第41話 第三標識へ渡る
祈り橋跡へ向かう道は、朝から少しにぎやかだった。
入口祈り場の前に、縄、板、木杭、小さな槌、石を動かすための棒が並んでいる。リタは木札を何枚も抱え、ベンは石を見るための小さな金槌を持っていた。ラウは長い棒を肩にかつぎ、少しだけ得意そうな顔をしている。
ミオは透明な板を胸に抱えた。
昨夜見た白い塔の影は、まだ頭の奥に残っている。
でも、今日はそれを追いかける日ではない。
川を渡る日だ。
「ミオ」
「はい」
「顔が少し遠くを見ています」
「見てました」
「今日は川です」
「はい。今日は川です」
白狐は、入口祈り場の供物石をちらっと見た。
「供物もあります」
「今日は川です」
「はい。川です」
返事は早かったが、しっぽは少しだけ供物石の方へ残っていた。
神官さんが杖を持ってやってくる。昨日より人は多い。けれど、全員ではない。橋跡はまだ弱い。まずは使えるようにして、第三標識へ渡る。そのための人数だった。
「準備はよいか」
「はい。沈み石の光は残っているはずです。今日は、石を増やして、縄も張って、一人ずつ渡れるようにします」
「子どもは?」
「だめです」
「荷車は?」
「もっとだめです」
「白狐は?」
「……白狐さんは軽いので、たぶん」
「神獣ですので」
「軽さの話です」
ラウが笑い、リタも少し笑った。
ベンだけは真剣な顔で縄を見ている。
「石が沈んでたら、先に言います」
「お願いします」
「あと、橋台に重い板を乗せすぎると割れるかもしれません」
「今日は橋じゃなくて、渡り場です」
「はい。沈み石を使う方がいいと思います」
ミオはうなずいた。
神官さんが祈り場の前で短く祈る。
「道を歩く者の足元を守りたまえ。水を越える者が、急がず、驕らず、戻れるように」
入口祈り場の灯りが、ぽうっと明るくなった。
第一標識へ向かう石列が、草の中で薄く光る。休み石広場、路肩小祠、その先の祈り橋跡。道はもう、ただの森の入口ではなくなっていた。
[PILGRIM ROAD STATUS]
――――――――――
入口祈り場:安定
第一標識:安定
第二標識:安定
休み石広場:稼働
路肩小祠:復帰
祈り橋跡:渡河補助低出力
次目標:第三標識到達
――――――――――
「行きましょう」
「はい」
ミオたちは巡礼道へ入った。
朝の草は少し湿っていた。足元の石がぽう、ぽう、と順番に光る。休み石広場の水鉢には、昨日より少し多く水がたまっている。ラウがそれを見て、軽く手を合わせた。
「顔、洗えそうだな」
「まだです」
「分かってる。言っただけだ」
「たぶん、また言いますね」
「たぶん」
白狐が休み石の上を一瞬見た。
「今日は座りません」
「えらいです」
「時間がありませんので」
「理由」
路肩小祠の前では、神官さんが足を止めた。
供物皿には麦が少し残っていた。リタが木札を確認する。『登らない』『こすらない』『供物は少し』。昨日書いた文字が、朝の光の中で少しだけ誇らしげに見えた。
「今日の分も書きます」
「橋跡用ですね」
「はい。一人ずつ。走らない。子どもだけで渡らない。供物を川に投げない」
「最後、大事です」
白狐が言った。
ミオは少し笑った。
小祠の先へ進むと、水音が聞こえてくる。
祈り橋跡だ。
木々が切れ、浅い流れが見えた。昨日と同じように、橋は落ちている。片側の橋台だけが残り、対岸では第三標識が草に埋もれている。
けれど、昨日とは違うものがあった。
水の中で、七つの沈み石が弱く光っている。
ぽう。
ぽう。
流れの下に、足を置く場所が見える。
「残ってます」
リタが小さく言った。
「うん。消えてない」
ミオは透明な板をかざした。
[FORD ASSIST STATUS]
――――――――――
祈り橋跡:低出力維持
沈み石:七基点灯
滑り苔:一部残存
縄支点:未設置
第三標識:対岸応答
――――――――――
「まず、縄の支点を作ります」
「こっちの橋台に一本。向こうは?」
ラウが聞く。
ミオは対岸を見た。
