第148話 南側線と空帰還鍵
南へ伸びた白い線は、細かった。
広場の白い円から、すうっと一本だけ出ている。東西の係留石へ向かった線よりも弱い。井戸や畑へ伸びた線よりも薄い。土の上に、白い糸を置いたみたいな線だった。
ミオは、その線を見下ろしたまま、広場の端で止まった。
「白狐さん」
「はい」
「見るだけです」
「はい」
「絶対に触りません」
「はい」
「布も出しません」
「それがよいと思います」
「木べらも」
「出さないでください」
「出しません」
リタが少しほっとした顔をした。
村人たちは広場の周りで、少し距離を置いて見ている。さっきの笑いは残っているが、白い線が南へ伸びると、さすがにみんな静かになった。村が一瞬軽くなった後だ。もう、ただの線には見えない。
子どもの見守り係も、桶のそばからこちらを見ている。
「ミオ様、見守りますか」
「今日は見守るだけでお願いします」
「うん」
「水が浮いたら」
「見る」
「こぼれそうなら」
「呼ぶ」
「ありがとうございます」
見守り係は、うなずいて桶へ戻った。
仕事が早い。
ミオは透明の板を見た。
板の中には、さっきの表示が薄く残っている。中央受け場、仮復帰。村底部、軽減反応確認。不足、南側線。空帰還鍵、未検出。
南側線の文字だけが、少し濃い。
[SOUTH LINE CHECK]
――――――――――
中央受け場:仮復帰
村底部:軽減反応確認
南側線:未確認
空帰還鍵:未検出
作業:観察のみ
注意:接触不可
――――――――――
「観察のみ」
「ミオ様」
「はい」
「石板にも、見るだけと出ていますか」
「出ています」
「よかったです」
「本当に」
白狐が、南へ伸びた線を見た。
「薄いですね」
「はい」
「東西の係留とは違います」
「違いますね」
「井戸や畑のような生活の線にも見えません」
「じゃあ、何ですか」
「分かりません」
「ですよね」
白い線は、広場から南へ伸びて、村の外れへ向かっていた。
南には、小さな土手がある。雨の時に水が流れる浅い溝もある。さらに先には、草の多い空き地と、古い石が一つ。東西の境界石ほど目立たない。腰掛けにもならない。子どもが登るにも低すぎる。ただ、草の間に半分埋まっている石だ。
そこへ、線が向かっている。
「白狐さん」
「はい」
「あの石、何でしたっけ」
「ただの石、に見えていました」
「またですか」
「はい」
「ただの石、多いですね」
「村ですから」
「村、石が多い」
リタが小さく言った。
「南側には、あまり行きませんね」
「そうですね」
「畑も井戸もありません」
「水の溝くらいですか」
「はい。雨の時だけ流れる溝です」
ミオはうなずいた。
生活の中心ではない。
でも、村の外れではある。
白い線は、ふらふらしながら、その南の石へ向かっている。途中で何度か薄くなり、また濃くなる。まるで、道を思い出しながら進んでいるみたいだった。
「ミオ様」
「はい」
「線が、迷っています」
「そう見えますね」
「線も迷うのですね」
「線に気持ちはないと思います」
「でも、迷っています」
「はい」
否定しにくかった。
透明の板の表示が少し変わる。
[SOUTH LINE]
――――――――――
南側線:弱反応
接続先:南端石
状態:休眠
接触:不可
確認:距離観察
――――――――――
「南端石」
「ミオ様?」
「あの石、南端石って出ました」
「南の端の石」
「はい」
「そのままですね」
「そのままです」
村人の一人が、遠くの石を見て首をかしげた。
「あれ、昔からあったな」
「何かに使っていましたか」
「いや。草を刈る時に邪魔なくらいだ」
「邪魔な石」
「そうだな」
「南端石、邪魔な石」
「ミオ様」
「はい」
「石板の御言葉を言い換えない方がよいと思います」
「すみません」
白狐が、少しだけ笑った。
白い線は、南端石の手前で止まっていた。
届かない。
触れもしない。
ただ、細い線の先が、ちょん、と震えている。祠の灯りが広場へ届かなかった時に似ていた。ただし、今回は灯りではなく線だ。
「触りません」
ミオは先に言った。
「はい」
白狐が言った。
「触りません」
リタも言った。
村人たちまで、何人かがうなずいた。
ミオは少しだけ不本意だった。
「そんなに信用ないですか」
「今日だけで、かなり」
リタが正直に言った。
「はい」
ミオは透明の板を見直した。
表示は観察のみ。接触不可。距離観察。
これ以上ないくらい、触るなと言っている。
だが、南端石の上に、小さな白い模様が浮かんだ。
円ではない。
線でもない。
鍵穴みたいな形だった。
村人たちが、ざわっとした。
「出ましたね」
「出ました」
「白狐さん」
「はい」
「鍵穴に見えませんか」
「見えます」
「見えますよね」
「はい」
リタが息をのむ。
「空帰還鍵」
「まだ鍵穴です」
「鍵ではなく」
「穴です」
