第142話 東だけでは危ない
西へ向かおうとしたところで、桶の水が、ちゃぷんと鳴った。
リタが置いた桶だ。子どもが真剣な顔で見守っている。その水が、また東へ寄った。こぼれはしない。だが、桶の片側にだけ水が集まり、ぷくっと盛り上がっている。
東側の境界石から伸びた透明な鎖は、まだ薄く見えていた。
石の根元から、斜め上へ少しだけ浮いて、土の中へ消える。風に揺れるわけでもないのに、ふるふる震えている。豆葉は東へ倒れたまま、ぱたぱた小さく鳴っていた。
「ミオ様」
「はい」
「水が、また東へ行きました」
「行かせないでください」
「どうやって」
「……見守ってください」
「見守りはしています」
子どもが、すごく真面目に言った。
ミオは少しだけ困った。見守りは、確かにしている。だが、水は東へ寄っている。見守りでは足りない。
透明の板には、東側係留の表示が濃く残っていた。
[BALANCE WARNING]
――――――――――
東側係留:仮反応
西側係留:未確認
村底部:東へ偏り
井戸水面:東寄り
倉庫荷重:東寄り
畑風受け:東寄り
――――――――――
「白狐さん」
「はい」
「やっぱり、東だけだと危ないみたいです」
「そのようですね」
「西へ行く前に、東を止める方法は」
「ありますか」
「聞き返さないでください」
「すみません」
東側の石が、こつんと鳴った。
すると、桶の水がもう少しだけ東へ盛り上がった。子どもが、両手で桶を押さえる。
「水、こぼれそう」
「こぼさないでください」
「水が勝手に」
「分かっています」
畑では、東側の豆葉だけが少し寝たままだった。茎は折れていない。葉も傷んでいない。だが、東へ引っ張られているように見える。畑の外縁石に走った白い線も、東側だけ濃い。
倉庫の方では、かたん、かたん、と小さな音がしていた。
荷が東へ寄っている。
見なくても分かった。
「ミオさん、倉庫の棚が少し鳴ってる」
「東側ですか」
「東側だ」
「ですよね」
村人たちがざわっとした。
ミオが透明の板を見下ろす。村人たちには、聖なる石板を見て、村の傾きを読んでいるように見えているはずだった。実際には、表示を読んでいるだけだ。けれど、表示の内容が内容なので、今回はあまり違わない気もした。
「聖女様、村が傾いておるのですか」
「傾いてはいません」
「では」
「寄っています」
「寄っている」
「東へ」
「それは、傾いているのでは」
「言い方の問題です」
白狐が、静かに東側の石を見た。
「ミオ。東の線を、強くしすぎない方がよいかもしれません」
「強くしたつもりはないです」
「はい。ですが、砂を払ったことで、東だけが反応しています」
「つまり、東だけ起こしてしまった」
「そうなります」
ミオは東側の石の根元を見た。
白い輪がある。
透明な鎖がある。
豆葉も水も荷も、そちらへ寄っている。
やったことは、白い砂を払っただけだ。
それなのに、村の中身が一斉に東へ寄っている。
「リタさん」
「はい」
「こういう時、聖女様ならどうしますか」
「祈ります」
「私は」
「ミオ様は、石板を見ます」
「ですよね」
ミオは透明の板を持ち直した。
板の中で、東側係留の表示が少し揺れている。下に、新しい行が浮いた。
[TEMPORARY HOLD]
――――――――――
東側係留:反応過多
単独固定:不可
推奨:西側係留確認
応急:東側出力低下
方法:根元輪の白線を一部遮る
――――――――――
「応急、出ました」
「ミオ様、何をすれば」
「根元の白線を、一部遮るそうです」
「遮る」
「はい」
「どうやって」
「……布で?」
白狐が少しだけ首を傾げた。
「やってみる価値はあります」
「白狐さん、ちょっと雑じゃないですか」
「正しい方法が見えない時は、小さく試すしかありません」
「なるほど」
「大きく試すと、村が大きく動きます」
「それは嫌です」
ミオは東側の石へ戻った。
村人たちは、さっと道を空けた。聖女様が石を鎮めに戻る。そんな空気だ。ミオとしては、布を置きに行くだけだが、もう否定する気力が少し減っていた。
東側の根元輪は、白く光っている。
ミオは布の端を折り、白線の一部にそっとかぶせた。
ぱた。
小さな音がした。
豆葉が少し戻った。
桶の水が、ぷくっとした東寄りを少しだけゆるめる。
倉庫の音も、かたん、から、こと、に変わった。
「……効きました」
「効きましたね」
「布で」
「はい」
「布で係留石を弱めました」
「そうなります」
「白狐さん」
「はい」
「言い方を変えたいです」
「布を置きました」
「それでお願いします」
透明の板の表示が薄く変わる。
[TEMPORARY HOLD]
――――――――――
東側係留:出力低下
井戸水面:やや安定
倉庫荷重:やや安定
畑風受け:やや安定
西側係留:未確認
維持:短時間
――――――――――
「短時間」
「ミオ様?」
「長くはもたないそうです」
「では、西へ」
「はい。西へ」
村人の子どもが桶を見た。
「水、ちょっと戻った」
「ありがとうございます」
「まだ見てる?」
「お願いします」
「うん」
子どもは胸を張った。
リタが、真剣な顔でその子にうなずいた。見守り係が正式な仕事になってしまった。ミオは少しだけ笑いそうになったが、今は笑えなかった。
東側の透明な鎖は、まだ見えている。
ただ、さっきより震えが小さい。布をかぶせた白線のあたりだけ、光が少し鈍っている。応急処置としては、効いているらしい。
村人たちは、それを見てまたざわついた。
「聖女様が布で石を鎮めた」
「違います」
「では、聖なる布ですか」
「普通の布です」
「光っております」
「白い砂がついているだけです」
「白い砂の布……」
「増やさないでください」
リタが小さく言った。
「ミオ様」
「はい」
「その布、村人にはたぶん、もう聖布です」
「嫌な昇格をしました」
「はい」
白狐が、西側を見た。
「行きましょう。東は短く持ちます」
「短く」
「はい」
「急ぎます」
「走らないでください」
「走ると何か踏みそうです」
「はい」
ミオは透明の板を見た。
西側係留の文字が、前より濃くなっている。東側から伸びた細い線が、畑を横切り、井戸の近くを通り、村の反対側へ向かっていた。
畑の豆葉は、東から西へ向かう線の上だけ、ぱた、ぱた、と左右に分かれている。
まるで、道を作っている。
いや、作っているように見える。
その言い換えが、もう追いつかなくなっていた。
「ミオ様、西側です」
「はい」
「石板も、そちらを示しているのですね」
「はい」
「聖女様が、西の石を鎮めに」
「確認しに、です」
「確認しに」
「はい」
「鎮めるかもしれません」
「リタさん」
「すみません」
村の反対側へ歩き出す。
後ろで、東側の石が、こつんと小さく鳴った。
桶の水が、ちゃぷんと揺れる。
子どもが「あ、まだ大丈夫」と報告した。
ミオは振り返らずに、手だけ上げた。
畑の白い線は、西へ向かって、すうっと伸びている。
その先で、まだ鳴っていなかった境界石の根元が、白く光り始めた。
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