第11話 ため池の水が、隣村まで流れた
リュミナ村の朝は、すこしだけ音が増えていた。
井戸のつるべがきしむ音。桶に水が落ちる音。畑のほうから聞こえる、子どもたちのはしゃぐ声。保存庫の前では、村のおばあさんたちが乾かした野菜を並べ直している。昨日までなら、どれも小さく、遠慮がちな音だった。今はちがう。村全体が、こわごわ息を吸い直しているみたいだった。
ミオは教会の石段にすわり、両手で小さな木椀を持っていた。
中身は薄い麦がゆだ。水が戻ってから、麦がゆの濃さがほんの少しだけ増えた。ほんの少しだけなのに、村の子どもたちは「今日はとろっとしてる」と笑っていた。
白狐は、ミオの足元で前足をそろえている。
「ミオ」
「なに?」
「その椀は、あなたのものですか」
「うん」
「確認ですが、わたしの椀はどこですか」
「白狐さん、さっき食べたよね」
「食べました。ですが、あれは朝の分です。これは、追加の確認です」
白狐はきりっとした顔をしていた。とても正しいことを言っている顔だった。体はミオの膝に乗るくらい小さいのに、態度だけは村長より大きい。
ミオは麦がゆをひと口すくい、白狐の前に差し出した。
「ひと口だけね」
「ひと口の定義を広めにお願いします」
白狐はそう言って、きれいに食べた。口元に麦の粒が一つついている。
ミオはそれを見て、少し笑った。
村は、助かった。
まだ貧しい。まだ足りないものは多い。屋根の抜けた家もあるし、畑も全部が戻ったわけではない。けれど、井戸から水が出る。ため池に水がたまる。保存庫の扉が開く。朝に、明日の心配だけでなく今日やる仕事の話が出る。
それだけで、村人たちの顔は変わった。
「今回は、ちゃんと村の中だけで収まった気がする」
「今、何か不吉なことを言いましたか」
「え、言ってないよ」
「あなたが“収まった”と言う時は、たいてい収まっていません」
「今回は大丈夫。たぶん」
ミオは木椀を横に置き、透明な板を取り出した。
村人たちには、薄い聖石板に見えているもの。ミオには、世界の構造を読むためのアナライザブルデバッガーに見える。透明な板越しに村を見ると、井戸、ため池、畑、保存庫のあたりに、うすい線が浮かぶ。青白い線。水が通り、権限が通り、古いノードが目を覚ましたしるし。
前よりずっと安定していた。
井戸の表示は青。ため池も青。畑の水路はまだ黄色が混じるけれど、危険な赤はない。ミオはほっとした。
[VILLAGE WATER STATUS]
――――――――――
リュミナ井戸:安定
ため池ノード:安定
畑水路:低出力維持
保存庫冷却:補助水路接続
水系負荷:許容範囲
――――――――――
「ほら。ちゃんと安定してる」
「そこだけ見れば、そうですね」
「そこだけ?」
「全体を見るべきです」
白狐が尻尾で透明板の端をちょん、と指した。
ミオは表示範囲を広げた。
村の水系図が広がる。井戸。ため池。畑。教会裏の小さな溝。村の外へ向かう古い水路跡。
そこで、ミオは目を止めた。
線が、外へ伸びていた。
リュミナ村の外。南のゆるい坂を下り、雑木林の横を抜け、古い石樋のほうへ。そこからさらに、見たことのない小さな集落へ向かっている。
「……あれ?」
「出ましたね」
「まだ何もしてない」
「それは、あなたの感覚です。水系はすでに動いています」
ミオは透明板を両手で持ち直した。
表示の端に、見慣れない名前が出る。
[WATER LINE]
――――――――――
リュミナ支流:復帰
下流支線:微弱反応
ノルテ支流:閉塞
中継石樋:手動修復必要
水圧:不安定
――――――――――
「ノルテ支流……?」
「ノルテ村ですね。ここから下った先にある、小さな村です」
「白狐さん、知ってるの?」
「名前だけは。昔は麻を育てる村だったはずです。いまは、あまり人が通りません」
「麻……布とか、紐にする?」
「ええ。粗布、荷袋、縄。水があれば、そういう仕事ができます」
ミオはもう一度、表示を見た。
ノルテ支流は黄色と赤のまだらだった。完全に死んでいるわけではない。でも、水が通りきっていない。途中の中継石樋で詰まっているらしい。
リュミナ村の水が戻ったことで、下流側も反応した。
けれど、途中で止まっている。
「これ、放っておいたらどうなるかな」
