第153話 ルーナ村に戻る灯り
村の入口に残った白い線は、朝になっても消えていなかった。
昨日より明るくなったわけではない。土の下で細い糸が眠らずにいるような、淡い光だった。
「札を返す前に見ました。ずっと同じです」
朝番の倉庫番が、三枚の木札を横棒へ掛けながら言った。葉、壺、布と豆。荷を迎える順番も、昨日のまま使える。
ミオは線の脇へしゃがんだ。白い筋は広場の端から入口を抜け、三本の道が分かれるところで、ルーナ道の方へ曲がっている。
「今日は、あちらですね」
白狐さんが言った。
「はい。見るだけ、では終わらないかもしれません」
「では、最初からそう言ってください」
「線を追って、埋まっているものがあれば掘ります。でも、大きなものは動かしません」
「その言い方なら信用できます」
少しだけ信用が減っている気がした。
ルーナ村へ戻る便は、布束を下ろしたあとの空荷車だった。帰りには豆袋と水桶を積む。リュミナ村からはリタと倉庫番、ルーナ村からは昨日も道を使った女の人が二人ついた。
白い線は、道の真ん中を走ってはいなかった。荷車の左の轍に沿い、草の根や小石の下へ隠れながら続いている。
最初の休み石へ着くと、皆が迷わず動いた。
荷車の柄を石へ載せる。車輪の後ろへ止め石を噛ませる。ルーナ村の女の人が、石の脇に溜まった朝露と泥を木べらで落とした。
「昨日の雨なら、ここから見るんだったね」
「石の下へ水が溜まっていないか。布印がなければ、そのまま使えます」
ミオが答える前に、二人で点検を終えていた。
休み石は、もうミオが使わせる設備ではない。道を使う人が、自分で確かめて使う場所になっていた。
白い線は、その石の下を通っていた。
ミオが透明板を出す。現物の線を見失わないよう、表示は道の近くだけに絞った。
[RETURN ROUTE TRACE]
――――――――――
起点:リュミナ村入口
追跡方向:ルーナ生活路
休止点:使用中
地上標識候補:一
浮上連結:対象外
――――――――――
「地上標識候補」
「この先ですか」
リタが尋ねた。
「たぶん。浮かせるための場所ではないみたいです」
ルーナ村の女の人が、ほっとしたように荷車の柄を持ち直した。
「村が浮くのは困るよ。井戸の水がまた跳ねたら、今度こそ畑が池になる」
「浮かせません。今回は本当に、道の印だけです」
「今回は、ですか」
白狐さんが静かに言った。
「道の印です」
休み石を三つ使い、荷車はルーナ村まで進んだ。
見慣れた井戸の石組みが見える。畑へ流れる水は細く安定し、溝の脇には泥を上げるための籠が伏せてあった。以前、水が一気に来た時に掘った逃がし溝も、今は浅い流れとして畑の端へ続いている。
村の入口には、豆袋が四つと、蓋をした水桶が二つ並んでいた。
「荷はできてるよ」
ルーナ村の村長が帽子を上げた。
「ただ、昨日の夕方、あの石がまた邪魔になってな」
村長が指した先は、荷置き場の端だった。
道と井戸の間に、平たい石の角が出ている。荷車を回す時には避けて通るため、轍が石の両側へ分かれていた。片側は畑の溝へ近く、もう片側は家の壁へ寄りすぎている。
「昔からあるよ」
女の人が言った。
「子どもの頃から半分埋まってた。邪魔だから土をかぶせても、雨のたび顔を出すんだ」
白い線は、その石の下へ入っていた。
ミオは土を指で払った。石の縁には、荷を置く台とは違う細い刻みがある。道の方へ向いた面と、リュミナ村の方へ向いた面に、浅い溝が一本ずつ伸びていた。
「掘ってもいいですか」
「畑の水へ土を落とさないなら」
村長が答えた。
「それと、荷車が通れなくなる高さにはするな」
「はい。起こして、低くします」
作業は荷便の人たちが決めた。
先に豆袋と水桶を道の反対側へ移す。畑の溝へ板を渡し、その上へ土受けの布を敷く。石の周りを一度に掘らず、四方を少しずつ緩める。
ミオとリタが木べらで土を掻き、ルーナ村の二人が石の下へ細い板を差し込んだ。倉庫番は荷車の止め縄を使い、石が畑側へ倒れないよう引く。
