25
その夜の事。
僕は少しだけ興奮していた。
まあ、昼間の件もあるけどね。
モリンガティーの女子大生のお姉さんのこと、シリウスに「百合系ナンパ」って言われたこと、そして——
少しドキドキしてる。
理由は……シリウス。
しかも、普通の心拍ではなく。
はちきれないくらいの鼓動がしてて、正直、僕の心臓どうなってるのってくらい。
これって、一体なんなの?
ベッドの中で、目を閉じてもダメ。
目を開けても、ダメ。
寝返りを打ってもダメ。
お腹のあたりがそわそわして、胸がきゅうっとして、息が浅くなる。
今朝のシリウスの「にかっとした笑顔」を思い出すと、また、心拍が跳ねる。
夕方の練習で隣に座って歌った時のシリウスの低音を思い出すと、また、心拍が跳ねる。
深夜に頭を撫でてくれた手の温度を思い出すと、また——
もう、シリウスのことを考えるだけで、心臓が変な動きをする。
正直……少し怖い。
(病気かな?)
(撮影前日に……どうしよう)
明日は本番。
ちゃんと寝ないといけないのに。
でも、寝ようとすればするほど、頭の中がシリウスのことでいっぱいになる。
なんで?
なんで、こんなことに、急になってるの?
心臓が、もう、痛いくらいに鳴ってる。
そして、もぞついてるのがシリウスにバレて、
「寝付けねーのか?」
と、言われた。
ビクッとする。
「ぁ」
小さい声が少しだけ出る。
心臓の心拍は相変わらず収まらない。
むしろ、シリウスの声を聞いた瞬間、もっと跳ね上がった。
(うわ、もっと激しくなった……どうしよう)
暗闇の中、シリウスのほうを見れない。
顔が見れない。
なんで、シリウスを見ると、こんなに胸がぐちゃぐちゃになるんだろう。
シリウスが起きてきて近くにくる。
ぎし、と床が小さく軋む音。
ますます心拍が増えるような感覚に襲われる。
もう、ドクンドクン、ドクンドクン、って、耳の中で聞こえるくらい。
シリウスは僕の頭を撫でる。
いつもの、優しい撫で方。
でも、今夜の僕には、その手の温度が、いつもより十倍くらい強く感じる。
どきん……どきん……。
少し、涙が滲む。
なんで、泣いてるんだろう、僕。
苦しい。
でも、苦しいだけじゃない。
なんか、もっと、こう——
言葉にできない、ぐちゃぐちゃした気持ち。
「お……おい!どうした……」
シリウスがびっくりした声で、慌てて顔を覗き込んでくる。
その慌てた顔を見て、また、心臓が痛い。
なんで、僕は、こんなふうになってるんだ。
「……っ……ぐ……ねえ?……なんでこんなにドキドキするの?」
声が、震える。
涙が、頬を伝う。
「は?」
シリウスが、目をぱちぱちさせる。
突然の僕の言葉に、状況が掴めない様子。
でも、僕は、もう、止まらなかった。
シリウスに、滲ませた涙を見せながら、僕は言ってしまう。
「病気があるのか?」
シリウスが、ちょっとだけ、心配そうに眉をしかめる。
(違う……)
病気じゃない。
たぶん、病気じゃないんだ。
でも、何が起きてるのか、僕にも分からない。
「……っ……ううん……ちが……う……ふっ……ぇ」
我慢できずに泣いてしまう。
涙が、止まらない。
なんで、こんなに泣いてるんだろう。
苦しいのか、嬉しいのか、もう、分からない。
全部、シリウスのせい。
でも、シリウスは何も悪くない。
じゃあ、僕のせい?
僕の心臓が、勝手に、こんな動きしてるだけ?
