、誰にも邪魔できない二人だけの世界だった。
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