第42話 第三標識は、村の外を覚えていた
第三標識へ渡った翌朝、リュミナ村では「川の向こう」の話が何度も出た。
井戸のそばでも、畑の端でも、教会の前でも、誰かが少し声をひそめて言う。
「本当に渡れたのか」
「沈み石が九つ光ったらしい」
「第三標識の前に広場があったって」
「川の向こうにも道があるんだな」
ミオは教会の小部屋で、透明な板を開いていた。
[ROUTE UPDATE]
――――――――――
祈り橋跡:安定
第三標識:仮起動
対岸広場:部分復帰
前方線:森奥巡礼道
側方線:外縁標候補
次目標:第三標識本起動/外縁標確認
――――――――――
仮起動。
その文字が、少し気になっている。
昨日の第三標識は、起きた。けれど、まだ半分寝ぼけているような状態だった。標識面は汚れていたし、周囲の石畳も一部しか出ていない。前方線と側方線は見えたが、どこへ伸びているかはまだ曖昧だった。
今日は、第三標識をちゃんと起こす。
ミオは板を閉じて立ち上がった。
白狐は、部屋の入口で待っていた。
「ミオ」
「はい」
「今日は第三標識ですね」
「はい」
「川ですね」
「はい」
「供物も必要ですね」
「流れるように入れましたね」
「道には供物が必要です」
白狐はまじめな顔をしている。
ミオは少し迷ってから、昨日残しておいた麦と、豆を少しだけ布に包んだ。
「少しだけです」
「適量です」
「油揚げはありません」
「まだ言っていません」
「顔が言ってました」
「顔」
白狐は納得していなさそうだったが、何も言わなかった。
入口祈り場には、神官さん、リタ、ラウ、ベンがもう集まっていた。今日は昨日より荷物が少ない。縄と注意札は残したままなので、持っていくものは布、供物、標識を拭くための小さな水、木札、石を支える道具くらいだ。
ラウは長い棒を持っている。
「また水深を見るんですか」
「一応な。昨日と同じとは限らないだろ」
「まじめです」
「俺だってたまにはまじめだ」
ベンが橋跡用の小さな楔を確認している。
「第三標識の根元、昨日より見たいです。片側だけ掘ると傾くので、周りを均等に」
「はい。片側だけ掘らない」
「あと、上を強くこすらない」
「リタさん、書きます?」
「もう書きました」
リタが木札を見せた。
第三標識:強くこすらない。根元を片側だけ掘らない。供物は少し。帰りの縄を外さない。
「完璧です」
「白狐さん向けに、供物は少しを入れました」
「なぜ私向けなのですか」
「念のためです」
「念」
神官さんが短く咳をした。
「行こう。第三標識は、昨日こちらを迎えた。今日は、こちらが改めて迎える番だ」
入口祈り場の灯りが、ぽうっと返事をするように明るくなった。
巡礼道を進む。
第一標識、第二標識、休み石広場、路肩小祠。昨日より、足元の石列が見えやすい。祈り橋跡へ近づくと、水音が聞こえる。
沈み石は九つ、昨日と同じように光っていた。
縄も残っている。リタの木札も濡れずに立っている。
[FORD ASSIST STATUS]
――――――――――
祈り橋跡:安定
沈み石:九基点灯
縄支点:維持
通行条件:成人一名ずつ/縄使用
第三標識:対岸応答
――――――――――
「安定してます」
「なら渡れるな」
ラウが先に渡り、縄を確認した。次に神官さん、リタ、ベン、ミオ、白狐の順で渡る。
昨日より、怖くなかった。
水は同じように冷たい。沈み石は少し滑る。けれど、どこに足を置けばいいか分かる。縄を握れば、体が流れに持っていかれにくい。
九つ目の石を踏み、対岸の土へ足を置いた時、ミオは小さく息を吐いた。
川の向こうは、もう「向こう」だけではなくなっていた。
第三標識の前へ進む。
昨日少し戻した対岸広場は、朝の光の中ではっきり見えた。まだ草は多い。石畳も半分以上埋もれている。けれど、標識の前に人が立てる場所があり、荷物を置ける平たい石があり、川を渡った人が一度整えるための場所だと分かる。
第三標識は、昨日より少し明るく見えた。
第一標識や第二標識より大きい。高さはミオの胸より少し低いくらい。厚みがあり、正面には三本の線が刻まれている。ただし、汚れと苔でほとんど埋まっていた。
ミオは透明な板をかざした。
[THIRD MARKER STATUS]
――――――――――
第三標識:仮起動
標識面:汚れ/苔
周辺石畳:四一%埋没
戻り線:祈り橋跡
前方線:森奥巡礼道
側方線:外縁標候補