「でも、鍵穴があるなら」
「先を言わないでください」
「すみません」
透明の板の文字が変わった。
[SKY RETURN KEY]
――――――――――
空帰還鍵:未検出
鍵穴反応:南端石
南側線:未接続
中央受け場:待機
条件:未達
接触:不可
――――――――――
ミオは黙った。
リタも黙った。
白狐も、しばらく黙った。
村人たちも、その言葉を待っているようだった。ミオが読み上げなければ、村人には文字は見えない。聖なる石板の白い模様にしか見えない。けれど、ミオの顔を見れば、何か出たことは分かる。
「ミオ様」
「はい」
「何と」
「空帰還鍵は、未検出」
「未検出」
「鍵穴反応、南端石」
「鍵穴」
「南側線、未接続。中央受け場、待機。条件、未達。接触、不可」
「触ってはいけない」
「はい」
リタは村人たちへ向いた。
「触ってはいけません」
その声は、今までで一番はっきりしていた。
村人たちが、一歩下がる。
南端石の周りの草が、ふわ、と揺れた。
風はない。
だが、草の上だけが、円を描くように揺れた。鍵穴の白い模様は、すぐに薄くなる。消えたわけではない。石の中へ沈んだように見えた。
「鍵はない」
白狐が言った。
「はい」
「鍵穴だけがある」
「はい」
「条件も足りない」
「はい」
「なら、今日はここまでです」
「はい」
ミオは大きくうなずいた。
今日は、本当にここまでだ。
村が一瞬軽くなった直後に、鍵穴へ触る理由はない。いや、理由があっても触りたくない。
透明の板の表示が、最後にもう一度変わった。
[D BLOCK SUMMARY]
――――――――――
北戻り灯:仮接続
倉庫荷重:仮復帰
井戸水重心:仮復帰
畑風受け:仮復帰
東西係留:仮反応
中央受け場:仮復帰
古い祠:接続
村底部:軽減反応確認
不足:南側線・空帰還鍵
浮上:未実行
――――――――――
「……まとめが出ました」
「ミオ様、何と」
「全部、仮です」
「全部」
「ほとんど全部です。倉庫、井戸、畑、東西、中央。村底部は軽くなる反応だけ確認。南側線と空帰還鍵が不足。浮上は未実行」
「まだ浮かない」
「はい」
「でも」
「はい」
「浮くものではある」
「……そうなりますね」
ミオは、広場の白い円を振り返った。
円は薄く残っている。
井戸は静かだ。
畑は少し風を通している。
地下倉庫は荷を支えている。
東西の石は、見えない鎖をうっすら抱えている。
祠は、欠け石を戻したまま、静かに立っている。
南端石には、鍵穴の反応だけがある。
村は、まだ浮いていない。
だが、浮かない村ではなかった。
「ミオ様」
「はい」
「村人たちに、どう言いますか」
「まだ浮きません」
「はい」
「でも、直していくと軽くなります」
「はい」
「南側と鍵は、今日は触りません」
「はい」
「次は、条件を確認します」
「分かりやすいです」
リタは村人たちへ向き直った。
ミオが言ったことを、丁寧に伝える。
まだ浮かない。
でも、村は軽くなる仕組みを持っている。
南側と鍵には触らない。
次は条件を確認する。
村人たちは、ざわざわしながら聞いていた。
「まだ浮かんのか」
「今日は浮かん」
「今日は?」
「次も浮かんでほしくはない」
「でも、井戸は良くなった」
「豆も折れんかった」
「倉庫も助かった」
「南の石は触るな」
最後だけ、妙に早く広まった。
南の石は触るな。
子どもたちにも、すぐ伝わった。
見守り係の子どもが、南端石を見て言った。
「あれも見守る?」
「遠くからお願いします」
「近くは?」
「だめです」
「分かった」
仕事が増えた。
ミオは少し笑った。
白狐は広場と南端石を交互に見ていた。
「ミオ」
「はい」
「これで、村の形が少し見えましたね」
「はい」
「北から戻り、倉庫、井戸、畑、東西、中央、祠、南」
「全部、村の中でした」
「はい」
「外へ行ったつもりが、村の下を起こしていました」
「そうですね」
ミオは透明の板を閉じた。
今度は、ちゃんと閉じた。
それでも、白い線は見える。
広場の円も、南へ伸びた細い線も、薄く残っている。
板を閉じても、村は閉じない。
「白狐さん」
「はい」
「次は、条件ですね」
「はい」
「空帰還鍵」
「はい」
「名前が大きすぎます」
「大きいですね」
「村なのに」
「村なのに、です」
リタが、少しだけ笑った。
「ミオ様」
「はい」
「今日は、本当に触りませんね」
「触りません」
「よかったです」
「信用が少し戻りました?」
「少し」
「少しですか」
「はい」
空は、まだ普通に青かった。
村も、まだ地面の上にあった。
ただ、広場の白い円だけが、薄く、丸く残っている。
南端石の草が、最後に一度だけ、さわ、と揺れた。
ミオは見た。
見ただけだった。
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