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お風呂の支度をするために、パネルの前に行く。
ピッ、ピッ、と、お湯はりのボタンを押す。
「ん……これでよし」
あとは沸くまで待つことにする。
パネルの小さなランプが点灯して、給湯器がかすかにごおっと音を立て始める。
二十分くらいかな、と頭の中で時計を確認する。
リビングに向かうまでに、置いてある本棚から、みなとさんが書いてた小説から——
『異世界で気づけば世界最強になっていた』
という作品を持ってきて、ソファで読むことにした。
みなとさんの作品は、本棚の一段に、ちゃんとまとめて並べてある。
背表紙が、ずらりと揃っている。
この一段だけで、みなとさんが何冊書いてきたか、一目で分かる。
(一段、もう埋まりそうだなぁ)
いつかは、もう一段増えるんだろうなって思いながら、その一冊を抜き取る。
この作品は、特に何も特徴すら無く、ただのサラリーマンとして平凡でブラック企業ですらない企業で普通に働いていた青年が、とある時に駅ホームで押され、
『君には新しい世界に行ってもらう』
という謎な掛け声とともに転生する話。
そしてその転生先で、移動しただけで歩行レベルが上がるなどのテンプレート重視した作品らしい。
それを読むことにした。
ソファに、すとんと腰を下ろす。
ふかふかのクッションに背中を預けて、本を膝の上に。
ぺらり、と最初のページをめくる。
主人公の名前は、アキト。
平凡なサラリーマン。
ブラック企業ですらない、ごくごく普通の会社員。
その「ブラック企業ですらない」っていう書き方が、もう、みなとさんっぽい。
普通すぎて、誰の記憶にも残らない感じの主人公。
駅のホームで、何気ない朝の通勤中、後ろから誰かに押される。
ふわっと、足が浮く感覚。
そして、
『君には新しい世界に行ってもらう』
という、よく分からない声。
……これ、誰の声なんだろう。
ページをめくると、もうアキトは異世界の草原に立っていた。
よくあるテンプレ展開。
でも、みなとさんの書く文章は、なんだか落ち着く。
草原を歩き始めるアキト。
すると、いきなり画面みたいなものが目の前に現れる。
「歩行レベルが上がりました」「歩行レベル:2」
(出た、テンプレ)
心の中で、ちょっと笑ってしまう。
歩いただけでレベルが上がる。
走ると、もっと上がる。
息をすると、呼吸スキルが解放される。
もう、なんでもありの世界。
でも、それを真面目に書いてるみなとさんが、なんだかちょっと可愛い。
アキトが歩きながら、自分の状況を整理していく描写。
「俺、転生したのか」「えっ、まじで?」「なんで俺?」
みなとさんの書く独り言、リアルだなぁ。
たぶん、みなとさんが「もし自分が異世界に来たら」って想像して書いてるんだろうな。
しばらく読み進める。
アキトが森を抜けて、最初の街にたどり着く。
街の人たちと話して、現状を把握する。
通貨単位、ギルドの仕組み、冒険者制度。
全部、すんなり理解できるアキト。
(言葉、最初から通じるんかい)
まあ、それもテンプレだけど。
ふと、本から目を上げると、シリウスがリビングに入ってきていた。
「ん?何読んでんだ?」
「みなとさんの小説」
「ああ、あれか」
シリウスが隣にすとんと座る。
ちょっと体が傾いて、肩がぶつかる。
「どれだ?」
「『異世界で気づけば世界最強になっていた』」
「あー、それな。俺も読んだ」
「えっ、シリウス読んだことあるの?」
「ああ、結構面白かったぞ」
「ふーん」
ちょっと意外。
シリウス、こういう本も読むんだ。
なんとなく、こいつは活字より体動かす派かと思ってた。
「リルド」
「ん?」
「お前さ、自分の話読まないの?」
「自分の?」
「『ひだまりのFランク冒険者のリルド』」
「えっ……」
固まる。
みなとさんが書いた、僕がモデルの小説。