ごり。
石が少し動いた。
「待って。下に隙間ができた」
女の人が平石を一枚差し込む。
「もう一度」
ごり、ことん。
埋まっていた石が起きた。背の低い道標ほどの高さで止まり、広い面を道へ向ける。下から現れた溝は、白い線とぴたり重なっていた。
誰も手を離さない。
村長が左右から石を見て、荷車を一度回した。車輪は畑の溝へ寄らず、家の壁にも当たらない。
「これなら邪魔じゃない」
「根元を固めよう」
掘り出した土へ小石を混ぜ、皆で踏む。水を少し掛け、また踏む。最後に薄い平石を二枚差し込み、傾きが戻らないよう支えた。
ミオが刻みへ詰まった泥を布で拭った。
ちり、と白い光がともった。
強い灯りではなかった。
石の道側に、指二本ぶんの白い筋が浮かぶ。もう一方の面には、リュミナ村へ帰る方角を指す短い線が出た。昼の光の中では、近づかなければ見落とすほど淡い。
「これだけですか」
リタが言った。
「これくらいがいいよ」
ルーナ村の女の人が答えた。
「夜道で目がくらまない。荷車を寄せれば見える」
透明板には、短い表示だけが出ていた。
[LUNA GROUND MARKER]
――――――――――
区分:地上基準点候補
補給:生活物資
連絡:荷便伝達
帰還方向:リュミナ村
浮上対象:対象外
灯り:低出力
――――――――――
「村を浮かせる石ではありません」
ミオは、先にそこを読んだ。
「それが一番大事だな」
村長がうなずいた。
「ここへ豆や水を置けば補給点になります。荷便の人が伝言を持てば、二つの村の連絡点にもなります。それから、この線がリュミナ村へ帰る方向です」
神官はいなかったが、村長は石へ一度だけ頭を下げた。
「帰る方を忘れんための石か」
「道の目印です」
「帰る方を示す目印だな」
「はい。それで合っています」
役割は、その場で決まった。
朝の便は、石の横へ豆袋と水桶を置く。戻る便は、リュミナ村から来た札や伝言を受け取る。灯りが消えていたら石を動かさず、泥と傾きだけを確認する。直せなければ白い布を巻き、次の便へ知らせる。
浮上の祈りはしない。
石を高くもしない。
荷車が寄れて、帰る方向が見えればいい。
確かめるため、実際の荷を積んだ。
豆袋を三つ。水桶を一つ。残りは次の便へ回す。荷車の柄を持ち上げると、起こした石の白い筋が轍の向きを示した。
「私たちは先に戻ります」
リタが言った。
「途中の休み石で待ちます」
ルーナ村の女の人が荷車を押し、倉庫番が後ろについた。ミオと白狐さんは少し遅れて歩く。
日が傾き始めると、道の草影が長くなった。分かれ目では土の色が似て、昼より轍が見にくい。
けれど振り返れば、ルーナ村の入口に低い白い灯りが残っていた。
先へ進めば、休み石の下を通る白い筋が、次の石まで途切れず続いている。
一つ目の休み石で荷を下ろす。水桶の縄を締め直し、豆袋を左右へ積み分ける。点検も、昨日決めた手順のままだった。
「ルーナ、出ました!」
倉庫番が、道の途中に立つリタへ声を送った。
「リュミナ、受け取ります!」
返事が次の休み石へ渡る。
荷車は迷わず、三つの石を通った。
リュミナ村の入口では、豆の木札が表へ返されていた。荷車が入ると、待っていた村人が袋を倉庫前へ運び、水桶を井戸側へ置く。
空になった荷車には、ルーナ村へ返す布と、小さな伝言札を積んだ。
今度は別の二人が柄を持つ。
「暗くなる前に、石まで行ける」
「石が見えれば、そこから帰る方も分かる」
帰りの荷車がルーナ道へ入った。
村入口の白い線から、休み石へ。
休み石から、ルーナ村の低い灯りへ。
補給の荷と伝言が、一日のうちに往復した。
ミオは遠ざかる荷車を見送った。
ルーナ村は、空へ上がる村ではない。
水と豆を置ける。人の言葉を渡せる。そして、リュミナ村へ戻る方向を示せる。
二つの村の間に、帰るための地上の印が一つ増えていた。
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