「最初は向こうへ渡れないので、こっち側で支えます。ラウさんが試験で半分まで行って、戻る。沈み石を増やしてから、縄を持って一人が渡る形にします」
「俺か」
「昨日も行けたので」
「理由が雑だな」
「一番慣れてます」
「それならいい」
ベンが橋台の石を見た。
「ここ、縄を強く引くと角が欠けます」
「じゃあ、木杭ですか」
「はい。橋台に直接じゃなくて、横に木杭を打って、石には布をかませた方がいいです」
「分かりました」
ミオはベンの言葉どおり、橋台の横に木杭を立てた。ラウが槌で打ち込む。こつ、こつ、こつ。硬い土に入っていく音が、川の音に混じった。
リタが木札を書く。
白狐は沈み石をじっと見ていた。
「白狐さん」
「はい」
「入らないでくださいね」
「入水の予定はありません」
「言い方が少し大げさです」
「神獣ですので」
ミオは透明な板を川へ向けた。
沈み石の下には細い補助線がある。昨日は七基まで起こした。対岸へ届くには、少し間隔が広い。足の長いラウなら渡れるかもしれないが、神官さんやリタには危ない。
なら、石を増やす。
ミオは表示をなぞった。
流れの下に、眠っている石が二つある。苔と砂で反応が弱い。壊れてはいない。
「二つ、増やせます」
「増やす?」
「足を置く石です。七つだと少し遠いので、九つにします」
「石って増えるのか」
ラウが川を見た。
「もともと沈んでた石を起こします」
「なるほど。増えるように見えるだけか」
「はい。たぶん」
白狐がミオを見た。
「たぶん」
「もともとあります。たぶん」
「よろしいです」
ミオは沈み石の補助線へ触れた。
水の中で、小さな泡が上がる。
ぽこ。
ひとつ。
少し間を置いて、もうひとつ。
水の底で石が揺れ、白い砂がふわっと流れた。
ぽう。
八つ目の石が光る。
ぽう。
九つ目の石が光る。
川の中に、足を置く線が前より細かく並んだ。
「増えた」
「これなら歩幅が楽だな」
「リタでもいけそう」
「わたし、渡るんですか」
「木札係だからな」
「木札係、渡河ありなんですね」
リタは木札を抱え直した。
[FORD ASSIST UPDATE]
――――――――――
祈り橋跡:安定化
沈み石:七基 → 九基
渡河補助:低出力安定
縄支点:設置
通行条件:成人一名ずつ/縄使用
第三標識:到達可能
――――――――――
「到達可能、出ました」
「よし」
ラウが縄を手に取った。
「じゃあ、俺が行く」
「半分じゃなくて、対岸までです。ゆっくり」
「分かってる」
神官さんが短く祈る。
「水を渡る足元に、灯りを」
ラウは縄を腰に通し、長い棒を持って川へ入った。
一つ目の沈み石。
こつ。
二つ目。
こつ。
三つ目。
昨日より足の運びが安定している。石の間隔が狭くなった分、体を大きく振らなくていい。流れは浅いが、油断すれば滑る。ラウは棒で水底を確かめながら進んだ。
ミオは息を止めていた。
「息をしてください」
白狐が言った。
「してます」
「止まっていました」
「少しだけです」
ラウが七つ目を越えた。
八つ目。
九つ目。
対岸の土へ足を置く。
「渡れた!」
リタが声を上げた。
ラウは振り返り、少しだけ得意そうに手を上げた。
「渡れるぞ。急がなきゃ大丈夫だ」
「急がないでください」
「分かってるって」
ラウは対岸側の低い木に縄を仮で回した。ベンがこちら側から目を細める。
「その木、根が浅いかも。少し右の石の方がいいです」
「これか?」
「もう少し右です」
「これ?」
「はい。それなら大丈夫そうです」
ベンの声に従って、ラウが縄をかけ直す。
縄が川を横切った。
それだけで、渡り場らしくなった。
次は神官さんだった。
ゆっくり、一つずつ沈み石を踏む。杖ではなく縄を持つ。白い衣の裾が少し水に触れたが、神官さんは慌てなかった。
対岸へ着くと、第三標識の方へ短く頭を下げた。
その次に、ミオ。
川の前に立つと、思ったより音が近かった。
浅い流れなのに、水は足元を持っていこうとする。沈み石は光っている。縄もある。ラウも神官さんも向こうにいる。
