第87話 湯けむりのあと、村の手が早くなった
朝、リュミナ村の井戸端は少し浮ついていた。
水桶を並べる女たちも、豆を洗う子どもたちも、話しているのは小祠一の奥にできた湯場のことばかりだった。昨日、湯気を見た者は何度もそれを話し、まだ見ていない者は桶を持ったまま顔を寄せる。
「ほんとに湯気が出てたの?」
「出てたよ。白く、ふわっと」
「ミオ様、入ったんでしょう?」
「最高って言ってた」
「最高って」
「最高って言ってた」
リタは井戸水を汲みながら、少し得意そうにうなずいた。
「本当に、最高って言ってました」
「リタが入ったみたいな顔してる」
「今日は入ります」
「いいなあ」
「順番です」
ミオはその横で、顔を少し伏せた。昨日の自分の声が、村中に広まっている。
「最高、そんなに大きい声でしたか」
「湯気の中から、ちゃんと聞こえました」
「聞こえましたか」
「はい」
白狐さんは井戸の縁に座り、しっぽをきっちり巻いていた。昨日のしっぽ入浴事件を、本人はまだ認めていない。
「白狐さんも、しっぽが」
「入っていません」
「まだ何も言ってません」
「言う前に分かります」
「強い」
ベンが小桶を抱えて走ってきた。
「湯、行く」
「走ると水が揺れます」
「水じゃない。湯」
「湯でも走らない」
「湯は山の上」
「小祠一の奥です」
「小祠一の奥」
言い直して、ベンは小桶を抱え直した。
朝の支度が終わると、女たちが湯場へ向かった。リタ、ミオ、マル婆さん、井戸端の女たちが数人。トマたちは少し後から石を直しに行くと言い、ベンは当然のように混ざろうとして止められた。
「ベンはあと」
「あと」
「あとで子どもたちと見に行きましょう」
「ちゃぷん」
「ちゃぷんはあとです」
外縁小道を歩くと、昨日までと同じ道なのに、足取りが少し違った。
小祠一の支度場には草分け棒、水甕、座り石、干し台がある。その奥に湯場があると思うだけで、道が少しにぎやかに見えた。マル婆さんも杖をつきながら、いつもより早めに歩いている。
「マル婆さん、速いです」
「湯があるからねえ」
「膝、無理してません?」
「膝も湯を覚えたんだよ」
「膝が覚えた」
「覚えるんだよ、こういうのは」
白狐さんが横から静かに言った。
「体は、楽な場所をよく覚えます」
「白狐さん、今日はちゃんと神獣ですね」
「常に神獣です」
「昨日、しっぽだけお風呂に入ってましたけど」
「入っていません」
「はい」
小祠一に礼をして奥へ進むと、湯場から白い湯気が上がっていた。
石で囲った湯船は、昨日より少し落ち着いて見えた。トマたちが朝のうちに石を直したのか、縁のぐらつきが減っている。湯は薄く白く、表面で小さく揺れていた。
リタが息を吸った。
「本当に、今日も出ています」
「昨日だけじゃなかったですね」
「よかったです」
ミオも胸の前で透明板を開いた。
――――――――――
[小祠一奥・湯浴み場]
地熱水脈:安定
湯量:低流量維持
石組み:補修済
温度:適温域
状態:稼働
――――――――――
「大丈夫そうです。温度も昨日と同じくらい」
「では」
リタが湯を見た。
「入ります」
「はい。どうぞ」
リタは湯に入ると、最初に小さく声を出した。
「……あっ」
「分かります」
「これ、分かります」
「ですよね」
湯気の向こうで、リタの肩がすとんと落ちた。普段きちんとしているリタの背中が、少しだけゆるむ。
「ミオ様」
「はい」
「これは、仕事の前に入ったら、戻れなくなります」
「それは困りますね」
「でも、仕事の後なら」
「かなり効きます」
「効きます」
マル婆さんは座り石に腰を下ろし、順番を待ちながら湯気を眺めてにやにやしていた。
「ほらね。若い子もほどける」
「ほどけるって、すごい言い方ですね」
「見れば分かるよ」
「分かります」
井戸端の女たちも、ひとりずつ湯を確かめた。手を入れた者は笑い、足先をつけた者は黙り、肩まで沈んだ者はしばらく出てこなかった。
ミオは湯のそばで、石の位置を見ていた。
昨日より、湯の流れが見える。入ってくる細い線。出ていく小さな溝。石の内側にたまる湯。透明板で見れば旧設備の線だが、目で見ると、ただの手作りの湯船だった。
村人が石を運んだ。リタが布を持ってきた。ベンが丸い石を探した。白狐さんが供物の方を見張った。ミオが線を読んだ。
それで、湯気が上がっている。
「ミオ様」
リタが湯から上がり、髪の端を押さえながら言った。
「これ、村の人、みんな来たがります」
