第83話 小祠一に、水を置いた
朝、マル婆さんは外縁小道の支度場に、小さな布包みを持って来た。
昨日、休み場で言っていた針仕事の布だった。針はまだない。けれど、布のほつれを指で確かめるだけでも、座っている時間は落ち着くのだという。
「ほんとに持ってきたんですね」
「座るところがあるなら、手も動かしたくなるからねえ」
「今日は水も置いてみます」
「そりゃ助かるよ。水袋は、若い子でも肩が下がってたからね」
リタが井戸の方から、小さな甕を抱えてきた。丸くて、少し古い。ふちが欠けているが、水を入れるには足りる。トマはその後ろで、空の木桶を二つ持っていた。
「これ、使えるか」
「大きすぎないのがいいです。小祠一で飲む分だけ」
「水を入れたまま運ぶと重いぞ」
「空で持っていって、向こうで入れましょう」
白狐さんは甕を見て、耳を少し立てた。
「供物の器ではありませんね」
「人が飲む水です」
「ならば、祠の前から少し離してください」
「はい。白狐さん、そのあたりは見てください」
「見ます」
ベンが甕をのぞきこんだ。
「水係、いる」
「まだ水入ってないよ」
「入る」
「気が早い」
「水係、早い」
ミオは透明板を甕にかざした。
――――――――――
[小祠一・飲水補助確認]
器:小型水甕
破損:軽微
条件:台座/覆い布/祠前分離
用途:休止時飲水
――――――――――
「台と布と、祠から少し離すこと。これでいけそうです」
「布ならあります」
リタが、昨日洗った布を出した。
「きれいな方です」
「助かります」
「きれいじゃない方もあります」
「それは別のところで」
外縁小道へ入ると、朝の草がさわさわ鳴った。トマが空の甕を抱え、リタが布と木椀を持つ。ベンは戻り石の袋を抱えながら、何度も甕の方を見た。マル婆さんは杖をつき、昨日より少し慣れた足取りで歩く。
小祠一の休み場には、座り石が三つ並んでいた。日よけ布は風でぱたぱた揺れている。昨日置いた水袋台もそのままだ。
トマは甕を荷置き石の横へ置いた。
「ここでいいか」
「少し低いですね。飲む時に屈みます」
「台がいるな」
ベンがすぐに石を集め始めた。大きい石を下に、小さい石を横へ。リタがその上に布を敷く。甕を置くと、少しだけ傾いた。
「こっちが下がっています」
「石、足す」
ベンが小石をひとつ差し込む。甕はまっすぐになった。
「水甕の段、できた」
「石係、仕事が早い」
「水係もする」
「もう兼任してる」
トマが木桶の水を少しずつ甕に移した。
ちゃぷん。
小さな音が、休み場に落ちた。マル婆さんが座り石に腰を下ろし、その音を聞いて目を細める。
「いい音だねえ」
「水の音ですか」
「村の外で聞くと、ありがたいね」
リタが覆い布をそっとかけた。白狐さんは祠の方を見てから、甕の位置を少しだけ前足で示す。
「もう半歩、こちらへ」
「祠から離します?」
「はい」
「分かりました」
トマが甕の台ごと少し動かした。水が中で揺れ、ちゃぷん、ともう一度鳴る。
「白狐さん、ここでどうですか」
「よいです」
「神獣確認、入りました」
「その言い方は軽いです」
「すみません」
マル婆さんは木椀に水を少し取り、ゆっくり飲んだ。
「冷たいねえ」
「井戸の水ですから」
「ここで飲めるだけで、足が少し先に行く気になるよ」
「今日は座ってください」
「座って飲んでるよ」
リタも水を飲んだ。ベンは木椀を両手で持って、一口だけ飲み、それから甕の中を見た。
「まだある」
「あるね」
「明日も入れる」
「ベン、気が早い」
「水係だから」
ミオは透明板をかざした。
――――――――――
[小祠一・飲水補助]
水甕:設置
台座:安定
覆い布:配置
利用記録:成立
――――――――――
「使えています」
「ミオ様、甕の水、毎日替えますか」
「はい。夕方に戻して、朝に入れ直しましょう」
「誰が」
「……水係が、やりたそうです」
「水係、やる」
「重い時は大人を呼んでください」
「呼ぶ」
「ほんとに?」
「たぶん」
「そこは呼んで」
マル婆さんは布包みを膝の上に広げた。針がないので縫えない。けれど、ほつれを指でつまみながら、小さく笑っていた。
「今度は針もいるね」
「休み場が仕事場になります」
「座るだけだと、手がひまだよ」
「それは分かりますけど」
「水があるなら、少し長く座れるからね」
白狐さんは日よけ布の外で、甕の方をじっと見ていた。
「白狐さん、見張りですか」
「水はよく混ざります」
「混ざる?」
「人のもの、祠のもの、供物のもの。近い場所にあると、誰かが間違えます」
「じゃあ、人の水、って分かるようにします」
「短くお願いします」
ミオは小さな木片に、リタへ文字を書いてもらった。
飲み水。
それだけだった。リタはもう一文字足そうとして、やめた。
「これでいいですか」
「いいです。短い方が読めます」
「白狐さん」
「よいです」
木片は甕の横に置いた。札というより、小さな目印だ。ベンはそれを見て、声に出して読んだ。
「飲み水」
「読めた」
「水係だから」
「それ、関係あるかな」
「ある」
昼近くまで、休み場には人が残った。マル婆さんが座り、リタが布を直し、トマが水甕の台をもう少し固くする。ベンは甕を見て、すぐ井戸へ走りたがったので、ミオに止められた。
「今は足りています」
「でも、減る」
「減ったらです」
「減ったら走る」
「歩いてください」
「走ると水が揺れる」
「そうです」
「じゃあ歩く」
帰り道、マル婆さんは二度だけ立ち止まった。昨日より口数が多い。水が冷たかったこと、甕の音がよかったこと、座り石の高さがちょうどいいことを、ゆっくり話した。
村に戻ると、リタが甕の覆い布を洗いに行った。トマは空の木桶を井戸のそばへ戻す。ベンは戻り石の袋を石係の段に置き、すぐ井戸の方を見た。
「水、あしたも入れる」
「明日の朝ね」
「あしたの朝」
夕方、小祠一の休み場に、小さな水甕が残った。覆い布の下で水がちゃぷんと鳴り、座り石のそばでは日よけ布がぱたぱた揺れている。
マル婆さんは帰り道に二度振り返った。
「明日は針も持っていくよ」
「休みに行くんですよ」
「水があるなら、少し長く座れるからね」
白狐さんは何も言わず、しっぽで甕の台座についた土を払った。
ベンはそれを見て、井戸の方へ走りかけた。
「水、あしたも入れる」
ミオは止めようとして、やめた。
甕の中で、水が小さく揺れた。
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