第89話 湯場へ行く道に、人が増えた
朝のリュミナ村では、芋の匂いがまだ少し話題になっていた。
井戸端で水を汲む女たちが、桶を置いたまま笑っている。昨日、小祠一の奥で蒸した芋のことだ。湯けむりで温めただけなのに、甘くて、ほくほくして、子どもたちがずっと「湯の芋」と言っていた。
「今日は芋、あるの?」
「昨日より小さいのなら」
「小さい方が早くできるって、マル婆さんが言ってたよ」
「白狐さんも食べたんでしょう」
「確認って言ってた」
「確認なら仕方ないね」
白狐さんは井戸の縁で、きりっと座っていた。
「確認は重要です」
「白狐さん、昨日かなり近かったです」
「確認には近さが必要です」
「芋に近づく言い訳が上手くなってます」
「神獣です」
「便利ですね」
ミオは水桶の横で、小さな芋を布袋に入れた。リタは葉と浅いかごを持ち、ベンは小桶を抱えている。今日は湯場で芋を蒸すだけではなく、畑仕事のあとに手や足を温めたい人もいるらしい。
トマが鍬を肩に担いで来た。
「先に畑を見る。終わったら湯場へ行く」
「畑のあとですか」
「腰が湯を覚えた」
「みんな覚えますね」
「覚えるんだよ、あれは」
マル婆さんが横からうなずいた。
「膝も覚えるし、腰も覚える。芋も覚えるかもしれないねえ」
「芋は何を覚えるんですか」
「湯気の味だよ」
「詩みたいなこと言いましたね」
「芋の話だよ」
ベンが布袋をのぞきこむ。
「今日も湯の芋」
「あります」
「大きい?」
「小さいです」
「小さい芋、早い」
「たぶん」
「芋に聞く?」
「芋は答えません」
「昨日も答えなかった」
小祠一へ続く道は、前より少し踏まれていた。
草は倒れすぎていない。けれど、足を置く場所が自然に分かる。外縁小道の支度場で草分け棒を取り、水甕を確かめ、戻り石を持つ。その動きも、前ほどばたばたしない。支度場があり、休み場があり、その奥に湯場がある。村人の体が、道を覚え始めていた。
小祠一に礼をして、奥へ進む。
湯場には、白い湯気がふわふわ上がっていた。石で囲った湯船の表面が、朝の光を受けてゆれている。横の小さな蒸し台は、昨日より少しだけ丈夫になっていた。トマが枝を足したのだろう。足元にはベンの丸い石が二つ増えている。
「また石が増えてます」
「丸いから」
「理由になってるような、なってないような」
「丸い石は大事」
「大事ですね」
リタが蒸し台の上に葉を敷き、小芋を並べた。マル婆さんが芋の向きを直す。
「こっちの方が早く火が入るよ」
「火じゃなくて湯気です」
「細かいねえ。湯気も火の仲間みたいなもんだよ」
「違う気がしますけど、分かる気もします」
ミオは透明板を開き、湯気の流れを見た。
――――――――――
[地熱排気利用]
湯浴み場:稼働
蒸し台:安定
対象:小芋
加熱:進行
湯路:閉塞なし
――――――――――
「湯の流れは詰まってません。蒸し台も大丈夫そうです」
「食べられますか」
白狐さんがすぐ聞いた。
「まだです」
「まだ」
「白狐さん、早いです」
「確認です」
芋を待つ間に、畑から戻った男たちが湯場へ来た。足に土がついている。手も泥で汚れている。湯船に入る前に、外の水で軽く流し、石の縁に腰を下ろした。
「手だけでも、あったけえな」
「腰まで入ったら出られなくなるぞ」
「じゃあ、ちょっとだけ」
「ちょっとだけで済むかねえ」
マル婆さんが笑う。
湯に手を入れた男が、肩から力を抜いた。
「……これは、ずるいな」
「ずるい出ました」
ミオが言うと、リタがうなずいた。
「湯場のものは、だいたいずるいです」
「湯も、芋も」
「はい」
子どもたちは湯船の外で「ちゃぷん」を言っている。ベンは蒸し台と湯船の間を行ったり来たりして忙しい。
「ベン、落ち着いて」
「湯も芋もある」
「両方見たいんですね」
「両方」
「忙しいですね」
「忙しい」
白狐さんは蒸し台の横に座り、芋の匂いが変わるのを待っていた。しっぽは湯に届かない位置にある。昨日までより、少し学習している。
「白狐さん、今日はしっぽ安全ですね」
「当然です」
「芋には近いです」
「確認です」
「はい」
やがて、葉のふちから甘い匂いが上がった。
リタが顔を上げる。ベンが立つ。白狐さんの耳も立つ。マル婆さんが「来たね」と言う前に、ベンが言った。
「来た」
「早い」
「芋の匂い」
「覚えたんですね」
葉を開くと、湯気がぶわっと出た。小芋の皮にしわが寄り、指で押すと柔らかい。リタが小枝で割ると、中は黄色く、湯気が細く立った。
「できました」
「湯の芋」
「湯の芋です」
畑から戻った男たちにも、ひとつずつ割って渡した。大きな量ではない。けれど、湯で温めた手に、湯けむりで蒸した芋が乗る。それだけで、みんな少し黙る。
「……うまいな」
「ただの芋なんだけどな」
「ただの芋を、湯がずるくした」
「それ、ベンみたいな言い方ですね」
「湯の芋、ずるい」
ベンが誇らしげに言った。
