103 高潔な君と汚れた僕
イザークの手は真っ黒だった。
生まれながらに汚れた人間など、この世に存在しない。
もちろん、彼も最初は綺麗な状態で生まれてきた。
しかし、悲惨な環境と元々持ち合わせた残忍な性格は、着々と彼を悪の道へと導いていった。
気付けば彼は悪に蝕まれ、その手は真っ黒に染まっていた。
イザークは今まで自身の命を狙う者たちを、何の迷いもなく始末してきた。
第一皇子として生まれた彼だが、母親は平民で、皇帝からの寵愛もない。
そんな彼は、自身の持つ剣術の腕と皇帝としての器、そして父親にそっくりな残酷極まりない性格をひけらかすことで周囲を牽制した。
そのような才能が認められ、イザークは皇太子となった。
しかし、いくら地位を確立させたとして、平民の母親を持つ彼を疎ましく思う者は多い。
「――汚い血筋のくせに」
「……来て早々、暴言か?見苦しいぞ」
謁見の間の玉座に座る彼の前には、第三皇子が立っていた。
汚い、汚らわしい血筋――今まで百回は言われた言葉だった。
既に慣れてしまっているのか、イザークは罵詈雑言を吐く異母弟を前にニヤリと笑みを浮かべた。
「お前、どういうつもりだ?その椅子に座れるのはこの世で皇帝陛下ただ一人だけ、皇族として生まれたお前が知らないはずはないよな?」
「当たり前だろう?」
イザークは第三皇子が不快感を感じるのを事前に予測してその椅子に座っていた。
そして予想は的中、彼は玉座に座るイザークに怒りを露わにした。
「お前とは昔から何かと争ったな……争いと言っても子供の遊びのようなものではなく、死者が出るほどの壮絶な戦い。あのときのことは今でもよく覚えているよ」
「何が言いたい?」
第三皇子とその母親の第二皇妃はイザークを敵視し、幼少期から何度も暗殺者を送り込んだ。
彼はそのたびに暗殺者を返り討ちにし、切り落とした首を皇子の元へ送りつけることで彼らを威圧した。
そんな行動を繰り返していたせいで、血の皇子なんて不名誉な異名がつけられてしまったのだが。
「そんなことを言うためだけに、俺をいちいち呼び出したのか?」
「そうだな……そろそろ、本題に入ろうか」
イザークは控えていた騎士に何かを命じると、彼は外へ出て行った。
何が始まるのかと、第三皇子は怪訝そうに眉をひそめた。
再び扉が開くと、さっき外へ出た騎士がある人物を引きずって中へ入ってきた。
引きずられていた女性に、第三皇子は困惑を隠せなかった。
「………………なぜ、母上が」
――罪人のように騎士に両脇を抱えられていたのは彼の母親の第二皇妃だった。
彼女は息子を一瞥すると、力なく項垂れた。合わせる顔がない――とでもいうような彼女の表情。
第三皇子はイザークが彼女に何かしたのだと決めつけた。
「お前、いくら俺が憎いからって母上を捕まえるとはどういうつもりだ!」
イザークは呆れたように第三皇子を見下ろして言葉を返した。
「お前のことが憎いだと?そんな感情はない――俺はただ、皇帝毒殺事件の黒幕を捕らえているだけだからな」
「な、何だと……?」
第三皇子は到底信じられずに、母親を見つめた。
違うと言ってほしくて送った視線だが、彼女は顔を背けた。
その反応で、彼は母親が犯人だと確信したようだった。
「母上……どうして……!」
どうして父上に毒を盛ったんですか――と第三皇子は母親を問い詰めた。
第二皇妃は過激な性格ではあるが、息子のことは非常に可愛がっていた。それに加え、彼女は皇帝のことを他の誰よりも愛していた。
そんな彼女が、どうして――
「だって……あの人ったら……いつまでも私を皇后にしないんだもの……」
「母上……」
そんなくだらない理由で?
