第91話 封じ祠が、白狐さんを呼んだ
朝の外縁小道には、まだ湯の匂いが少し残っていた。小祠一の奥で湯場ができてから、村の人たちは外へ出る時の顔が変わった。水を持つ人、芋を持つ人、濡れた布を干しに行く人。昨日まで少しこわかった道が、今は用事のある道になっている。
ミオは透明板を胸に抱え、白狐さんと並んで支度場に立った。
「今日は、湯場ではないんですよね」
「はい。今日は灯りの流れを見ます。湯場は、あとで様子だけ見ます」
「あとで」
「白狐さん、今ちょっと残念そうでした」
「確認は大事です」
「湯の確認ですね」
「湯と芋です」
リタが水桶を置き、小さく笑った。ベンは入口祠の横の石を見ている。昨夜から、そこには淡い灯りが残っていた。ぽう、と小さく、でも消えずに。
ミオは透明板をかざした。
[外縁生活線]
――――――――――
支度場:接続
小祠一:接続
湯場:接続
灯り石:低出力維持
――――――――――
今日見るのは、その先だった。星見台、環祠、外縁祠群。村の外に点々と残る古い祠の灯りを、ほんの少しだけ鳴らす。小祠一から封じ祠の手前まで。封じ祠には触らない。
「ミオ」
「封じ祠には、直接触れませんね」
「触れません。灯りがどこまで通るかを見るだけです」
「なら、見ます」
「白狐さん、少し離れますか」
「離れません。見ます」
白狐さんは静かに座った。しっぽはいつもより体に近い。食べ物の話をしている時とは、耳の向きが違っていた。ミオは小さく息を吸い、透明板の端を指でなぞった。
[外縁祠群・低出力確認]
――――――――――
星見台:待機
環祠:待機
小祠群:待機
封じ祠:対象外
――――――――――
「対象外、出てます」
「よいです」
「では、星見台から通します」
透明板の奥で、細い線がひとつ光った。
ぽう。
村の外れにある星見台の石が、遠くで小さく灯る。続いて、環祠の古い石のふちに淡い光が走った。リタが息をのむ。ベンは「光った」と言いかけて、自分で口を押さえた。
次に、小祠二の方の灯りがついた。ぽう、ぽう、と音がするわけではない。けれど、そう聞こえるくらい、灯りは順にやわらかく移った。草の間に埋もれた小さな石、倒れかけた標、祠の端。外縁の線が、ゆっくり目を覚ましていく。
「きれいです」
「はい」
ミオも、思わずうなずいた。湯場の灯りとは違う。生活の灯りではなく、もっと古い灯りだった。祈りに近い。けれどミオの透明板の中では、線は冷たく正確に伸びている。
その線が、封じ祠の手前で止まった。止まったはずだった。
透明板の端に、細い赤が走る。
[警告]
――――――――――
封じ祠:間接応答
守護者系統:反応
対象照合:白狐
――――――――――
「白狐さん?」
白狐さんの足元の影が、すっと濃くなった。風はない。なのに、白狐さんの毛先がふわりと浮く。しっぽが一瞬、二本に見えた。いや、三本だったかもしれない。すぐに戻る。けれど、白狐さんの目の色が、いつもより深くなっていた。
「ミオ。止めてください」
声が低かった。
ミオの指が動く。迷うより早く、透明板の停止線を押した。
「停止します」
外縁の灯りが、すっと細くなった。星見台、環祠、小祠群。順に光が落ちる。封じ祠の手前で走っていた赤い線も、消えた。
白狐さんの影が薄く戻る。けれど、完全には戻りきらない。白狐さんは座ったまま、少しだけ息を整えていた。
「白狐さん」
「だいじょうぶです」
「ほんとですか」
「だいじょうぶです。少し、呼ばれました」
「呼ばれた?」
「奥からです」
リタが白狐さんの近くへ行きかけた。ミオは手で止めた。白狐さんは首を横に振る。
「近づいても、かまいません。もう、戻りました」
「でも、白狐さん、今」
「ミオが止めました。だから戻りました」
ミオは透明板を見た。表示は消えていない。停止したはずの線の奥に、まだ短い文字が残っている。白く、硬く、村の灯りとは違う字だった。
[封じ祠・間接応答記録]
――――――――――
守護者権限候補:検出
封印保護構造:稼働
照合対象:白狐
取得:不可
――――――――――
「守護者権限候補……」
「見えましたか」
「見えました。でも、取れません」
「取らなくてよいです」
「はい。今は、取らないです」
ベンが小さく言った。
「白狐さん、増えた?」
「増えていません」
「でも、しっぽ」
「気のせいです」
「三つ」
「気のせいです」
「二つ半」
「半分は何ですか」
白狐さんの声が少し戻った。ミオはそのやりとりで、ようやく肩の力を抜いた。少しだけ。けれど、胸の奥はまだ冷えている。
灯りはきれいだった。外縁祠群は、確かに反応した。村の外に、古い祈りの線が残っている。けれど、その先には封じ祠がある。そこは、白狐さんの奥に触れる。
ミオは透明板を閉じなかった。
「今日はここまでにします」
「ミオ」
「やめるのですか」
ミオは首を振った。透明板の端を親指で押さえた。少し汗で、すべった。
「……やめません。でも、今の通し方はだめです。白狐さんの方へ引っぱられました」
「はい」
「次は……ええと、封じ祠の手前で、いったん切ります。切って、少し戻して、それから別の祠へ流します」
「順番を変えるのですね」
「はい。たぶん。今のまま、まっすぐ通すのはだめです」
言ってから、ミオは透明板を見直した。
「……たぶん、じゃだめですね。ちゃんと見ます」
「それなら、よいです」
「でも、白狐さんは無理しないでください」
「ミオもです」
リタが水桶を持ち直した。
「戻りますか」
「少し休んでから戻ります。小祠一で水を飲みましょう」
「はい」
ベンはまだ白狐さんのしっぽを見ている。
「三つじゃなかった」
「違います」
「二つ半」
「ベン、それは忘れましょう」
「忘れる」
「早いですね」
白狐さんが、ほんの少しだけ笑った。外縁の灯りは消えている。けれど、ミオにはもう分かっていた。線は消えたのではない。今は眠らせただけだ。
封じ祠の奥に、白狐さんを呼ぶものがある。ミオは透明板を胸に抱えた。触らないためではなく、触れる順番を作るために。
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