第141話 東の係留石
東側の境界石は、畑の向こうにあった。
いつもなら、ただの石だ。村の端を示す石。畑帰りの人が腰を下ろす石。子どもが登って怒られる石。草が伸びると半分隠れて、誰かが思い出したように草を刈る。それくらいの石だった。
だが今は、こつん、こつん、と鳴っている。
石の根元から、白い線が一本、畑へ向かって伸びていた。畑から来ているようにも見える。どちらとも言えない。線は土の上を細く走り、東側の石の前で、くるりと小さな輪を作っている。
ミオは透明の板を持ったまま、少し離れて立ち止まった。
「白狐さん」
「はい」
「あの石、前から鳴りました?」
「鳴っていません」
「ですよね」
「はい」
「ただの境界石でしたよね」
「少なくとも、そう見えていました」
「見えていただけ、ですか」
「最近、それが多いですね」
それはそうだった。
地下倉庫も、井戸も、畑も、見えていたものの下に別のものがあった。なら、境界石もただの境界石ではないのだろう。考えたくないが、白い線がそこへ伸びている。
リタはミオの横で、さっきから桶を持ったままだ。置けばいいのに、井戸から持ってきた澄んだ水が心配なのか、抱えている。
「リタさん、桶、重くないですか」
「重いです」
「置いてもいいですよ」
「いえ。水が東へ寄ったので、少し心配で」
「桶の中の水が?」
「はい。石の方へ、ちゃぷんと」
「水も見ていますね」
「見ていますね」
リタは桶の水を見下ろした。
水面は、東側の石へ向かって少し傾いている。桶そのものは水平だ。だが、水の表面だけが、石の方へ寄っているように見える。リタは真顔で桶を抱え直した。
「ミオ様」
「はい」
「水が、石を見ています」
「言い方は可愛いですが、かなり嫌ですね」
村人たちも、東側の石を遠巻きに見ていた。
聖女様が次に石を見る。
そんな空気になっている。ミオが透明の板を持ち直すと、何人かがさっと道を空けた。板の中には白い文字が浮いているだけだが、村人たちには聖なる石板に見える。ミオがそれを向けるだけで、もう術の準備に見えるらしい。
「聖女様が、東の石をお調べになるぞ」
「調べるだけです」
「石の声を聞かれるのですね」
「聞こえているのは音です」
「石の音を聞かれる」
「そう言われると、あまり否定できないです」
白狐が、少しだけ肩を揺らした。
「白狐さん」
「はい」
「笑いました?」
「少しだけ」
「助けてください」
「今のは難しいです」
ミオは透明の板を石へ向けた。
板の中の表示が、東側へ寄る。白い線が一本伸び、境界石の形が簡単な図として浮いた。
[EAST ANCHOR STONE]
――――――――――
東側係留石:反応
畑外縁:接続あり
水重心:偏りあり
倉庫荷重:追従
確認:根元の白砂
――――――――――
「東側係留石」
「ミオ様?」
「やっぱり、係留石って出ています」
「係留とは」
「つなぎ留める、みたいな意味です」
「村を、ですか」
「そこまでは言っていません」
「でも、たぶん、そうなのですね」
「リタさん」
「はい」
「先に言わないでください」
リタは口を押さえた。
村人たちは聞いていた。聞いていて、東の石を見る目が変わった。畑帰りの腰掛け石ではなく、村をつなぎ留める石。そう言われると、たしかに少し重そうに見える。いや、前から重かった。石だからだ。
ミオは石の根元へ近づいた。
豆葉が、ぱた、ぱた、と東へ倒れる。桶の水が、ちゃぷん、とまた石の方へ寄る。倉庫の方からは、すう、と細い風が来た。井戸からも、こぽん、と小さく鳴る。
全部が、東の石を見ている。
そう思いそうになって、ミオはやめた。
また意味づけになりそうだった。
石の根元には、白い砂がたまっていた。草の間、土の割れ目、石の裏側。そこだけ、うっすら白い。ミオはしゃがみ、布を出した。
「また払います」
「はい」
「白狐さん」
「はい」
「止めます?」
「止めても、石は鳴っています」
「ですよね」
ミオは白い砂をそっと払った。
ぱふ。
さらさら。
石の根元に、細い溝が出た。
溝は石を一周していた。畑の外縁石や井戸の縁石と同じような、細い線。ただ、こちらは深い。石の下へ潜り、土の中へ伸びている。ミオがさらに砂を払うと、土の下から白い輪が浮いた。
輪は石の根元を囲み、ゆっくり光った。
村人たちが息をのむ。
「聖女様が、石の鎖をお出しになった」
「出してません。砂を払いました」
「払うと出るのですね」
「そうなんですけど」
「やはり魔法では」
「違います」
透明の板の表示が変わる。
[ANCHOR ROOT]
――――――――――
根元輪:露出
白砂:除去中
畑外縁:接続