推奨:標識面清掃/供物/祈り
――――――――――
「今日は、標識面をきれいにして、周辺の石畳をもう少し戻します」
「掘りすぎは?」
ベンが聞く。
「しません。均等に」
「はい」
ベンが根元を見る。ミオは、ベンが指した範囲だけ草を除けた。ラウが長い棒で土をゆるめ、リタが拭き布を準備する。神官さんは供物の場所を整え、白狐は布包みの麦と豆を見ている。
「白狐さん」
「はい」
「まだです」
「確認です」
「はい」
ミオは標識の正面に水を少しつけた布を当てた。
強くこすらない。
苔を柔らかくして、ゆっくり剥がす。表面に刻まれた線が、少しずつ見えてくる。
一本は、川の方へ戻る線。
一本は、森の奥へ続く線。
もう一本は、標識の右側から高台の方へ伸びる線。
「やっぱり三本あります」
「道が三つ、か」
神官さんが静かに言った。
「はい。ただ、戻る線と森の線は地面に沿ってます。でも、この横の線は、少し変です」
「変?」
「途中から上に向かう感じがします」
リタが首を傾げた。
「上に向かう道ですか」
「道というより、標の線かもしれません」
「標の線」
「うまく言えません。普通の道じゃないです」
白狐が第三標識の右側へ回った。
しっぽが、ふわりと一度だけ揺れる。
「懐かしい気配があります」
「白狐さん、前にも来たことがあるんですか」
「覚えていません」
「でも懐かしい?」
「はい。覚えていないのに、知っている場所に近いです」
「それ、ちょっと怖いですね」
「少しだけ」
白狐がそう言うと、リタが木札を書く手を止めた。
「白狐さんでも怖いんですか」
「怖いというより、重いです」
「重い」
「長く閉じていたものが、少しだけ開く時の重さです」
ミオは標識を見た。
白狐の言葉はやわらかい。でも、その奥にあるものは軽くない。
ここは、ただの道しるべではない。
村の外を覚えている。
ミオは透明な板の表示を細かく見る。第三標識の中には、古い記録が眠っていた。誰が通ったか、何を運んだか、どの祠へ向かったか。はっきり読めるほどではない。ただ、点のような記録がいくつも折り重なっている。
村へ戻る人。
森の奥へ進む人。
高台へ向かう人。
祈り。荷。供物。水。布。小さな印。
ミオは指先で板をなぞった。
[THIRD MARKER MEMORY]
――――――――――
戻り線:リュミナ村方面
前方線:森奥巡礼道
側方線:外縁標候補
通過記録:断片
対岸広場:復帰可能
巡礼路記録:部分復帰可能
――――――――――
「記録、残ってます」
「誰かが通った記録か」
神官さんが聞いた。
「はい。はっきりは読めません。でも、ここは川を越えた人たちを覚えています」
「覚えているなら、こちらも忘れぬようにせねばな」
神官さんは第三標識の前に立った。
リタが木札を置く。ラウが草を払う。ベンが根元を支える石を直す。ミオは標識面の汚れを取り、白狐は供物の布を神官さんへ渡した。
麦と塩、豆を少し。
神官さんがそれを標識前のくぼみに置いた。
「川を越えた先の標よ。リュミナの村は、再びここへ来た。戻る道も、進む道も、迷わぬように。ここを通る者の足元を照らしたまえ」
ミオは透明な板を標識へ向けた。
第三標識の三本の線が、ぽうっと光った。
戻り線が光る。
川の方へ、光が返る。祈り橋跡の沈み石が、九つ続けて明るくなる。
次に、前方線が光る。
森の奥へ、草の下の石列が少しだけ浮かび上がる。ほんの数十歩分。それでも、道が続いていることが分かる。
最後に、側方線が光る。
高台へ向かう細い線が、すうっと伸びた。地面を這う光ではない。途中で少し浮くような、上へ向かうような光。
リタが思わず声を漏らした。
「きれい……」
白狐は黙っていた。
神官さんも、しばらく何も言わなかった。
第三標識の周りで、草に隠れていた石畳が顔を出していく。ぽこ、ぽこ、と土がゆるみ、平たい石が並ぶ。標識の前に、小さな対岸広場が戻った。
荷物を置く石。
濡れた足を整える石。
祈るための正面石。
横道へ向かう目印の石。
ミオは息を止めかけて、今度は自分で気づいて吸った。
[THIRD MARKER WAKE]
――――――――――
第三標識:起動
祈り橋跡:接続
北東巡礼道:延伸
対岸広場:復帰
外縁標候補:一
巡礼路記録:部分復帰
――――――――――
「起動しました」
「今度は仮ではないのだな」
「はい。第三標識、起きました」
ラウが広場を歩いてみる。