それでも、一歩目は少し怖い。
「ミオ」
白狐が横に来た。
「はい」
「足元を見てください。遠くは、渡ってからでよいです」
「……はい」
ミオはうなずいた。
一つ目の石へ足を置く。
こつ。
水が靴の横を流れる。
二つ目。
三つ目。
思ったより冷たい。流れは浅いのに、足首の周りがぞわっとする。ミオは縄を握り直した。
四つ目で、少し滑った。
「ミオ様」
リタの声がした。
ミオは足を戻し、息を吐いた。
「大丈夫です」
白狐が後ろから静かに言う。
「急がずに」
「はい」
五つ目。
六つ目。
七つ目。
八つ目。
九つ目。
対岸の土を踏んだ瞬間、膝の力が少し抜けた。
渡れた。
川のこちら側から、リタがほっとした顔で見ていた。
「次、リタさんです」
「はい。木札、濡らさないようにします」
「自分も濡れないように」
「はい」
リタは木札を布に包み、慎重に渡った。途中で一度、木札の方を気にしすぎて足元を見落としかけ、ラウに「木札より足」と言われていた。
最後にベンが渡った。
石を見ながら渡るせいで、逆に遅い。
「ベンさん、足元ばかり見すぎです」
「石を見ると、次の石を見たくなります」
「分かるような、分からないような」
白狐は最後だった。
軽い足取りで沈み石を渡る。ほとんど音がしない。途中で八つ目の石の上に一瞬だけ立ち止まった。
「白狐さん?」
「水の流れを確認しました」
「ほんとですか」
「はい」
「供物じゃないですよね」
「川に供物はありません」
「それはそうです」
全員が対岸へ渡った。
ミオは振り返った。
川の向こうに、入口祈り場へ続く道がある。路肩小祠、休み石広場、第二標識、第一標識。見えないけれど、光のつながりは板に残っている。
そしてこちら側には、第三標識があった。
低い草に埋もれた、第一や第二より大きな標識。上部は斜めに傾き、根元は土に沈んでいる。けれど、正面のくぼみには光が残っていた。
待っていた、という感じがした。
「これが第三標識……」
ミオは透明な板をかざした。
[THIRD MARKER AREA]
――――――――――
第三標識:到達
周辺石畳:埋没
戻り線:祈り橋跡
前方線:森奥巡礼道
側方線:不明
起動条件:祈り/供物/標識面清掃
――――――――――
「戻り線、前方線、側方線」
「道が三つあるのか」
ラウが言った。
「はい。村へ戻る線と、森の奥へ続く線。それから、横へ伸びる線がひとつ」
「横?」
「まだ不明です」
リタが木札を出した。
「第三標識、って書いていいですか」
「はい。あと、祈り橋跡の向こう、も」
「長いです」
「じゃあ、第三標」
「短いです」
「むずかしいですね」
神官さんが第三標識の前に立った。
ベンが標識の傾きを見ている。
「倒れそうですか」
「すぐには倒れません。でも、根元が埋まってます。掃除するなら片側だけ先に掘らない方がいいです」
「なんでですか」
「傾きます」
「なるほど」
ミオはうなずき、標識の正面だけをそっと払った。全部掘り出すのではなく、標識面を出す。ベンが横から見て、問題ない場所を指で示す。
リタが小さな布で汚れを拭く。
ラウが草を払う。
神官さんが麦と塩を小さなくぼみに置く。
白狐が、それをじっと見る。
「白狐さん」
「確認です」
「はい」
神官さんが祈った。
「川を越えた先の標よ。長く草に埋もれていた道を、今日また迎える。戻る者にも、進む者にも、足元を示したまえ」
ミオは透明な板を掲げた。
第三標識の正面が、ぽうっと光る。
最初は弱く。
次に、少し強く。
標識の根元から、草の下へ細い光が走った。周囲の石畳が、土の中で輪郭だけを出す。対岸の小さな広場が、少しだけ姿を現した。
リタが息を呑む。
「広場だったんですね」
「はい。第三標識の前の、小さな広場です」
神官さんが静かにうなずいた。
「ここで、川を渡った者が一度整えたのだな」
「たぶん。濡れた足を拭いたり、荷を直したり」
「休む場所が続いている」
「はい。道として、ちゃんと作られてます」
