第十六話:足音は三つ鳴る
「……ん、ここ。符号がマイナスになってる」
「あ、ほんとだ。瑠愛、教え方うますぎる……」
『旧・第一資料室』の密やかな空気の中、僕たちはパイプ椅子を並べて肩を寄せていた。
瑠愛の綺麗な指先が、僕の数学ノートの誤点をそっと指し示す。ふわりと漂う甘い香りと、耳元で囁かれる息遣い。集中しなければいけないのに、触れ合う肩の熱のせいで頭がどうにかなりそうだった。
「ふふ、湊が素直だと教えがいがある」
瑠愛が嬉しそうに目を細めた、その時だった。
ペタペタペタ、と廊下の奥から響いてきたのは、聞き覚えがありすぎる足音だった。
しかも一つや二つじゃない。重なり合う三つの足音。
「……ッ!?」
僕と瑠愛の身体が同時に固まった。
「ねえ愛陸ー、本当にこんなとこにお兄ちゃんいるのー?」
(愛空の声だ。「うち」って言ってない時の、完全に暇を持て余してる声!)
「あたしの直感を疑うな! 今日の放課後、お兄ちゃん露骨にソワソワしてカバン持って消えたでしょ! 絶対この校舎のどこかでコソコソ隠れてる!」
(愛陸……! 陸上部仕込みの野生の勘が冴え渡りすぎている……!)
「まな、お腹すいたから早く見つけてラーメンおごらせたい〜。自分、もう限界なんですけど〜」
(愛海まで……! 「まな」と「自分」を交ぜて甘える時のモードだ!)
三つ子の声が、特別棟の3階廊下に容赦なく響き渡っていた。
足音がどんどんこちらへ近づいてくる。
「っ……湊! どうしよう……!?」
瑠愛が青ざめた顔で僕の腕にしがみついてきた。その手はかすかに震えている。
もし今、このドアを開けられたら——学年一の美少女と僕が、放課後の空き教室で二人きりで密着していたことが妹たちにバレる。そうなれば学校中に噂が広がるのも時間の問題だ。
「落ち着いて、瑠愛……! 隠れよう!」
「隠れるってどこに!?」
僕が室内を見回す。だが、古い資料室には大きな掃除用具入れも、隠れられるような大型の棚もない。
あるのは部屋の隅に置かれた、埃をかぶったロッカーと、その横に立てかけられた大きな体育用マットだけだ。
「あそこだ! 瑠愛、ロッカーへ!」
「えっ、一緒に……!?」
「いいから早く!」
足音はもう隣の教室のあたりまで来ている。
僕は瑠愛の手を引いて空のロッカーへ潜り込んで、僕たちの姿を隠し、荷物をマットの下に滑り込ませた。
暗闇の中、超至近距離で瑠愛と向かい合う形になる。
「んっ……」
あまりの狭さに、僕と瑠愛の胸と胸がぴったりと重なり合った。
瑠愛の両手が僕の制服の胸元をぎゅっと掴み、息を殺して僕を見上げてくる。互いの吐息が顔にかかる距離。心臓の鼓動が、どちらのものかわからないくらいドックンドックンと激しく打ち鳴らされていた。
ガラガラッ!
容赦ない音を立てて、『旧・第一資料室』の扉が開け放たれた。
「……あれー? いないじゃん。あたしの勘、外れた……?」
愛陸のがっかりした声が、すぐ目と鼻の先から聞こえる。
「だから言ったじゃん。うちに無駄走りさせないでよー。喉乾いた」
「まなも〜。自分、絶対お兄ちゃんここにいると思ったのに〜」
マットの隙間から、三つ子の足元がチラリと見えた。跳び箱まであと数メートル。もし誰かが「念のため奥も見てみよう」と歩み寄ってくれば、一発でアウトだ。
(頼む……早く出て行ってくれ……!)
僕は生きた心地がしなかった。
そして隣では、極度の緊張と僕との密着に耐えかねた瑠愛が、真っ赤な顔をして僕の首元に顔を埋め、必死で声が漏れるのを耐えていた。
呼吸すら許されない、地獄と天国が同居するサバイバル。
僕たちの秘密は、今まさに最大の危機を迎えていた。




