第167話 ルーナへ帰す一便
雨上がりの空き家から、ルーナ村の運び手が一人出てきた。
昨日、豆と布を運んできた三人のうち、いちばん若い男の人だった。乾いた藁袋を壁へ立て、借りた敷き布を畳み、戸口の水桶を外へ戻す。
「熱はありません。足も痛くないです」
そう言って、男の人はその場で二度、踵を上げた。
「歩けるのは分かりました。でも、荷車を押して帰れますか」
「空ですから」
倉庫横には、昨日の荷を下ろした小さな荷車がある。
ただし、本当に空のまま帰すわけではなかった。
油布の下には、ルーナへ返す洗った布が二束置かれている。豆袋を包んでいた厚い布と、雨除けに借りた細長い布。どちらも乾いていて、端のほつれはリュミナ村の縫い手が直していた。
その横には、伝言を包んだ小さな布包みが三つあった。
「これは村長さんへ。受け入れられる人数が分かったことと、次の豆便の相談です」
ミオは丸い炭印の包みを指した。
「こっちは豆をまとめる人へ。空袋の数と、次に欲しい豆の量。最後は布仕事の人へ。返した布の傷んでいた場所です」
「村長、豆小屋、布仕事」
「はい。行き先が違うので、荷車の中でも分けます」
運び手は荷台の前、真ん中、後ろを順に叩いた。
「村長は前。豆小屋は豆袋の布と一緒。布仕事は返す布の上」
「覚えられますか」
「いつも豆と布を積んでいます」
言われてみれば、その人の方が荷車の中をよく知っている。
ミオは少しだけ手を引っ込めた。
「では、お願いします」
「はい」
返却布は荷台の左右へ寄せ、風でめくれないよう麻ひもを渡した。村長への包みは前板の内側へ結ぶ。豆小屋への包みは畳んだ豆袋の布へ挟み、布仕事への包みは細長い返却布でくるりと巻いた。
空荷車は、帰る用事を三つ載せた荷車になった。
白狐さんが荷台の周りを一周した。
「車輪に泥が残っています」
「落とします」
「縄は乾いています。返却布も濡れていません」
運び手は井戸水を少しだけ借り、木べらで車輪の泥を落とした。軸へ油を一滴差すと、きい、と鳴っていた片輪が、ころりと軽く回る。
「白狐さん、帰り支度の確認が細かいですね」
「途中で戻ってくる方が大変ですから」
「戻ってきても、休めますよ」
「戻らず着けるようにする話です」
もっともだった。
湯場横の腰掛けでは、次に北へ帰る人が白湯を飲んでいる。空き家では、壁へ立てた藁袋の下を村のおばさんが掃いていた。
「一人出れば、一人ぶん空くよ」
おばさんは床を箒でさっさと払った。
「布も乾いたまま返ってくれば、今夜また一人寝かせられる」
受け入れた人を抱え続けるのではない。
休んで、食べて、帰れる人から帰す。そうすれば、腰掛けも寝床も、次に来た人へ渡せる。
運び手は豆と葉の汁を一杯食べ、水を飲んだ。残った汁を持たせるのではなく、道で飲む水を小さな蓋付き桶へ入れる。途中の休み石にも水甕があるが、そこへ着くまでの分だった。
「顔色は悪くありません」
白狐さんが男の人を見上げる。
「手も震えていません。昨日の雨で冷えた様子も残っていませんね」
「神獣様に見られると、少し震えます」
「それは体調とは別です」
男の人が笑ったので、ミオも少し笑った。
昼前、荷車はリュミナ村を出た。
押すのはルーナへ戻る運び手。ミオと白狐さん、それからリタが道の確認を兼ねて一緒に歩く。別の道を探すのではない。何度も使ったルーナ道を、そのまま帰る。
一つ目の休み石で、男の人は荷車を止めた。
車輪留めを噛ませ、水甕の蓋を開ける。甕の水はまだあり、油布の縄も張っていた。返却布の湿りを確かめ、伝言の三包みがそれぞれの場所にあるか指で触れる。
「村長、豆小屋、布仕事」
順番も変わっていない。
二つ目の石では、荷車の柄を腰掛け代わりにしなかった。低い平石へ座り、自分の水桶から二口飲む。ミオも隣へ腰を下ろすと、草から雨のあとの匂いがした。
「ここまでなら、まだ足は大丈夫です」
