第140話 畑外縁と風受け
畑へ向かう前から、豆葉はもう騒いでいた。
ざわざわ。
ぱたぱた。
さわさわ。
風はない。なのに、畑の外縁だけが、誰かにくすぐられているみたいに揺れている。井戸から伸びた白い線は、土の上を細く走り、畑の端で三本に分かれていた。
一本は豆畑の北側。
一本は畑の真ん中。
もう一本は、畑の南側へ。
その線のそばだけ、豆葉が左右へ倒れて、また戻る。
「白狐さん」
「はい」
「畑が先に動いています」
「動いていますね」
「私、まだ何もしていません」
「今日はその言葉が多いですね」
「本当に何もしていない時ほど、何か起きます」
「それは少し困りますね」
「だいぶ困っています」
リタは井戸の桶を置いて、畑の前で立ち止まった。さっきの水を汲んだ桶だ。水は澄んだまま、ちゃぷん、と静かに揺れている。豆葉の動きに合わせて、水面にも細い波が出た。
「ミオ様、桶の水も揺れています」
「畑と連動しているんでしょうか」
「畑と井戸が」
「はい」
「倉庫もですか」
「たぶん」
「村が、仲良しですね」
「言い方だけは可愛いですね」
村人たちは、畑の外側でまた輪になっていた。
倉庫で荷が浮き、井戸で水が浮き、次は畑だ。何が起きるのか、誰も分からない。けれど、豆畑は村の食べ物に関わる。怖いから見ない、とはならなかった。
豆を育てているおばさんが、腰をかがめて畑を見た。
「ミオさん、豆は大丈夫かね」
「大丈夫にしたいです」
「それは、大丈夫ではない時の言い方だな」
「すみません」
ミオは透明の板を見た。
板の中で、畑外縁の文字だけが濃くなっている。白い線が、畑の端をなぞるようにゆっくり動いた。
[FIELD OUTER EDGE]
――――――――――
畑外縁:反応
井戸線:接続あり
倉庫下輪:接続あり
風受け:未調整
葉面揺れ:弱
確認:外縁石
――――――――――
「外縁石」
「ミオ様?」
「畑の外側の石だそうです」
「畑の石ですか」
「はい。風受けが未調整、と出ています」
「風受け」
「畑が風を受けるらしいです」
「畑が」
「はい」
リタは畑を見た。
豆葉が、ぱた、と倒れた。
リタが少しだけ下がった。
「今、聞こえていましたか」
「聞こえていたみたいですね」
「畑が」
「はい」
村人たちは、ミオの透明の板を遠巻きに見ている。白い模様の浮いた聖なる石板。ミオがそれを畑へ向けるたび、豆葉がぱたぱた動く。村人たちには、聖女が石板で畑に何かを命じているように見えているはずだった。
「聖女様が、豆に風をお与えになるのか」
「与えません」
「では、風をお読みになる」
「読んでいるのは、板です」
「畑の板」
「増やさないでください」
白狐が畑の外縁へ歩いた。
豆葉は白狐には触れなかった。白い衣の裾のすぐ手前で、ぱた、ぱた、と左右に分かれる。まるで道を空けているみたいだった。
「白狐さん、畑に避けられてませんか」
「避けられていますね」
「それは良いんですか」
「踏まずに済むので、助かります」
「そういう見方もありますね」
畑の外縁には、低い石が並んでいた。
土留めというには少し細く、境界石というには少し古い。ところどころ草に埋もれ、いくつかは傾いている。ミオも今まで何度も見ていたはずなのに、ただ畑の端だと思っていた。
今は違う。
石の内側に、細い溝がある。井戸の縁石にあったものと似ている。白い砂が詰まって、途中で線が止まっていた。
「ここですね」
「はい」
「また白い砂です」
「白い砂は、よく詰まりますね」
「白狐さん」
「はい」
「ちょっと言い方が掃除みたいです」
「実際、掃除ではありませんか」
「そうなんですけど」
ミオは布を取り出した。
北で使い、井戸で使い、もうだいぶ白くなった布だ。布というより、白い粉を集める道具になりかけている。ミオは畑の外縁石にしゃがみ、溝の白い砂をそっと拭った。
ぱふ。
さらさら。
豆葉が一斉に、ぴん、と立った。
ミオは手を止めた。
「今、立ちました」
「立ちましたね」
「豆葉って、立ちます?」
「普通はそこまで揃いません」
「ですよね」
豆葉は、そのまま三呼吸ほど止まった。
それから、ぱたん、と同じ向きに倒れた。
風はない。
ないのに、畑の端から中央へ、波みたいに葉が倒れていく。ぱたぱたぱた。やわらかい音が走り、次に反対側へ戻る。さわさわさわ。畑全体が、ひとつの布みたいに揺れた。
村人たちが、わっと声を上げた。
豆を育てているおばさんだけは、声を出さずに畑を見ていた。
「豆が、折れてない」
「はい」
「倒れてるのに、折れてない」
「そうですね」
「葉が避けてる」
「避けてますね」
透明の板の表示が変わった。
[WIND RECEIVER CHECK]
――――――――――
外縁石:白砂除去
風受け:弱復帰
豆葉:追従
井戸線:安定
倉庫下輪:安定
村底部:反応継続
――――――――――
「風受け、弱復帰」
「ミオ様、弱く戻ったのですか」
「はい」
「弱くても、畑全部が動いています」
「それは私も思いました」
村人のひとりが、畑の端で膝をついた。
「聖女様が、豆を折らずに風を通された」
