第154話 南へ続く道を残す
ノルテ道の白い布が倒れると、塩水の壺が一つずつ曲がりへ入った。
満ちた壺が先に通る。
平石へ下ろす。
向こう側を確かめ、布を起こす。それから空壺が戻ってくる。
決めた順番は、今日も壺を鳴らさなかった。
「ここまでは大丈夫ですね」
ミオは平石の泥を木べらで落とした。昨日の雨で縁に薄く土が乗っていたが、壺を置く面は傾いていない。
「ここから先だ」
壺運びの男が、曲がりの向こうを顎で示した。
ノルテへ向かう踏み固められた道は、少し先で東へ折れる。けれど、村の入口から続いてきた白い線は、そこで曲がらなかった。
土の下をまっすぐ南へ伸びている。
草が深い方へ。
「塩水の道は、あちらではないのですか」
白狐さんが尋ねた。
「今使う道は東だ。南は昔の道だよ」
男は空壺を二つ重ね、縄でまとめた。
「子どもの頃は薪取りが通った。雨で端が落ちて、荷を持って入る者はいなくなった」
「道は残ってる?」
「残っていると言えば残っている。消えたと言えば、半分は消えている」
「実務の言葉に似ています」
白狐さんが言った。
「分かりにくい方ですか」
「慎重な方です」
白い線は草の根の下で、かすかに光っていた。
ミオは透明板を開いた。見える範囲を足元だけに絞る。
[RETURN ROUTE TRACE]
――――――――――
追跡方向:ノルテ生活路
既存通行:成立
分岐先:南寄り旧道
地上標識:未確認
進入状態:記録不足
――――――――――
「南寄り旧道。道としては残っています」
「なら、草を刈れば通れるな」
空壺を持った村人が言った。
「待ってください」
声は後ろから来た。
エルンが、道の曲がりを歩いてくる。片手に帳面、もう片方には細い測り縄を持っていた。
「今日は道を見る日でしたね」
ミオが言った。
「塩水壺の数を確認したところ、皆がその先へ行ったと聞きました」
「確認が早い」
「壺は数えやすいです」
エルンは白い布の杭と平石を見た。帳面の前の頁と見比べ、平石の泥が除かれていることまで短く書く。
「この先を使いたいのですか」
「白い線が続いています。まず短いところだけ見て、戻れるようにしたいです」
「草を刈るだけなら補修です」
空壺の村人が、ほっとして鎌を持ち上げた。
「ただし、道幅を増やすために土手を削る、木を切る、新しい排水を掘る。そこまで行えば拡張です。許可が要ります」
鎌が下がった。
「許可がないと?」
ミオが聞いた。
「作業を止めます。境界を確かめるまで、現在のノルテ道も含めて荷車の通行を制限する場合があります」
壺運びの男の顔が固くなった。
「塩水まで止まるのか」
「勝手に広げた道から荷が入れば、どこを通った荷か確認できなくなります」
村へ着く塩水は、保存食にも葉物にも使う。ここが止まれば、道だけの話では済まない。
ミオは白い線を見た。
先へ進むために、今使える道まで止めるわけにはいかない。
「広げません」
「どこまでを補修にしますか」
「え」
「言葉だけでは、次の巡回で別の者が判断できません」
エルンは測り縄を地面へ置いた。
「現物で決めましょう」
まず、旧道の入口を探した。
草を分けると、今の道より浅い二本の轍が出てきた。片方は土へ埋まり、もう片方は細い根に持ち上げられている。道の両脇には、腰ほどの高さの石が一つずつあった。
新しい道を作るのではない。
昔の幅が、草の下に残っていた。
「この二つの石の間まで」
壺運びの男が言った。
「昔も、ここから入った」
エルンが縄を渡す。
「では、この幅を越えない。土手は削らない。幹のある木は切らない」
「根は?」
村人が聞いた。
「浮いていて足を取る細い根だけ。太いものは印をつけて避けます」
白狐さんが草の奥へ鼻先を向けた。