「休んだあとだから、ではなく?」
「休んだから、です」
男の人は素直に答えた。
リュミナ村で一晩休めたから、今日の帰りを無理に急がずに済む。帰る先にも水と豆があると分かっているから、道の途中で食べる分を抱え込まなくていい。
三つ目の休み石を越えると、見慣れた低い白が道の先に見えた。
ルーナ村の地上標識だった。
入口では、以前から標識を見ている女の人が待っていた。荷車が着くと、まず男の人の顔を見て、次に足元、それから荷台をのぞく。
「歩いてきたね」
「途中で二回休んだ。水は半分残ってる」
「足は?」
「痛くない」
女の人はそこで荷へ手を伸ばした。
「返す布が二つ。村長へ一つ、豆小屋へ一つ、布仕事へ一つ」
「濡れは?」
「なし。車輪の泥も途中で増えただけだ」
返却布を一枚ずつ持ち上げ、裏まで乾いていることを確かめる。三つの伝言包みは混ぜず、それぞれ受け取る人の方へ運ばれた。
最後に、女の人は標識の根元を見た。
「泥、少し。傾き、変わりなし。灯り、低いまま。荷車、横へ寄せられる」
初めて確かめるものは一つもなかった。
ルーナ村は前から、水と豆を置き、言葉を渡し、リュミナ村へ帰る方向を見ている。今日は、その役目で、受け入れられていた一人と返却布と伝言を受け取った。
村長が豆小屋から出てきた。
「人も荷も、うちへ戻った。なら、帰りもこちらで見よう」
「帰りも、ですか」
ミオが聞き返すと、村長は標識を軽く叩いた。
「リュミナで休ませてもらった人が、ここまで戻ったか。荷が足りないまま帰っていないか。言づけが途中で混ざっていないか。ここで見れば分かる」
女の人が水桶を満たし、豆を煮た小さな包みを荷台へ載せた。
「帰り道も見るよ。白い筋がリュミナへ向いてる。休み石の水もある」
「では、ルーナ村は受け取るところで終わりではありませんね」
「終わりじゃない。帰れる人を、また帰すところだ」
ミオは、低い標識と空いた荷車を見た。
補給。連絡。帰還方向。
今まで使っていた三つの役目が、人を受け入れたあとの帰路へつながった。
「正式に、お願いします」
ミオが頭を下げると、村長も深くはせず、仕事を受け取るように頷いた。
「ルーナ村で、帰りの人と荷を確かめる。水と豆を足す。戻る方を見て、送り出す」
「はい」
「それなら、もう今日やった」
たしかに、もう終わっていた。
帰りの荷車には、受領の返事が載った。
村長が受け取った印のある布。豆小屋からは、次の便に出せる豆袋の数。布仕事からは、返却布二枚を受け取り、繕い直しは不要だという短い返事。
水桶は満ち、煮豆の包みは運び手の昼の分だった。
「豆は返事ですか」
白狐さんが尋ねる。
「昼ごはんです」
「そうですか」
「少し残ったら、白狐さんにも」
「残す前提はよくありません」
そう言いながら、白狐さんは荷車の横へきちんと並んだ。
男の人はルーナ村で少し休み、今度はリュミナ村へ戻る便の柄を持った。来た時より水が増え、返却布は減り、受領の返事が三つ載っている。
標識の低い白を背に、荷車は同じ道へ戻った。
夕方、リュミナ村の入口へ車輪の音が届く。
運び手の顔色は変わらず、水桶にはまだ底を隠す水が残っていた。受領の返事も三つとも揃っている。
「ルーナで、人、荷、伝言を確認しました。水と豆を足して、帰る方を見てから戻りました」
男の人がそう伝えると、空き家を掃いたおばさんが戸口から顔を出した。
「じゃあ、あの寝床は次の人に使えるね」
湯場横でも、男の人が使っていた腰掛けへ、北道から来たおばあさんがゆっくり腰を下ろした。
帰したから、空いた。
空いたから、また迎えられる。
リュミナ村は人を休ませ、ルーナ村は帰りを受け取り、補って、送り返す。
一便ぶんの往復が、二つの村の間でちゃんと閉じていた。
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