「水が行きません」
「だよね」
「もしくは、弱いところから漏れます」
「それは困る」
「困ります」
白狐は、わざとらしくミオを見上げた。
「見に行くだけ、という顔をしています」
「まだ言ってない」
「顔に出ています」
「見に行くだけなら、大丈夫じゃない?」
「あなたの“見るだけ”は、よく対象を起動します」
「それは……ちょっとだけ心当たりがある」
その時、村の入り口のほうが少し騒がしくなった。
ミオが顔を上げると、若い村人が小走りで教会へ向かってくる。息を切らし、手には古い布を握っていた。布は粗く、何度も洗われて白っぽくなっている。端がほつれていた。
「ミオさま! 村長が呼んでます!」
「どうしたの?」
「下の村から、人が来ました。ノルテ村の人です。朝、水路の底が濡れてたって」
白狐の耳がぴくりと動いた。
村人は続けた。
「でも、水は流れてこないそうです。石の樋のところで、泥が詰まってるんじゃないかって。前から、ずっと直せなかったらしくて」
ミオは透明板を見た。
表示は変わらない。
ノルテ支流:閉塞。
中継石樋:手動修復必要。
つまり、村人たちの言葉と、透明板のログが一致している。
ミオは木椀を置き、立ち上がった。
「村長さんのところへ行く」
「見に行くだけですか」
「まずは話を聞くだけ」
「言い方が変わりましたね」
「少し学習した」
白狐は鼻先を上げた。
「よろしい。では、わたしも同行します」
「麦がゆのおかわりは?」
「帰ってからで構いません。ただし、帰ってからは二口です」
「増えてる」
「水脈の確認は重労働です」
ミオは小さく笑い、透明板を布で包んだ。
村長の家の前には、すでに何人かが集まっていた。リュミナ村の人たちの中に、見慣れない男女が二人いる。服は泥で汚れ、袖には麻の繊維が細く絡んでいた。手は荒れている。けれど、その目だけは強くこちらを見ていた。
年配の女が、一歩前に出た。
「あんたが、ここの聖女さまかい」
「えっと、聖女というか、教会の下働きで……」
「水を戻したって聞いた」
「水路を少し見ただけです」
「それで戻るなら、うちの村も見てほしい」
女の声は、かすれていた。長く頼む相手がいなかった人の声だった。
ミオは、すぐに「直します」とは言えなかった。
直せるかもしれない。透明板にはそう見える。でも、直すということは、また何かを起こすということだ。リュミナ村だけで収まらなかったものが、次は隣村へ伸びる。水が伸びれば、仕事も戻る。人も動く。ものも動く。
いいことだけでは終わらない。
それは、もう少しだけ分かっている。
村長が、ミオを見る。
「ミオ。無理なら、無理でいい。ただ、話だけでも聞いてやってくれんか」
「はい」
ミオは透明板を胸元で押さえた。
「まず、石樋を見ます。直せるかどうかは、見てからです」
「それでいい。それだけでいい」
ノルテ村の女は、深く頭を下げた。
白狐がミオの足元へ寄る。
「今度こそ、見るだけで済ませるつもりですか」
「うん」
「信じましょう」
「ほんと?」
「半分だけ」
白狐はそう言って、しっぽをふわりと揺らした。
ミオは村の外へ向かう道を見た。
畑の横を抜け、雑木林の影へ続く細い道。昨日までなら、ただの村はずれだった場所。けれど透明板越しには、そこにうすい青い線が伸びている。
リュミナ村の水は、村の中だけで眠っていたわけではなかった。
もっと外へ、誰かの暮らしへ、まだ届こうとしている。
ミオは息を吸った。
「行こう」
白狐が、当然のように前へ出た。
「案内します。わたしは昔の地理に詳しいので」
「助かる」
「ただし、道中で麦がゆの話をしても構いません」
「それ、今必要?」
「精神の安定に必要です」
ミオは少しだけ肩の力を抜いた。
それから、透明板を布の中で握り直す。
表示の端に、まだ黄色い文字が残っていた。
[WATER LINE]
――――――――――
ノルテ支流:閉塞
中継石樋:手動修復必要
推奨:現地確認
――――――――――
現地確認。
ミオには、その言葉が少しだけ重く見えた。
けれど、村の外へ伸びた青い線は、消えなかった。
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