白狐さんは小さな芋を受け取り、少しだけ食べた。
「昨日より、よいです」
「分かるんですか」
「分かります」
「何が違います?」
「待ち時間です」
「そこ」
「芋の都合を尊重しました」
「いいこと言ってるようで、芋を待っただけですね」
「重要です」
ミオも芋を食べた。
熱い。舌先にほくほくした甘さが広がる。湯場のそばで食べると、芋の味に湯気の匂いが混ざる。昨日の温泉のぬくさが、まだ体のどこかに残っている気がした。
「これは、危ないですね」
「何がですか」
リタが聞く。
「湯に入って、芋を食べたら、動きたくなくなります」
「かなり危ないです」
「村が止まります」
「止まらない程度にしましょう」
マル婆さんが芋を半分に割りながら言った。
「でも、帰る場所に湯があると、畑へ行きやすいよ」
「湯場があるから、行きやすい?」
「そうだよ。戻って温まれると思えば、腰も少し働く」
「腰が働く」
「膝もね」
「マル婆さんの体、部位ごとに話しますね」
「長く使ってるからねえ」
リタが笑い、芋の皮を小さく畳んだ。
昼を過ぎると、湯場へ来る人がまた増えた。畑から一度戻った女が手を温め、荷運びの男が肩に湯をかけ、子どもたちは湯気を追いかけて草の上を歩いた。神官は小祠一に礼をしてから湯場へ来て、湯気を見て、少しだけ目を細めた。
「村の外に、よい場所ができましたね」
「はい」
「人が外へ出る理由が増えました」
「怖いだけの道じゃなくなりました」
「それは大きいです」
ミオは湯船の石に手を置いた。
温かい石だった。
小祠一までの道は、前は祠へ行くための道だった。今は、休みに行く道で、湯へ行く道で、芋を蒸しに行く道でもある。人が行き、座り、水を飲み、湯に入り、芋を食べて戻る。その繰り返しで、道の感じが変わっていく。
透明板には、細い線が増えていた。
――――――――――
[外縁小道・利用反応]
支度場:使用中
小祠一休止場:使用中
湯浴み場:使用中
地熱排気:使用中
通行量:増加
――――――――――
「通る人、増えてます」
「見れば分かります」
白狐さんが言った。
「足跡が増えました」
「ですね」
「あと、芋の皮も落ちています」
「それは拾います」
リタがすぐ拾った。ベンも拾う。白狐さんも、しっぽでひとつ寄せた。
「白狐さん、しっぽで」
「湯ではありません」
「そこ基準なんですね」
夕方前、湯場の湯気はまだ消えなかった。
蒸し台の横には、空になった葉包みが重なっている。湯船の縁には、丸い石が少し増えた。ベンが置いたものと、誰かが座りやすいように足したものだ。マル婆さんは座り石で、最後の芋を少しずつ食べている。
「マル婆さん、まだありました?」
「小さいのが一つね」
「隠してました?」
「見つけただけだよ」
「ほんとですか」
「ほんとだよ。たぶん」
ミオは笑った。
その時、湯場の奥で、ぽう、と小さな光が浮いた。
湯気の中に、丸い光がひとつ。すぐ消える。リタが息をのんだ。ベンが芋を持ったまま固まる。白狐さんの耳が立つ。
「ミオ」
「はい」
ミオは透明板を開いた。
――――――――――
[外縁温熱系統]
湯浴み場:稼働
蒸し台:稼働
利用反応:増加
外縁補助線:微弱応答
接続先:未確定
――――――――――
「外縁補助線……」
「どこかにつながっていますか」
リタが小声で聞いた。
「まだ分かりません。今は、反応しただけです」
「触りますか」
「今日は触りません」
ミオは透明板を閉じた。
湯が出て、人が来て、芋が蒸されて、道を通る足が増えた。それで、眠っていた線が少しだけ返事をした。たぶん、そういうことだ。
白狐さんが湯気を見つめていた。
「湯は、人を呼びます。人が通れば、道も目を覚まします」
「白狐さん、今のはかなり神獣です」
「常に神獣です」
「さっき芋を隠してませんでした?」
「確認用です」
「怪しい」
ベンが芋のかけらを持って、湯気の方へ差し出した。
「線、食べる?」
「食べません」
「芋、うまいのに」
「線は芋を食べません」
「白狐さんは食べる」
「白狐さんは神獣です」
「神獣、芋食べる」
「食べます」
白狐さんが否定しなかったので、リタが笑った。
帰り道、村人の手には空のかごと、濡れた布と、少し温まった体があった。マル婆さんは杖をつきながら、昨日よりも口数が多い。トマは二段の蒸しかごを作ると言い、リタは芋の大きさをそろえると言った。ベンはずっと「湯の芋、線は食べない」と言っていた。
ミオは一度だけ振り返る。
小祠一の奥で、湯気が夕方の光に溶けていた。さっきの小さな光は、もう見えない。それでも、湯場の奥には何かがある。急いで触るものではない。けれど、村人の足で、少しずつ起きるものかもしれない。
ミオは透明板を胸に抱えた。
湯があり、芋があり、人が通る。
それだけで、道は少しにぎやかになった。
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