第三標識の光が、祈り橋跡へ返る。
川の中の沈み石が一斉に、ぽうっと明るくなった。
水の上に、戻る道が見える。
[THIRD MARKER FIRST WAKE]
――――――――――
第三標識:仮起動
祈り橋跡:接続
対岸広場:部分復帰
沈み石:九基安定
前方線:森奥巡礼道
側方線:未識別
――――――――――
「つながりました」
ミオは小さく言った。
ラウが川を振り返る。
「帰りも渡りやすそうだな」
「はい。行きより楽だと思います」
「それは助かる」
リタは木札に書き足していた。
「第三標。川を渡ったら一度休む。縄を外さない。子どもだけで渡らない」
「また子ども」
「大事です」
「大事ですね」
ベンが第三標識の根元を見ながら言った。
「ここ、ちゃんと直せば、もっと広場になります」
「今日できますか」
「少しだけなら。でも全部は無理です」
「少しだけでいいです。戻る時に足場が分かれば」
ミオは透明な板をなぞり、対岸広場の外周だけを起こした。
こつ。
こつ、こつ。
草の下から、平たい石がいくつか顔を出す。人が立つ場所。荷物を置く場所。第三標識の前に、ほんの小さな広場が戻っていく。
白狐が標識の横に立った。
「ここは、門のような場所ですね」
「門?」
「川を越えて、村の外へ入る場所です」
「村の外……」
ミオは前方を見た。
森の奥へ、細い巡礼道が続いている。まだ草に隠れている。けれど、第三標識の起動で、足元の石列が少しだけ見えるようになった。
さらに、標識の正面とは別に、横へ伸びる線がある。
高台の方だ。
そこだけ、光の質が少し違う。やわらかい巡礼道の光ではなく、すうっと上へ抜けるような細い線。
「この横の線、気になります」
「今行くのか」
ラウが聞いた。
ミオは首を振った。
「今日は第三標識に着いて、渡り場を安定させるところまでです。でも、次に見る場所は出ました」
「高台か」
「はい。外縁標候補、と出ています」
板に文字が浮かぶ。
[ROUTE UPDATE]
――――――――――
祈り橋跡:安定
第三標識:仮起動
対岸広場:部分復帰
前方線:森奥巡礼道
側方線:外縁標候補
次目標:第三標識本起動/外縁標確認
――――――――――
「外縁標」
神官さんがゆっくり繰り返した。
「村の端の標、ということか」
「はい。たぶん、リュミナ村の巡礼道が外へ広がる場所です」
「なら、ここは大事になるな」
「かなり」
白狐が横の線をじっと見ていた。
その目は、いつもの供物を見る目ではなかった。
「白狐さん?」
「この先は、村だけの道ではありません」
「分かるんですか」
「少しだけ。古い匂いがします」
「匂い」
「はい。供物ではありません」
「先に言われた」
ミオは少し笑った。
でも、白狐の声は静かだった。
冗談だけではない。
第三標識の先に、村の外へ向かう何かがある。
今日はそこへ行かない。けれど、見つけた。川を越えた。第三標識へ届いた。戻る道も、進む道も、横へ伸びる道も見えた。
それで十分だった。
ミオは川の方を振り返る。
沈み石が九つ、流れの中で光っている。縄が張られ、木札が立ち、橋跡はもう「落ちた橋」だけではなくなっている。
渡れる場所になった。
「帰りましょう」
ミオが言うと、リタが木札を抱え直した。
「帰りも一人ずつですね」
「はい。一人ずつ」
「走らない」
「子どもだけで渡らない」
「供物を川に投げない」
「完璧です」
白狐が少し遅れて言った。
「供物は持ち帰りません」
「それも書きます?」
「書かなくていいです」
ラウが笑った。
帰りは、行きより少しだけ楽だった。
沈み石の光が安定している。縄もある。対岸から戻る道が、第三標識の光を受けて少し明るい。
ミオは最後にもう一度、第三標識を見た。
標識は草の中でぽうっと光っていた。
川を越えた先に、確かに道が続いている。
リュミナ村の巡礼道は、とうとう川の向こうへ足を置いた。
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