第二十九話:破られた平穏と、非常階段の密約
「お兄ちゃん、逃がさないよ!」
キーンコーンカーンコーン――。
終業を告げるチャイムが校内に響き渡った瞬間、俺の教室の前扉が盛大に開け放たれた。
立っていたのは、腕を組んで仁王立ちする長女の愛陸と、その後ろで妖しげな笑みを浮かべる次女の愛空だ。クラスメイトたちの「またか……」という生暖かい視線が、一斉に俺へと注がれる。
「さあお兄ちゃん、今日は一緒に帰る約束でしょ! ほら、カバン持って!」
愛陸がずかずかと踏み込んできて、俺の手首をガシッと掴む。その力強さは、とても小柄な女子高生のものとは思えない。
「待てって愛陸、まだ帰りのHR終わったばかりだろ。それに俺、今日は図書室で借りた本の返却が――」
「嘘だね!」
愛空がすかさず割り込んできた。波打つロングヘアをなびかせ、俺の顔を至近距離で覗き込んでくる。
「お兄ちゃん、今日のお昼休みに図書室行って本返してたでしょ? 愛空ちゃんの『お兄ちゃん観察日記』にバッチリ記録されてるんだから!」
(……監視網が完璧すぎるだろ……!)
冷や汗が背中を伝う。ポケットの中では、15分前に届いていた涼風瑠愛からのメッセージが重く感じられた。
『今日、放課後……10分遅れたら、おしおきだからね』
(まずい……このままだと、おしおき云々の前に瑠愛を待たせることになる。それどころか妹たちに現場を押さえられたら終わりだ……!)
その時、教室の後ろの扉から、ひょっこりと三女の愛海が顔を出した。両手に大きな紙袋を抱えている。
「あ、あの……お兄様……。愛陸姉ぇ、愛空姉ぇ……。先生が、生徒会室で部活の予算申請書を出してほしいって……」
「えっ、今!? なんで私たちが……」
「愛陸姉ぇたちが、今日提出期限の書類を出し忘れてたみたいで……先生、すごく怒ってました……」
愛海が恐縮そうに首をすくめる。その隙を、俺は見逃さなかった。
「よし! 愛陸、愛空、先生を待たせるのは良くないぞ! 俺は荷物をまとめて下駄箱で待ってるから、先に行ってこい!」
「えー……本当? 逃げない?」
「逃げるわけないだろ! ほら、早く行かないと愛海が困ってるぞ」
俺は半ば強引に二人の背中を押し、生徒会室のある特別棟へと向かわせた。最後に愛海が「お兄様、お気をつけて……」と意味深な囁きを残していったが、今は深く考えている余裕はない。
「よし……今のうちに!」
俺は鞄を掴むと、旧第一資料室へと向かって校舎の廊下を駆け出した。
◇◇◇
「ハァ……ハァ……っ!」
階段を駆け上がり、旧校舎の静まり返った廊下へと滑り込む。
時計の針は、放課後のチャイムからすでに12分を指していた。約束の時間を2分オーバーしている。
ギシ、と音を立てて木製の扉を開ける。
夕日の朱色に染まった室内。部屋の中央で、木製机に腰掛けた瑠愛が、じっと扉の方を見つめていた。
制服の萌え袖から覗く細い指先が、自分の膝の上で規則正しくトントンと時を刻んでいる。
「……遅い」
氷のように冷たい声。だが、その琥珀色の瞳の奥には、どこか焦燥と寂しさが滲んでいた。
「すまん……! 妹たちを撒くのに手間取って……」
「ふーん……妹さんたち、ね」
瑠愛は机からゆっくりと降り、足音を立てずにこちらへ歩み寄ってきた。
夕暮れの光が彼女の長い髪を透かし、黄金色の輪郭を描き出す。学園一の美少女と称されるその姿は、いつ見ても息をのむほど美しい。
彼女は俺の胸元まで近づくと、ぴたりと足を止めた。距離にして、**あと三センチ**。
「……言い訳は、いいの」
「瑠愛……?」
「約束……破ったでしょ。2分、遅刻」
瑠愛は上目遣いで俺を見つめると、萌え袖で包まれた小さな手を伸ばし、俺の制服のネクタイをキュッと引っ張った。
グイッと体勢を崩され、俺の顔が彼女の顔へと近づく。
「……昨日の写真、見た?」
「っ……見たよ。あれは、反則だろ……」
「ふふ……反則じゃないよ。私の……本当の気持ちだもん」
瑠愛の微かな吐息が、俺の唇をかすめる。彼女の髪から漂う甘い香りが、一瞬で頭を麻痺させていく。
「ねぇ、黒木くん。……ここじゃ、落ち着かない」
「え……?」
「妹さんたち……ここまで探しに来るかもしれないでしょ? だから……場所、変えよ」
瑠愛はネクタイを引いたまま、俺を廊下の奥へと引っ張っていく。
たどり着いたのは、旧校舎の最果てにある非常階段の踊り場だった。普段は誰も立ち入らない、完全に死角となった狭隘な空間。
鉄製の扉が重い音を立てて閉まり、外の雑音が完全に遮断される。
「……ここなら、誰にも邪魔されない」
瑠愛は扉に背を預けると、自分から俺の手首を掴み、その懐へと俺を引き込んだ。
「あっ――」
ドサリと、壁に押し付けられる感触。俺は咄嗟に彼女の頭の両脇に手を突き、かろうじて押し潰すのを防いだ。
だが、それによって二人の体は隙間なく密着することになった。
「瑠愛、近すぎる……!」
「……いいの。これが……おしおきだから」
瑠愛は俺の胸に顔をうずめ、きゅっと服の生地を握りしめた。薄い制服越しに、彼女の高鳴る鼓動がそのまま俺の体に伝わってくる。
「……妹さんたちに、嫉妬……した」
小さな、けれどはっきりとした囁き。
「黒木くんが……私の知らないところで、他の女の子に囲まれてると思うと……胸が、苦しくなるの」
「瑠愛……愛陸たちは、妹だぞ……?」
「知ってる……。でも、嫌なの。……私だけに、優しくしてほしい。私だけを……見てほしいの」
無表情だったはずの氷の姫君が、俺の胸の中で壊れそうなほど切なく身を震わせている。
「……黒木くん」
瑠愛が顔を上げた。耳たぶまで真っ赤に染まった顔。潤んだ瞳が、至近距離で俺の目を見つめ返す。
その距離、わずか**一センチ**。
「……あとの三センチ、埋めて……」
言葉にならない熱が、二人の隙間を埋めていく。
外では妹たちが俺を探しているかもしれない。明日になればまた、賑やかで騒がしい日常が戻ってくる。
けれど今、この閉ざされた非常階段の踊り場だけは、誰にも引き裂けない二人だけの領域だった。
二人の影が夕日に溶け合い、静かに重なっていくのだった。
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