シリウスは、僕を起こして、優しく抱きしめてくれた。
ぎゅっ、と、両腕で。
ちょっと、ためらいがちな抱き方。
でも、優しい。
あったかい。
シリウスの胸の中で、僕の心臓が、もっと、跳ねる。
でも、不思議と、ちょっとだけ、楽になった気がした。
シリウスの心臓の音も、聞こえる。
ドクン、ドクン、と、僕より、ちょっと落ち着いた音。
……でも、いつもより、ちょっとだけ早い気がする。
気のせい、かな。
そして、背中を撫でて、反対の手で頭を撫でてくれた。
二つの手の温度に、包まれる。
(シリウスぅ)
心の中で、名前を呼んでしまう。
涙が、また、ぼろぼろ落ちる。
「こういう時……俺は……正直どういう感じに接したらいいか分からねー……だから俺のやれることをやるだけだ」
シリウスが、ぽつりと、そう言った。
ぶっきらぼうで、不器用で、でも、ちゃんと、僕のことを考えてくれてる言葉。
「シリウス……」
その不器用さが、なおさら、胸に響く。
もう、苦しいのか、嬉しいのか、分からない。
でも、ここにいたい、って思う。
シリウスの腕の中に。
もうちょっとだけ、ここに。
頭を撫でながら、耳元で彼は——
「こういう時こそ『お兄ちゃん』って呼べ。リルド」
その声が、低くて、優しくて。
耳元で言われたから、息が、首筋にちょっとかかって。
また、心臓が、ぎゅうっとなる。
きっと、また心拍が増えたかもしれないけど、そんなことより、なにより——
「うん!……お兄ちゃん」
涙声で、絞り出すように、呼んだ。
ちゃんと、呼んだ。
今夜の僕は、ちゃんと、シリウスを「お兄ちゃん」って呼べた。
シリウスが、ちょっとだけ、抱きしめる力を強くした。
ぎゅっ、と。
もう、シリウスの服の匂いと、柔軟剤の匂いと、シリウスの体温と、全部が、僕を包んでる。
苦しいような、安心するような、不思議な感じ。
「お兄ちゃん」
もう一回、呼んでみる。
「ん」
「胸が、苦しい」
「うん」
「でも、もう、ちょっとだけ、楽になった」
「うん」
シリウスは、何も言わない。
ただ、撫でてくれてるだけ。
でも、その「何も言わない」が、たぶん、今、一番、優しい。
しばらく、抱きしめられたまま、目を閉じる。
シリウスの心臓の音を、頬で感じる。
ドクン、ドクン、ドクン。
僕の心臓の音と、シリウスの心臓の音。
二つが、ちょっとだけ、リズムが似てくる気がする。
不思議。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「なんで、僕、こんなにドキドキするのかな」
「……さあ、な」
シリウスが、ちょっとだけ、間を置いた。
暗闇で、シリウスの顔は見えない。
でも、たぶん、ちょっとだけ、何かを考えてる顔をしてる気がする。
「もう少し、大人になったら、分かるんじゃないか」
「えー、それじゃ、いつ分かるの」
「いつかだよ、いつか」
シリウスが、ふっと、小さく笑った。
その笑いが、頭の上で、ふわっと響く。
なんだか、悪戯っぽい笑い方。
シリウス、もしかして、何か知ってるのかな。
でも、教えてくれないなら、いい。
いつか分かるなら、それでいい。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「今夜、ここで、寝てもいい?」
「……」
シリウスが、ちょっとだけ、固まる。
ためらってる感じ。
でも、しばらくして、
「……ああ、いいぞ」
って、低い声で答えてくれた。
ぎゅっ、ともう一度、抱きしめる力が強くなる。
「明日、撮影だから、ちゃんと寝ろよ」
「うん」
「俺がここにいれば、安心して寝れるか?」
「……うん」
「だったら、ここにいる」
その「ここにいる」が、なんだか、強烈に、胸に響いた。
涙が、また、じわっと滲む。
でも、今度の涙は、ちょっとだけ、あったかい涙だった。
シリウスが、僕を布団に寝かせ直して、自分も僕の隣にそっと体を寄せる。
ベッドが狭くて、シリウスの肩が、僕の肩にぴったりくっつく。
でも、もう、嫌じゃない。
むしろ、ありがたい。
心臓の鼓動は、まだ、ちょっと早い。
でも、さっきよりは、ずっと、穏やかになってる。
シリウスがいてくれるから。
お兄ちゃんが、ここにいてくれるから。
「お兄ちゃん、ありがとう」
「いいって」
「いっぱい、いっぱい、ありがとう」
「……いっぱい、ってなんだよ」
「いっぱい、いっぱい」
今朝と同じやり取り。
でも、シリウスは、今度は笑わなかった。
ただ、僕の頭を、もう一度、ゆっくり撫でてくれた。
その手の温度を、最後の意識として——
僕は、ゆっくりと、眠りに落ちていった。
最後に、夢の手前で、思った。
なんで、こんなにドキドキするのかは、まだ分からないけど。
でも、今は、それでいい。
いつかシリウスが言うように「いつか分かる」なら、それでいい。
今は、お兄ちゃんが、隣にいてくれる。
それだけで、もう、十分すぎるくらい——
幸せだった。
翌朝。
目を覚ますと、シリウスはまだ、僕の隣で寝ていた。
いつもみたいに、自分のベッドに戻ってない。
今夜は、ずっと、いてくれたんだ。
窓から差し込む朝日が、シリウスの寝顔を、優しく照らしていた。
その寝顔を見ながら、僕の心臓は、また、ちょっとだけ、跳ねた。
(また、ドキドキしてる)
でも、もう、怖くなかった。
いつか、分かるなら、それでいい。
今日は——撮影本番だ。
白い衣装で、シリウスと並んで、あの優しい歌を歌う日。
ちゃんと、届けたい。
二人で、本気で。
甲斐多町の朝が、また、優しく始まる。
窓の外で、雀の鳴き声。
いつもの朝の音。
でも、僕の中では、なにか、ちょっとだけ、新しいものが芽吹いた気がした。
その「なにか」が、なんなのかは、まだ、分からないけど——
いつか、ちゃんと、向き合える日が来ると、思う。
その日まで、シリウスが——お兄ちゃんが、隣にいてくれるなら、絶対に、大丈夫。