井戸水重心:東寄り
倉庫荷重:東寄り
係留:未固定
――――――――――
「未固定」
「ミオ様?」
「まだ固定されていないそうです」
「石なのに」
「石なのに」
東側の境界石が、こつん、と鳴った。
次に、土の下から、ぎゅ、と低い音がした。木の根を引っぱったような音だ。だが、根ではない。白い輪の内側から、透明な線が一本、上へ出た。
細い。
けれど、長い。
空へ伸びるのではない。石の根元から、斜め上へ少しだけ浮いて、また地面へ消える。まるで見えない鎖の輪郭みたいだった。
ミオは黙った。
リタも黙った。
村人たちも黙った。
白狐だけが、静かに言った。
「鎖ですね」
「言わないでください」
「はい」
「見えていますけど、言わないでください」
「見えていますね」
「はい」
透明な鎖の輪郭は、すぐには消えなかった。光ではない。水でもない。空気の中に、そこだけ線がある。東側の石から伸び、地面の奥へつながっている。ミオが少し手を伸ばすと、指先の前で、ふる、と揺れた。
「触らない方がいいですよね」
「はい」
「触ると何か起きますよね」
「起きると思います」
「ですよね」
透明の板の文字が濃くなった。
[EAST ANCHOR LINE]
――――――――――
係留線:一部可視
接続先:未確認
東側固定:弱
水重心:東へ偏り
荷重:東へ偏り
注意:単独固定不可
――――――――――
「単独固定不可」
「ミオ様?」
「東だけでは、固定できないそうです」
「では、西もあるのですか」
「たぶん」
「東と西で」
「リタさん」
「はい」
「先に言わないでください」
「すみません」
桶の水が、ちゃぷん、と東へ寄った。
さっきより強い。リタが慌てて桶を両手で押さえる。水はこぼれないが、桶の中で東側だけ盛り上がっている。井戸の水が丸く浮いた時と似ている。今度は横だ。
畑の豆葉も、東へ倒れたまま戻りにくい。
倉庫の方で、かたん、と木箱が鳴った。
「偏ってますね」
「偏っていますね」
「東だけ起こしたからですか」
「その可能性が高いです」
「白狐さん」
「はい」
「どうしましょう」
「西を見た方がよいと思います」
「ですよね」
村人の一人が、西の方を見た。
つられて、何人も西を見た。
村の反対側。畑を挟み、井戸を挟み、倉庫を挟んだ向こう側。そちらにも、古い境界石がある。東と同じような石だ。今までは、ただの村の端だった。
今は、見たくない。
だが、東側の透明な鎖が、ふるふると震えている。
ミオは透明の板を見た。
表示の下に、新しい行が出る。
[BALANCE WARNING]
――――――――――
東側係留:仮反応
西側係留:未確認
村底部:東へ偏り
井戸水面:東寄り
倉庫荷重:東寄り
畑風受け:東寄り
――――――――――
「東寄りが多い」
「ミオ様」
「はい」
「桶も、かなり東寄りです」
「置きましょう」
リタは桶をそっと地面に置いた。
桶の水は、東側へぷくっと寄ったまま止まっている。まるで、透明な水まんじゅうが桶の片側に乗っているみたいだった。
村人の子どもが、それを見て言った。
「水が、石の方に行きたがってる」
「行かせないでください」
「どうやって?」
「見守ってください」
「うん」
子どもは真剣に桶を見守り始めた。
ミオは少しだけ助かった気がした。
「白狐さん」
「はい」
「西を見ます」
「はい」
「東は、このままで大丈夫ですか」
「長くは、よくないと思います」
「短くなら?」
「たぶん」
「たぶんですか」
「はい」
東側の石は、こつん、と鳴った。
透明な鎖の輪郭が、少しだけ濃くなる。
豆葉が、ぱたぱたと東へ寝たまま震えている。
透明の板の端で、西側係留の文字が薄く浮いた。
「……白狐さん」
「はい」
「西、出ました」
「行きましょう」
「まだ東も終わってないです」
「だから、西へ行くのです」
「そうでした」
ミオは立ち上がった。
村人たちは、東側の石と、桶の水と、豆葉を見比べている。聖女様が東の石を目覚めさせた、という顔だ。ミオとしては、石の砂を払っただけだ。だが、透明な鎖が出ているので、否定する材料がない。
リタが桶の横にしゃがんだ子どもへ言った。
「見守りをお願いします」
「うん」
「こぼれたら呼んでください」
「分かった」
「こぼれなくても、変な形になったら呼んでください」
「今もう変だよ」
「それ以上です」
「分かった」
ミオは少し笑った。
笑ってから、西側を見た。
遠くの境界石が、まだ鳴っていない。
だが、畑の白い線が、そちらへ細く伸び始めていた。
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