第155話 土の下から帰る線
南寄り旧道の入口には、昨日と同じ白い布が立っていた。
倒れていない。
夜の雨もない。平石のずれもなく、入口の札には昨日入った四人と、戻った四人が残っている。
「今日は五人です」
リタが札の裏へ名前の代わりとなる印を書いた。リュミナ村から三人。ノルテ側から壺運びの男が一人。それにエルン。
「戻った時にも五人と記します」
エルンは帳面を閉じずに言った。
「白い布が倒れていれば、そこで中止。雨が降れば引き返す。道幅の外へ土を出さない。昨日の条件と同じです」
「はい。今日は、境界杭の先で線を見ます」
ミオは木べらと刷毛を持ち上げた。掘るための鍬は持ってきていない。リタの籠には土を受ける布と、小さな板が入っている。
白狐さんが籠を覗いた。
「供物はないのですね」
「今日は探す日です。何に使うか分からないうちに置きません」
「よい判断です」
褒められた。
たぶん、少し警戒もされている。
入口の白布を起こし、一人ずつ旧道へ入った。
平石を踏む。太い根を避ける。昨日つけた布印を確かめる。
旧境界杭までの道は、一日で戻ってはいなかった。束ねた草は道の脇に残り、雨溝へ戻した石も動いていない。
壺運びの男が杭の手前で足を止めた。
「ここから先は、まだ荷を入れてない」
「今日は荷も入れません」
リタが答えた。
「帰り道を残せるところまでです」
エルンが測り縄の端を境界杭へ結んだ。
「この杭から、声が届く範囲。既存の轍から外れない。土は布へ受け、終わったら道の内側へ戻します」
南へ続く轍は、すぐ草の下へ消えた。
けれど白い線は見えた。
明るいわけではない。根の隙間や湿った土の下に、白い糸が一本ずつ埋まっている。ミオは線の上へ直接木べらを入れず、左右の落ち葉だけを除いた。
白狐さんが前を歩く。
「こちらは土の匂いが違います」
「湿っていますか」
「いいえ。石が長く土を支えていた匂いです」
ミオには、土の匂いとしか分からなかった。
白狐さんが前足で示した場所は、轍の脇だった。細い根が網のように広がり、その下だけ土の色が少し薄い。
壺運びの男が木べらの柄で軽く叩いた。
こつ。
土の音ではない。
皆がしゃがんだ。
「石ですか」
リタが尋ねた。
「平たい面があります。線も、ここへ入っています」
ミオは透明板を開いた。表示範囲は足元だけ。埋まっている物の全体像を勝手に補わせず、見えている反応だけを拾う。
[SOUTH RETURN MARKER TRACE]
――――――――――
旧道接続:微弱
地上標識:埋没
表面読取:不可
根系干渉:あり
帰還方向:未表示
起動条件:未確認
――――――――――
「帰還標識です」
壺運びの男が息を吐いた。
「掘り出せるか」
「持ち上げません。読めるところだけ、土をどけます」
最初に、根を見た。
指ほど太い根が二本、硬い面の上を斜めに渡っている。さらに細い根が、その間へ土を抱え込んでいた。
「細い方なら切れる」
男が小刀へ手を伸ばす。
「切らないでください」
ミオとエルンの声が重なった。
男はすぐ手を離した。
「分かった。切らない」
「根が標識を押さえているかもしれません」
ミオは言った。
「それに、木を傷めたら補修の範囲を越えます」
「両方です」
エルンが帳面へ書き足した。
土受けの布を広げた。
リタが根の間へ細い板を差し、少しだけ持ち上げる。ミオが木べらで乾いた土をひとかけずつ掻き出す。壺運びの男は布の端を持ち、土が道の外へこぼれないよう受けた。
根は動かさない。
標識も起こさない。
土だけを、少しずつ減らす。
ざり。
灰色の面が指一本ぶん現れた。
ざり、ざり。
面の縁に浅い刻みが見えた。ルーナ村の低い標識にあったものより細く、枝分かれが多い。中央から北へ一本。東へ短く一本。西側は欠け、南側はまだ土の下にある。
「ここから先は、根の下です」
リタが言った。
「全部出さなくていいです」
ミオは刷毛へ持ち替えた。刻みの中だけを、根元から外へ向けて払う。
白狐さんが鼻先を近づけた。
「古い祠と似ています。ただ、祈りを受ける面ではありません」
「道を返すための面?」
「そう見えます。ですが、私の記憶だけでは断定できません」
「では、帰還標識らしい、までですね」
エルンの筆が動く。
刻みの中央には、丸い窪みがあった。
泥が固まっている。ミオは水を掛けず、布の角を細く丸めて押し当てた。湿りを吸わせ、柔らかくなった分だけ木べらの先で取る。
一度。
二度。
三度目に、窪みの底から白い面が出た。
ちり、と音がした。
「離れて」
全員が手を引いた。
標識の刻みへ白い光が走った。
根の下を避けるように細く分かれ、露出した面を一周する。そこから一本だけが旧道へ戻り、境界杭の脇を抜けた。
北へ。
リュミナ村の方へ。
土の下で、白い線が順に起きていく。
境界杭。
平石。
旧道の入口。
遠くて見えないはずの村まで、帰る方向だけが一本につながった。
光は長く続かなかった。
ふ、と標識の刻みが暗くなる。旧道の白線も、入口側から淡くなり、また土の下の細い糸へ戻った。
誰もすぐには動かなかった。
「今のは、ミオ様が起こしたのですか」
リタが小声で尋ねた。
「泥を取ったら、動きました」
「聖女様が帰る道を呼び戻した」
壺運びの男が言った。
「掃除です」
「掃除で村まで灯るのですか」
ミオは答えに詰まった。
「今回は、灯ったのは一度だけです」
白狐さんが静かに助けた。
「同じことができると分かるまでは、奇跡にも手順にも数えません」
「はい。白狐さんの言う通りです」
透明板には、点灯後の状態が残っていた。
[SOUTH RETURN MARKER OBSERVATION]
――――――――――
標識面:部分露出
表面刻線:読取可能
一時点灯:確認
帰還線:リュミナ村方向
再点灯条件:未確定
南系統接続:未成立
――――――――――
もう一度、窪みへ触れることはしなかった。
代わりに、戻るための印を残した。
旧境界杭から測り縄で距離を取り、轍の東側に標識があると帳面へ記す。露出させたのは根の間の手のひら二枚ぶんだけ。西側と南側は土の下。太い根二本には触れない。
再訪時は入口の札へ人数を書く。
雨と白布を確認する。
境界杭から同じ縄を伸ばす。
標識の周囲へ新しく鍬を入れず、今日開けた面だけを見る。
ミオが話し、リタが繰り返し、壺運びの男が実際に縄をたぐった。エルンは三人の手順が同じになるまで、帳面を閉じなかった。
最後に、掻き出した土を布ごと道の内側へ戻した。標識面へは掛けず、雨水が溜まらない低い場所へ薄くならす。
根の下には、読める刻みが残った。
目印として細い白布を一本だけ、道の内側の枝へ結ぶ。通行停止の布と間違えないよう、端を二つに裂いた。
「帰ります」
エルンが先に言った。
五人で境界杭を越え、平石を踏み、入口へ戻った。
札に、戻った五人の印をつける。
白い布を元へ戻す。
ミオが振り返っても、旧道はもう光っていなかった。
それでも場所は分かる。
どこまで土を除くかも、どの根へ触れないかも、次にどう戻るかも残っている。
そして土の下には、一度だけ村へ帰った白い線がある。
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