「水が流れた跡があります」
旧道の中央に、雨水が削った細い溝があった。深くはない。けれど、壺を担いだ足が入れば、身体ごと傾く。
「溝を埋めるのは?」
ミオが聞く。
「外から土を足さず、道に落ちた石を戻すなら補修として記録できます」
「平たい石ですね」
白狐さんが言った。
「白狐さん、最近それが好きですね」
「役に立っています」
壺運びの男が笑い、今の道の脇に転がっていた石を三枚選んだ。
作業する範囲は、入口から南へ、声が届くところまでにした。
前の人が草を束ねる。鎌は地面すれすれまで入れず、轍を隠す葉だけを落とす。次の人が細い根を切り、ミオとリタが雨溝へ平石を戻す。
白狐さんは二つ目の石を見て、首を振った。
「それは傾きます」
「まだ置いてないですよ」
「持ち方で分かります」
置いてみると、確かに傾いた。
壺運びの男が別の石へ替えた。今度は足を載せても動かない。
道の半ばで、土から短い杭が出てきた。
上半分は腐っている。けれど、側面には領主館の古い焼き印が残っていた。
「境界杭ですか」
「道幅の印です」
エルンは土を払った。
「抜かないでください。この線より外へ作業を出さない」
ミオは透明板を杭へ向けかけて、止めた。
白い線は杭の脇を通り、さらに南へ続いている。けれど、その先は根と土に隠れたままだ。
今日は道を残す日だ。
標識を探す日ではない。
「ここを折り返しにします」
入口から歩いて、荷を持っても声が届く距離だった。草は避けられ、雨溝には三枚の石が戻っている。太い根と崩れた路肩には、白い布を巻いた細杭を立てた。
エルンが帳面を開く。
「補修担当は」
「ノルテから一人。リュミナ村から一人」
壺運びの男が答えた。
「壺便の日に見る」
リタが続ける。
「入口の札に、入った人数と戻った人数を書きます。空壺の札の裏を使えます」
「通行を止める条件は?」
皆が道を見た。
雨溝。太い根。崩れた路肩。重い壺。
「雨が降っている間は入らない」
村人が言った。
「雨の翌朝は、平石が動いていないか確認してから」
リタが言う。
「白い布が倒れていたら、そこで止まる。勝手に先へ行かない」
壺運びの男が言った。
ミオも一つ加えた。
「道の外を削らない。足りなければ、広げずにエルンさんへ知らせる」
「よいです」
エルンの筆が動いた。
南寄り旧道。既存幅内の補修。入口から旧境界杭まで。担当二名。入出記録。降雨中停止。翌朝点検。布印で閉鎖。拡張なし。
「これで、領主館の記録上も補修です」
「次も入れますか」
「条件を守る限りは」
短い言葉だった。
それでも、壺運びの男は大きく息を吐いた。
最後に、実際の荷で往復した。
満ちた壺は使わない。水を半分入れた試し壺を、担ぎ棒の両端へ下げる。
白い布を起こす。
男が旧道へ入る。ミオとリタが後ろにつき、エルンは入口で人数を帳面へ書いた。
平石を踏む。
太い根を避ける。
境界杭の手前で止まり、壺を一度下ろす。そこで向きを変え、同じ道を戻る。
こつ、と壺の縄輪が鳴った。
割れてはいない。泥もついていない。
「もう一度なら行ける」
男が言った。
「今日は一度で十分です」
エルンが答えた。
「慎重な方の実務ですね」
ミオが言う。
「止めないための実務です」
入口の札には、入った四人と、戻った四人が記された。
白い布が元へ戻される。
土の下の線は、補修した旧道を抜け、境界杭の先へ細く続いていた。
その先に何が埋もれているかは、まだ分からない。
けれど南へ入る道は、勝手に広げた道ではなくなった。
補修する人がいる。
止める条件がある。
入った人数と、戻った人数が残る。
次も、同じ入口から入れる道になった。
「続きが読みたい」と思ったら下の評価とブックマーク登録をどうぞ。




