↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後、空き教室の3センチ  作者: 三日月
第一部 三章:③秘密の隙間と、冬の予感
PR
31/51

第三十話:触れ合う唇と、放課後の絶対領域

非常階段(ひじょうかいだん)の踊り場を支配する濃密(のうこう)な静寂。


薄暗い空間をかすかに照らすのは、非常口の誘導灯の緑色(みどりいろ)の光と、扉の隙間から漏れ出る朱色(しゅいろ)の夕光だけだった。


「……あとの三センチ、埋めて……」


耳元で囁かれた涼風瑠愛(すずかぜるあ)の微(かす)かな吐息(といき)。


学園一(がくえんいち)の美少女(びしょうじょ)と称され、誰も寄せ付けない「氷の姫君(こおりのひめぎみ)」として恐れられていたはずの彼女が、いま俺の腕の中で、熱く湿った眼光(まなざし)を向けながら震えている。


「瑠愛……本気、なのか……?」


「……本気に、決まってるでしょ……」


瑠愛は萌え袖(そで)に包まれた手をゆっくりと持ち上げ、俺の頬(ほほ)に優しく添えた。ダボついた制服の生地越しに、彼女の華奢(きゃしゃ)な指の形と、じんわりとした温もり(ぬくもり)が直接伝わってくる。


「ここで……拒絶《きょぜつ》されたら、私……もう黒木くんの顔、見られなくなる……」


「拒絶なんて、するわけないだろ」


「じゃあ……なんで、ためらうの……?」


瑠愛が上体(じょうたい)をほんの少しだけ伸ばす。


その瞬間、二人の間に存在していたわずかな間隙(かんげき)すらも消滅した。


互いの唇(くちびる)が触れ合う、寸前(すんぜん)の距離。


吐息が混ざり合い、彼女の琥珀色(こはくいろ)の瞳に、俺の必死(ひっし)な顔が映り込んでいるのがはっきりと見えた。彼女の甘い(あまい)シャンプーの香りが脳髄を揺らし、思考能力(しこうのうりょく)をどこかへ吹き飛ばしていく。


(……ああ、もう駄目だ)


俺は覚悟を決め、彼女の細い腰を抱き寄せ――。


「……ん」


密着(みっちゃく)する微かな(かすかな)触感(しょっかん)。


柔らかく、甘く、温かい(あたたかい)熱が、重なり合った唇(くちびる)を通して全身へと波及していく。


それはほんの数秒間の、繊細(せんさい)で触れ合っているだけの口づけ(くちづけ)だった。だが、俺たち二人にとっては、世界が反転(はんてん)してしまうほどの決定的な瞬間(しゅんかん)だった。


「っ……」


先に体を離したのは、瑠愛の方だった。


彼女は両手(りょうて)で自分の口元(くちもと)を覆い、そのまま扉に背中を預けて力なく(ちからなく)へたり込みそうになる。俺は咄嗟にその腕(うで)を掴み、体を支えた。


「瑠愛……! 大丈夫か!?」


「……だいじょうぶ……じゃ、ない……」


耳たぶ(みみたぶ)どころか、うなじまで真っ赤に染め上げた瑠愛が、指の隙間(ゆびのすきま)から俺を見上げていた。その瞳(ひとみ)は潤み、息は荒く乱れ(みだれ)ている。


「……黒木、くんの……バカ……」


「えっ、俺!? 自分から言ってきたのに!?」


「だって……本当に、するなんて……思わなかった……」


「そこは『する』流れだろ!?」


「うぅ……胸が、苦しくて……頭(あたま)が、おかしくなりそう……」


瑠愛は俺の制服の胸元(むなもと)に顔を押し当て、ごしごしと擦り付けた。


普段の冷徹(れいてつ)な姿からは想像もつかない無防備(むぼうび)な甘え(あまえ)よう。そのギャップの破壊力に、俺の心拍数(しんぱくすう)も限界突破しそうになっていた。


◇◇◇


カン、カン、カン、カン――。


その時、非常階段の下層(かそう)から、金属製のステップを叩く足音が響いてきた。


「……お兄ちゃんー!? どこにいるのー!?」


「愛陸姉ぇ、声が大きい! でも本当におかしいよ、下駄箱にもいないし、生徒会室の近くにもいなかったもん!」


「お、お兄様……どこへ行かれてしまったのですか……? まだお家に帰ってきてくださらないなんて……」


(……三つ子(みつご)たちだ……!)