「ここ、荷を置けるな」
「はい。川を渡った後に整える場所だと思います」
「なら、麦袋くらいなら一回置ける」
「でも、荷車はだめです」
「分かってるって」
「ほんとですか」
「たぶん」
「たぶん」
リタが木札に書く。
第三標識。川を渡ったら一度整える。荷は石の上へ。濡れた足で走らない。高台の線は勝手に入らない。
「最後の、入れます?」
リタが聞いた。
ミオは少し考えた。
「入れましょう。勝手に、というより、神官さんか誰かと一緒に」
「では、外縁標の方へは、ひとりで入らない」
「それで」
神官さんが高台へ伸びる線を見た。
「外縁標、か」
「はい。たぶん、村の外へ広がる標です」
「急ぐ必要はあるか」
「あります」
ミオは答えて、自分でも少し驚いた。
白狐がミオを見る。
ミオは透明な板を握り直した。
「急いで触る必要はありません。でも、確認する必要はあります。第三標識が起きたので、次はその線がどこへ向かうかを見た方がいいです」
「そうか」
神官さんはうなずいた。
「なら、今日はここを整え、次に高台へ向かう支度をする」
「はい」
「進むための準備だな」
「はい」
それでよかった。
止めるための準備ではない。
進むために、標識を起こし、広場を整え、道の意味を村の人たちに渡す。
ベンが標識の根元をもう一度確認した。
「根元、大丈夫です。石畳が戻ったので、前より安定してます」
「よかった」
「でも、左側に水がたまると傾くかもしれません」
「水抜きがいりますか」
「小さい溝なら」
「やりましょう」
ベンが示した場所に、ラウが細い溝を作った。雨が降った時、標識の根元に水が溜まりすぎないようにする。リタはそれも木札に書こうとして、途中で止まった。
「水抜き溝、踏まない……これは木札に書くと多すぎますか」
「多いですね」
「じゃあ、わたしが覚えます」
「お願いします」
白狐が供物のくぼみを見た。
「適量です」
「よかったです」
「豆が三つ」
「数えました?」
「確認です」
「はい」
第三標識の前に、静かな風が通った。
森の奥へ続く線が、弱く光っている。
高台へ向かう線も、細く残っている。
ミオは、その二本を見比べた。
森奥巡礼道。
外縁標候補。
どちらも、村の外へ向かう。けれど、意味が違う。森奥巡礼道は地上の道。人が歩き、荷を運び、祠へ向かう道。外縁標は、もっと別のものだ。空へ、遠くへ、上へ伸びる何か。
今はまだ、名前だけでいい。
ミオは透明な板を閉じた。
「神官さん」
「なんだ」
「第三標識のこと、村へ伝える時は、川を越えた先の整え場、って言えばいいと思います」
「整え場」
「はい。足元と荷を整えて、進むか戻るかを見る場所です」
「分かりやすい」
「外縁標のことは、まだ詳しく言わなくていいです」
「なぜだ」
「まだ見てないからです」
「それはそうだな」
ラウが小さく笑った。
「ミオでも、見てないことは言わないんだな」
「言いません」
「たまに言うぞ」
「たまにです」
「たまにな」
白狐が静かに言った。
「その、たまに、を減らしていくのは良いことです」
「はい」
ミオは少しだけ頬をかいた。
第三標識の光が、川へ返る。沈み石が応える。入口祈り場までは見えないけれど、きっと道の灯りは順に戻っている。
帰る前に、ミオはもう一度だけ標識に触れた。
冷たい石だった。
でも、奥に弱い熱のようなものがある。
村の外を覚えていた標識が、もう一度リュミナ村の道を受け入れた。
帰り道、対岸広場から川を見ると、沈み石が昨日より頼もしく見えた。
リタは木札をしっかり抱えている。
「村に戻ったら、第三標識の木札を写します」
「何枚くらい?」
「入口祈り場、路肩小祠、祈り橋跡、第三標識用に四枚です」
「多いですね」
「道が増えると、札も増えます」
「それはそう」
ラウが縄を確認し、ベンが橋台を見て、神官さんが最後に第三標識へ頭を下げた。
白狐は供物のくぼみを見ていた。
「白狐さん」
「はい」
「帰ります」
「はい」
返事はすぐだった。
少しだけ名残惜しそうだったが、供物なのか、標識なのかは分からなかった。
沈み石を一人ずつ渡る。
川のこちら側へ戻ると、第三標識の光が水の向こうでぽうっと揺れた。
もう、草の中に眠るだけの標識ではない。
リュミナ村の巡礼道は、村の外を思い出し始めていた。
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