設定上の僕は、元Sランク冒険者で、今はFランクに戻されて、隅っこに追いやられた依頼をこなしてる。
「あれさ……読むの、なんか、恥ずかしくて」
「分かる。俺も『優しい世界のシリウスさん』、最初読むの恥ずかしかった」
「シリウスは読んだの?」
「全部じゃないけど、何巻か」
「どんな感じ?」
シリウスがちょっと天井を見上げて、
「……俺っぽいけど、俺じゃない感じ」
「あー、わかるかも」
「お前のもそうなんじゃないか?」
「……たぶん」
二人で、ふっと笑い合う。
みなとさんの小説の中の僕らは、ちょっとだけ違う僕らだ。
でも、根っこの部分はちゃんと、僕らだ。
不思議な感覚。
「そういえばさ」
「ん?」
「みなとさんって、なんで僕らをモデルにしたんだろうね」
「……さあ」
「ねえ、聞いてみない?」
「今?」
「今」
シリウスが、ちょっと面白がるような顔をした。
「行くか」
「行こ」
本にしおりを挟んで、ソファから立ち上がる。
キッチンを覗くと、みなとさんは食器を洗い終わって、お茶を淹れているところだった。
「みなとさん」
「ん?」
「あの、聞いていい?」
「なんだ、改まって」
「みなとさんって、なんで僕らをモデルに小説書いたの?」
みなとさんがお茶のポットを置いて、ちょっと考え込んだ。
しばらく沈黙。
それから、ふっと笑った。
「お前らが、面白いからだよ」
「面白い?」
「ああ。普通の兄弟じゃなくて、二つの世界から来た兄弟。それぞれの来歴があって、でも、ここで一つになろうとしてる。書きたくなる素材だろう?」
みなとさんの目が、ちょっと優しくなる。
「あと、お前らが書いてくれって言ったからな」
「えっ、僕、そんなこと言った?」
「ああ、お前ら、最初に来た頃、『俺たちの話、本にしてほしい』って言ったぞ」
……あ。
言ったかも。
確か、最初の頃、なんか張り切ってお願いした記憶がうっすらある。
「シリウスもか?」
「俺は……『書くなら、俺もモデルにしてくれ』って言った気がする」
「だろ?」
みなとさんが、にっと笑った。
「だから、書いてんだよ。お前らのお願いを聞いてな」
(うわ、覚えてないところで僕ら、結構勝手なこと頼んでたんだ)
ちょっと顔が赤くなる。
「みなとさん、ごめん」
「謝ることじゃない。書きたかったから書いてるんだ」
「……ありがとう」
「うん」
みなとさんがお茶を三つ、淹れてくれた。
湯気がふわっと立ち上る。
あったかい。
ソファに戻って、三人でお茶を飲む。
みなとさんは、自分が淹れたお茶を一口飲んで、
「うん……この味」
って、また自分に確認した。
いつもの癖。
(ふふ)
心の中で笑う。
お風呂のお湯が沸いたお知らせが、ピロリと鳴った。
「お、沸いたか」
「うん、僕入ってきていい?」
「先入っていいぞ」
みなとさんが頷いて、シリウスも、
「ああ、先行ってこい」
「ありがとう」
本をテーブルに置いて、立ち上がる。
みなとさんの小説、まだ序盤までしか読んでない。
続きはお風呂上がりに、また読もう。
脱衣所でパジャマを準備しながら、ふと思う。
みなとさんが僕らのために小説を書いてくれて。
その小説の中の僕らが、僕らとはちょっと違うけど、ちゃんと僕らで。
そして、現実の僕らは、ここで、家族として、こうして暮らしてる。
なんだか、不思議な感覚。
でも、嬉しい感覚。
みなとさんって、本当に、ちゃんと僕らを見てくれてるんだなって、改めて思う。
お風呂に浸かりながら、頭の中で、明日のことを考える。
明日は撮影前日。
最後の練習日。
ちゃんと、いい歌を届けたい。
みなとさんのために、シリウスのために、町の人たちのために。
そして、自分のために。
お湯にゆっくり浸かりながら、目を閉じる。
窓の向こうで、夜風が木を揺らす音。
甲斐多町の夜が、また優しく更けていく。
お風呂上がったら、また、みなとさんの小説の続きを読もう。
今度は、最後まで。
アキトがどんな冒険するのか、ちゃんと知りたいから。