「ですよね」
「畑仕事のあとに入りたいです」
「水を汚さないように、軽く流してからですね」
「はい」
「長居しすぎる人も出ます」
「マル婆さんですね」
「聞こえてるよ」
マル婆さんが笑った。
昼前、トマたちがやって来た。男衆は石の外側を直し、湯がこぼれたところに小さな溝を足した。ベンは子どもたちと一緒に石の外を回り、「ちゃぷん」を連呼している。
「入る」
「あとで」
「ちゃぷん」
「あとで」
「ちゃぷんだけ」
「言うのはいいです」
白狐さんは湯場の縁から少し離れて座っていた。しっぽは昨日よりも遠い。
「白狐さん、今日は距離ありますね」
「事故を防いでいます」
「入ってないのに」
「事故です」
「はい」
ミオは湯に手を入れた。
昨日と同じ温かさだった。指先から腕へ、じんわり熱が上がってくる。昨日入ったばかりなのに、体が覚えている。
リタが横から言った。
「ミオ様も、もう一度入りますか」
「……少しだけ」
「少しだけ」
「少しだけです」
「昨日、最高と言ってました」
「今日は静かに入ります」
静かに入るつもりだった。
けれど、湯に沈むと、やっぱり声が出た。
「……はあ」
リタが外で笑った。
「静かではありませんでした」
「これは無理です」
「分かります」
ミオは肩まで湯に浸かり、目を閉じた。湯気が顔にかかる。外で子どもたちが小さく騒いでいる。トマが石を置く音がする。マル婆さんが誰かに膝の話をしている。白狐さんが「油揚げは持ちこまないでください」と言っている。
ごちゃごちゃしている。
でも、それが村だった。
ミオは湯の中で、そっと指を握る。
昨日、思い出したレンの顔が、また湯気の向こうに浮かんだ。真面目に熱さを分析して、結局は少し気持ちよさそうにしていた顔。
「レン、たぶん文句言いながら入るんだろうな」
小さく言うと、白狐さんの耳が動いた。
「その方は、湯を好むのですか」
「好きなのに、最初は理屈を言う人です」
「面倒ですね」
「少し」
「でも、思い出す顔なのですね」
「はい」
白狐さんは、しばらく黙った。
「ならば、この湯場はよいものです」
「どうしてですか」
「遠い者を、少し近くします」
「……白狐さん」
「神獣です」
「はい」
ミオは笑い、湯に口元まで沈みかけて、あわてて戻った。
「今、ちょっと沈みました」
「見ていました」
「言わないでください」
「言いました」
リタがまた笑った。
畑から戻った男が、井戸端で腰を押さえながら言った。
「小祠一の湯、腰にも効くかな」
豆を洗っていた女が顔を上げる。
「手だけでも入れたいね」
子どもたちは桶のそばで、まだ「ちゃぷん」と言っていた。神官は小祠一に礼をしてから使うよう短く言い、白狐さんは「供物を濡らさない」を三回言った。
夕方、かまどの火の前で、リタがぽつりと言った。
「今日、畑のあとに湯へ行くと思うと、少しがんばれました」
「分かります」
「終わったあとに温まれる場所があるのは、違います」
「はい」
ミオはうなずいた。
湯場は、ただ気持ちいいだけではなかった。
畑へ行く足を少し軽くする。重い水桶を運ぶ肩に、あとで温められると思わせる。膝の痛い人に、また小祠一まで行く理由を作る。子どもたちに、村の外の道を怖いだけの場所にしない。
小祠一の奥から上がる湯気は、村の中まで届いていない。
でも、村人の動きには届いていた。
夜の前、ミオはもう一度だけ小祠一へ行った。湯場の石が冷えすぎていないか、流れが止まっていないかを見るためだ。白狐さんもついてきた。
湯場には、まだ白い湯気があった。
湯の表面が、夕方の薄い光を受けて揺れている。石の外には、ベンが拾った丸い石が二つ増えていた。リタが置いた小さな布も乾いている。
「明日、また人が来ますね」
「来ます」
白狐さんが言った。
「湯は、人を呼びます」
「白狐さんも?」
「わたしは監督です」
「しっぽは?」
「乾いています」
「よかったです」
ミオは湯に指を入れた。
あたたかい。
その熱が指先から上がってきて、胸の奥に残っていた記憶を少し揺らした。
レンも、どこかであたたかいものに触れているといい。そう思ってから、ミオは透明板を閉じた。
今日は、問いかけを遠くへ投げない。
ここにある湯を、明日も使えるようにする。
小祠一の奥で、手作りの露天風呂が静かに湯気を上げていた。
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