「違います。畑の端の石を拭いただけです」
「石を拭いて、豆に風が通るのですか」
「……通りましたね」
「やはり聖女様では」
「違います」
言い切ったが、豆葉がぱたぱた動いているので弱かった。
リタが、そっとミオに言った。
「ミオ様」
「はい」
「今の説明は、村人には聖女様の魔法に聞こえます」
「どう言えばいいんですか」
「畑の具合を見ました、とか」
「それも魔法っぽくないですか」
「少し」
白狐は畑の外縁石を見ていた。
「ミオ。石の下に、まだ続きがあります」
「続き」
「はい。外縁石は、畑の境目ではなく、風を受ける輪の一部のようです」
「畑の周りに輪があるんですか」
「そのように見えます」
ミオは透明の板を畑へ向けた。
板の中で、畑の形がうっすら出た。四角い畑。外側の白い線。井戸から来た線。倉庫下へ戻る線。さらに、まだ薄い線が畑の南側へ伸びている。
[FIELD AIR RING]
――――――――――
畑外縁:輪構造
風受け:一部復帰
井戸水重心:接続
倉庫荷重:接続
南側線:未確認
――――――――――
「南側線」
「ミオ様?」
「南側に、まだ線があります」
「南側ですか」
「はい」
「そちらには、何が」
「……たぶん、次に見たくないものです」
豆葉がまた揺れた。
今度は、畑の北側から南側へ、ふわ、と寝るように倒れていく。一本一本が、折れずに、土へ近づいて、また起きる。葉の裏に、白い光が一瞬だけ走った。
子どもが叫んだ。
「豆の裏が光った!」
ほかの子どもたちも畑に近づこうとしたが、大人に止められた。豆葉はまだ動いている。危ないかどうか分からない。危なくないようにも見える。だが、村人たちはもう、ミオが止めるまで待つ顔になっていた。
「ミオさん、豆は大丈夫か」
「たぶん、大丈夫です」
「たぶん」
「葉は折れていません。根も浮いていません。土も割れていません」
「なら、大丈夫か」
「今のところは」
ミオは畑の外縁石をもう少し拭った。
ぱふ。
さらさら。
白い砂が取れるたび、畑の葉が小さく揺れる。ざわ、ぱた、さわ。音が整っていく。最初は勝手に騒いでいた葉が、だんだん同じ調子になった。
リタが桶の水を見た。
水面が、豆葉と同じ調子で揺れている。
「ミオ様、桶の水も」
「はい」
「畑と一緒です」
「井戸と畑がつながっているんでしょうね」
「倉庫も」
「たぶん」
「村が、どんどん仲良しに」
「その言い方だと、まだかわいいです」
透明の板の表示が、少しだけ濃くなった。
[FIELD OUTER EDGE]
――――――――――
白砂除去:進行
風受け:弱安定
豆葉:損傷なし
井戸線:安定
倉庫線:安定
次確認:南側線
――――――――――
「損傷なし」
「ミオ様?」
「豆葉、傷んでないそうです」
「よかったです」
「本当に」
「ミオ様の魔法は、豆に優しいです」
「魔法ではないです」
「でも、優しいです」
「そこだけ受け取ります」
畑の外縁石が、最後に一度、白く光った。
風が吹いた。
今度は、ほんの少しだけ本当に吹いた。ミオの前髪がふわっと上がり、白狐の袖が揺れ、リタの抱えた桶の水面に細い波が立つ。村人たちの服も、豆葉も、同じ向きにそっと流れた。
ただの風ではなかった。
畑から上へ、すうっと抜ける風だ。
地面から空へ。
土から葉へ。
葉から上へ。
白い線が、その流れを追いかけるように畑の外縁を一周した。
ミオは思わず空を見上げた。
まだ何も浮いていない。
けれど、畑だけが、ほんの少し軽くなったように見えた。
「白狐さん」
「はい」
「今の、畑が風を受けたんですか」
「受けたというより、下から逃がしたように見えました」
「逃がした」
「はい。重さと水と風を、少しずつ分けているのかもしれません」
「倉庫、井戸、畑で」
「はい」
透明の板の文字が薄くなる。
[FIELD WIND RECEIVER]
――――――――――
畑外縁:仮復帰
風受け:弱安定
倉庫下:接続
井戸縁石:接続
村底部:反応拡大
不足:東側係留石
――――――――――
「東側係留石」
「ミオ様?」
「今度は、東側って出ました」
「係留石とは」
「分かりません」
「石ですか」
「たぶん」
「東側の」
「はい」
村人たちが東を見た。
畑の向こう、村の外れ。古い境界石がいくつか並んでいる場所だ。畑仕事の帰りに腰をかける人もいる。子どもが登って怒られる石もある。特別なものには見えなかった。
そのうちの一つが、こつん、と鳴った。
遠い。
でも、聞こえた。
豆葉が一斉に、東へ倒れた。
ぱたん。
桶の水も、東へ寄った。
ちゃぷん。
「……白狐さん」
「はい」
「東側、呼んでませんか」
「呼んでいますね」
「呼ばれる場所が増えてきました」
「はい」
「村って、こんなに呼ぶものでしたっけ」
「普通は、呼びません」
ミオは透明の板を閉じようとして、またやめた。
東側係留石の文字だけが、板の端で濃くなっている。
畑の白い線は、東へ向かって、すうっと伸びていた。
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