俺と瑠愛は同時に息を呑み、体を硬直させた。


足音は確実にこの非常階段(ひじょうかいだん)を登ってきている。長女の愛陸(あいり)、次女の愛空(あいら)、三女の愛海(まなみ)の三人が、校内捜索の末にこのデッドエンドへと近づいているのだ。


「……っ、黒木くん……」


瑠愛が蒼白(そうはく)な顔で俺を見つめる。


「……見つかったら、どうなるの……?」


「俺が妹たちに拘束(こうそく)されて二度と放課後に自由行動できなくなるし、何より瑠愛が変な誤解(ごかい)を受けることになる……!」


「嫌……。黒木くんと会えなくなるのは……絶対、嫌……!」


瑠愛が力強く首を振る。彼女は俺の手(て)をギュッと握りしめると、非常階段(ひじょうかいだん)のさらに上――屋上へと続く踊り場(おどりば)の陰を指差した。


「あっち……隠れよ」


俺たちは足音を殺し、階段(かいだん)の最上部、踊り場(おどりば)の物置(ものおき)用のスペースへと滑り込んだ。古びた清掃用具(せいそうようぐ)と大きなプラスチック箱(はこ)の隙間。大人が二人入るのが限界の狭い暗闇だ。


「……っ」


狭い空間で、再び瑠愛の体が俺の胸(むね)の中にすっぽりと収まる。


重なる体温。先ほど交わした口づけ(くちづけ)の余韻が、互いの体にまだ鮮烈に残っていた。瑠愛は息を殺しながら、俺の服の裾(そそ)をきつく握りしめている。


ギィ……と重い音を立てて、踊り場の鉄扉(てつとびら)が開いた。


「あれー? ここにもいないなぁ……」


愛空の不満そうな声が、すぐ下の階から響いてくる。距離にして、ほんの数メートル。


「おかしいな……お兄ちゃんの上着(うわぎ)からした、あの甘い匂い……この階段の近くから漂ってる気がしたんだけど……」


「愛空の鼻はアテにならないでしょ! もー、お兄ちゃんたらどこ行っちゃったのよ! まさか本当に女子とどこかに出かけたの!?」


愛陸が苛立たしげに足踏み(あしぶみ)をする。


「……お兄様……。私を置いて……どこへ……」


愛海の悲痛(ひつう)な呟きが暗闇に溶けていく。


三人の足音と会話が、ゆっくりと遠ざかっていく。階段を下り、鉄扉が再び「バタン」と閉まる音が聞こえるまで、俺と瑠愛はピクリとも動かずに息を潜めていた。


◇◇◇


「……行った、みたいだな」


俺が低く囁くと、瑠愛は俺の胸に顔を埋めたまま、小さく安堵(あんど)の吐息(といき)を漏らした。


「……びっくり、した……。心臓、止まるかと……思った……」


「本当に危なかった……。あいつら、勘が鋭すぎるんだよ」


「……でも」


瑠愛はゆっくりと顔を上げ、暗闇の中で琥珀色(こはくいろ)の瞳を妖しく光らせた。


「……スリルがあって、ちょっと……楽しかった」


「楽しかったって……お前な……」


「だって……秘密《ひみつ》の共有、でしょ?」


瑠愛は萌え袖(そで)の先で俺の指先(ゆびさき)に自分の指を絡ませてきた。恋人つなぎ(れんいつなぎ)の形で、固く、固く結ばれる指と指。


「妹さんたちにも……誰にも言えない、私たちだけの絶対領域(ぜったいりょういき)……」


彼女の口元(くちもと)に、微かな(かすかな)悪戯っぽい(いたずらっぽい)笑みが浮かぶ。そこにはもう、心を閉ざしていたかつての「氷の姫君」の面影はどこにもなかった。


「黒木くん……。私、もう……『あと3センチ』の距離には……戻れないよ」


「……ああ。俺も、戻るつもりはない」


狭い物置の隙間で、俺たちは再び静かに(しずかに)寄り添い合った。


外の世界で妹たちが俺を探し回っていようと、学園の誰が噂していようと関係ない。


放課後のこの瞬間だけは、誰にも邪魔できない二人(ふたり)だけの世界(せかい)だった。

最後までお読みいただきありがとうございました!


「面白かった」「続きが気になる!」と思っていただけたら、

下にある評価(★★★★★)やブックマーク登録をしていただけると、執筆の大きな励みになります!


感想や一言コメントもお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。