第三皇子は呆気に取られていた。
第二皇妃は侯爵家の令嬢として生まれ、何不自由なく育った。
彼女はさらなる高い地位と強い権力を求め、自らの美貌を利用して皇帝に取り入った。
皇后の椅子を狙っていた彼女だったが、皇子を産んだ彼女が手に入れたのは期待外れの第二皇妃という地位。
さらに、平民の母親から生まれた皇子を皇太子にすると言われ、彼女は今まで感じたことのない屈辱を味わった。
毒殺事件の前日、皇帝は自身の妻や子供たちに行き過ぎた発言をした。
セレシアの魔術によるものか、それとも本心だったのかは、彼が亡くなった今となってはわからない。
皇后になれなかった鬱憤が溜まっていたこともあり、彼女は今回の毒殺事件を考えた。
「母上……なぜそのような……」
「……ごめんなさい」
第二皇妃は大切に育てた息子から目を背けた。
信じられないと――見開かれた第三皇子の瞳が揺れた。
母親が父親を殺害したのだ、彼の気持ちは計り知れない。
彼女の罪は重い。自らの欲のためだけに、息子を最後まで振り回したのだから。
「……皇帝の毒殺を企んだんだ。わかってるよな?――覚悟するんだな」
イザークはそれだけ言うと、玉座から降りて謁見の間を出て行った。
***
第三皇子の前から立ち去った彼は、皇帝宮の横に位置する宮殿へと向かった。
そこは、三十年近くもの間、誰も住んでいない忘れ去られた場所だった。
イザークは皇帝が亡くなってからというもの、皇太子宮ではなく皇帝宮で暮らしていた。
少し前まで父親が住んでいた場所を使うのは憚られたが、皇帝の執務を遂行するには住まいを移したほうが便利だった。
そして、そんな彼がやってきたのは皇后宮だった。
前皇后が亡くなってからは誰も住んでいない、それでも管理だけはされている場所。
彼はこの場所にある人物を住まわせていた。
「――イザーク殿下」
皇后宮にある一室で、彼を見た彼女が微笑んだ。
イザークの婚約者最有力候補であるフロランティア公爵令嬢アデライトだった。
正式な婚約者となったわけではなかったものの、彼女が次期皇后であることはほとんど確定していた。
イザークも皇后は彼女以外にありえないと、既にアデライトを皇后宮に住まわせていた。
結婚前の同棲に一部からは批判の声が上がっているそうだが、元々彼は自身の評判など気にしない人間だった。
「殿下、お会いできて嬉しいです」
アデライトは顔を輝かせてイザークに駆け寄った。
幼い頃から何一つ変わらない、穢れを知らない無垢な笑顔。
昔は彼女に触れることが恐ろしかった。
自分のような悪なる人間が触れたせいで、彼女まで染まってしまうのではないかという不安。
しかし、今はその恐怖心以上に彼女が傍からいなくなってしまうことのほうが怖かった。
彼は彼女を前に、ゆっくりと口を開いた。
「俺は……もうすぐ皇帝になるだろう」
「はい、存じ上げております」
思えば、傷付くことを恐れて彼女とまともに向き合おうとしてこなかった。
高潔な彼女に、汚れた自分はあまりにも不釣り合いだと――彼女の幸せがどこにあるかも考えずに決めつけた。
こうやって向かい合うのは初めてかもしれない。
今なら言えるだろうと、イザークは彼女を真っ直ぐに見下ろした。
「俺は、昔からお前のことを愛している。皇后として俺の傍にずっといてくれないか?」
嘘偽りない、彼の本当の気持ち。照れているのか、イザークの耳が僅かに赤くなった。
彼の真摯な告白を聞いたアデライトの目から、涙が溢れた。
「もちろんです……!殿下と初めて出会った頃から、ずっとそのつもりでおりました……!」
アデライトは泣きながらも笑い、イザークのプロポーズを受け入れた。
感極まった彼女は血の皇子イザークに抱き着くという命知らずな行動に出たが、彼は何も言わずに素直に受け止めた。
闇と光が共存できるはずがないと思っていた彼だったが、彼女のおかげで彼はいつの間にか闇から抜け出せていたのかもしれない。
アデライトが傍にいる限り、イザークの手が再び汚れるようなことはないだろう。
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