第九話:晩ごはんの匂い
「……黒木くん、そろそろ帰らなきゃ」
すっかり日の落ちた空き教室で、瑠愛が寂しそうにポツリと呟いた。
窓の外はすでに真っ暗で、街灯のぽつぽつとした光が寒空の下で揺れている。
膝掛けの下で繋いでいた手を、名残惜しそうにゆっくりと離す。離れた瞬間、冷たい空気が皮膚に触れて、なんだかすーすーと寒くなった。
「そうだね。もうすぐ完全下校の時間だ」
僕たちが荷物をまとめていると、遠くの校舎から下校を促す放送がうっすらと聞こえてきた。
「……黒木くんの家って、ご飯何時?」
「うちはだいたい七時半かな。妹たちが部活から帰ってくるのがそのくらいだから」
「妹……さん?」
瑠愛は少し意外そうに目を丸くした。
「うん。中一の妹が三人……あ、三つ子なんだよ。愛陸と、愛空と、愛海」
「み、三つ子……!?」
瑠愛は「そんなアニメみたいなことあるの!?」と言わんばかりにパチパチと瞬きをした。
「そう。陸上部の愛陸に、吹奏楽部の愛空、バスケ部の愛海。部活もバラバラだから、夕方になると家に帰ってきて『お兄ちゃん腹減った!』『アイス買ってきて!』って大合唱でさ。毎日が怪獣大決戦だよ」
「ふふっ……賑やかで楽しそう」
瑠愛は柔らかく微笑むと、少しだけ遠い目をして自分の鞄のストラップを撫でた。
「……いいな。うちは、お父さんもお母さんも仕事で遅いから。帰ってもだいたい一人で、自分で適当に温めて食べるの」
何気なく発せられたその言葉に、僕は胸が少しだけキュッとなるのを感じた。
学校では誰もが羨む美少女の彼女が、誰もいない静まり返った家でポツンと夜を過ごしている姿が浮かんできたからだ。
だから彼女は、この誰も来ない空き教室に自分の居場所を求めていたのかもしれない。
「……じゃあさ」
「え?」
「もしよかったらだけど……今度、うちの母さんに頼んで、お弁当多めに作ってもらおうか? あ、それか愛陸たちに邪魔されないように、何か作って持ってくるとか。迷惑じゃなければ、だけど」
慌てて補足する僕を見て、瑠愛は一瞬ぽかんとした後、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん。全然迷惑じゃない。……すごく、嬉しい」
瑠愛はマフラーに顔を深く埋めると、照れ隠しのように小走りで扉へと向かった。
そして、ドアノブに手をかけたところで立ち止まり、振り返る。
「……あ、でも」
「ん?」
「妹さんたちの分も大変だろうから……いつか、黒木くんが作ってくれたやつが食べたいな」
「えっ、僕の!?」
「……ひみつ。じゃあね、また明日!」
それだけ言い残すと、瑠愛は真っ赤な顔をしてガラガラッと扉を開け、走って廊下へと消えていった。
残された僕は、ポツンと一人、熱くなった自分の顔を両手で覆うことしかできなかった。
(三つ子の怪獣たち相手の料理と、すずかぜさんに作る料理じゃ、緊張感が全然違うんだけど……)
だけど、胸の奥はどこまでも温かかった。
寂しがり屋な彼女の素顔にまた一歩近づけたことが、たまらなく愛おしかった。
なんとなく三つ子にしてみましたw




