18.いけない関係
「それでは殿下、失礼しますね」
部屋で見送る殿下に挨拶をして、私は部屋を退出した。
扉を閉められて、さて帰ろうと思ったときに横から声をかけられる。
「私が送っていこう。他の者は引き続き護衛を」
ドキッとした。いつも馬車まではメイドか、外で護衛をしている騎士がやってくれるのだけれど、そういえば今日は部屋の外に彼がいた。
「では行こうか」
こちらにちらりと視線を向けるヴァーノン。私は身を正した。
いつもの意地悪な顔をしたヴァーノンじゃなくて、仕事用の顔だ。きりっとしていて、纏う雰囲気が洗練されている。
他の護衛に見送られながら、私はその背を追うように歩いた。
しばらく二人で無言で歩く。
もしや本当に馬車まできっちり送るつもりなのかしら。仕事の時はとても真面目なのね、とか思い始めた頃、不意に彼は私の腕を引いて通路のあちこちに設置された石像の一つの死角に連れ込んだ。さすがヴァーノン、期待を裏切らないというか……手慣れていません?
「ちょっと何……っ」
強引に引きずり込まれた挙げ句、くいっと顎を上向かせられて、部屋を出る前に巻き直したスカーフがほどかれた。
私が隠そうとしていた痣を、ヴァーノンは直視する。私は何を見られているのか理解すると、視線をはずした。頬に、熱が集まってくる。
私の首についたキスマークを見て、ヴァーノンはどこかほっとしたような表情をした。
「良かった、夢ではなかった……」
夢って……。
私は脱力しかけた。
私だってあの光景が夢だと思ったわよ。でもあなたは確かにそこにいて、私に触れていたじゃない。
でも私は言いたいこととは裏腹な言葉を吐き出した。今の私は公爵令嬢なのだから!
「いきなり何をするのよ! こんなところで、人に見られでもしたらどうするの!」
「すまない。貴女があまりにも平然としているから、あの夜、懇親会の夜が幻のように思ってしまった」
形だけでも抗議の声をあげると、予想だにしなかった言葉が返ってきた。ヴァーノンでも、不安になるときがあるのね。
夢だったらどんなによいものか。でもあいにく、ヴァーノンがつけたキスマークは現実のものなのよ。
あの夜の戯れを思い出してしまって、熱を持った頬が色づいている自覚はあるけれど、私は毅然としながら言ってやる。
「全く、何を言うかと思えば。お父様に知られないように誤魔化すの大変なのよ。こんなうっかりすると見えるところにつけないで」
さらりとヴァーノンが私の髪をすくった。今日はおろしてある陽だまりのようなブロンドヘアー。すんっと鼻をならす。
……ちょっと待ってヴァーノン、今においを嗅いだ?
私が何か言う前に、髪をすくったまま、すうはぁ……と大きく呼吸をするとヴァーノン。だからちょっと待ちなさい、やっぱり私のにおいを嗅いでいるわよね!?
「ちょ、ヴァーノン……っ」
「見えないところならば、付けて良いのか」
「そ、そういうわけにはいかないでしょう! 後、においを嗅ぐのもやめなさい。恥ずかしいわ」
苦情を呈すればヴァーノンは渋々髪を離してくれる。よしよし、それで良し。懇親会の時も思ったけれど、なんで彼は私のにおいを嗅ぐのだろう。香水の匂いしかしないでしょうに。
私はスカーフを奪い返すと、首に巻き直す。
「貴女は酔っていたときの方が、素直で愛らしいな」
「ごめんなさいね。素面の時は理性がきちんとあるもの」
本当は今だってとくとくと心臓が早鐘を打っている。でもさすがに王宮の、人目がどこにあるかも分からない場所では自重するわ。
「……一つだけ、確認させてほしい」
「なぁに」
ヴァーノンの声のトーンが一段下がる。
私はヴァーノンを見上げる。
切なそうな色を瞳に浮かべて、ヴァーノンは私に言う。
「貴女はどこまでなら、俺を受け入れてくれる」
これは明確な線引き。
殿下の婚約者と、一介の騎士としての。
私は微笑んだ。全く、私の気持ちなんてお構いなしかしから。それとも懇親会の時に私があなたに勝てないって言うのを白状したのを真に受けたのか。
どちらにせよ、この明確な線引きを私が決めていいと言うことは分かった。つまり私の返答次第では、今後の関係が変わるということ。
私はうっとりとする。許されるなら、私をあなたでいっぱいにしてほしい。あなたの時間を私に頂戴。
だから私はこう言った。
「火遊びをするならもっと上手にしないと」
私はヴァーノンの首を引き寄せる。されるがままに、ヴァーノンが顔を近づけてくれた。
私はその頬を愛しく思う。殿下にするようにゆっくりと撫でる。そうしながらも、大人の余裕という仮面を被った私は、ヴァーノンを誘った。
「誰にも、何も見つからないなら、私はあなたに何をされてもいいわ。でもそれは殿下が大人になるまで。これでどう?」
ヴァーノンが私の手首を捕まえる。
熱のこもった瞳が、私を貫く。
ヴァーノンに名前を呼ばれるのも、触れられるのも、すごく好き。この身体中をめぐ熱量が好き。顔が好き。逞しい腕に抱かれるのが。耳元をくすぐる甘い声が。獣のように飢えた瞳が。全てが愛しい。
私を激しく揺さぶるのはあなただけ。あなただけの特権。
この熱がいつ冷めるのかは分からないけれど、それでもそのいつかが来るまで内緒にして隠しておきたい。
マリエルには釘を刺されてしまっているけれど、ヴァーノンを前にした私はすごく強欲になってしまう。この胸にしまわれている思いが、物欲しそうに飛び出そうとするの。
「あなたに火遊びをする覚悟があるなら、私はそれを受け入れましょう。覚悟がないなら、二度と私と関わらないで。私だけがこんなにドキドキして、切なくて、苦しくなるのは、不公平よ」
きっぱりと言い切ってやれば、私の好きなあのハスキーボイスで、ヴァーノンがささやく。
「俺にドキドキするのか」
「ええ。今もずっと」
「切なくなるのか」
「あなたと別れた後の寂しさはひとしおよ」
「苦しいのか」
「本当の意味で私とあなたは結ばれることはない。当然でしょう?」
ヴァーノンが私の腰を抱いた。
「俺と、同じ気持ちだ」
「あら光栄ね。それなら私も一つだけ確認をさせて」
今までに無いくらい逸る鼓動を、私はどこか遠くで聞いていた。
理想が、夢が、現実に追いついてきたような気がして、実感が薄い。
でも、そんなことを思いながらも、私の欲は止まらない。
「私と火遊びをしても、後悔はしない?」
あなたの心にいるのは、本当に私だけ? 本気で私とこんな「いけない関係」になりたいと思っている? 期限付きの遊びで、あなたは満足する?
複雑な思いをたった一言にのせる。
ヴァーノンは真面目な面持ちで頷いて見せた。
「こうして心が通じあったのだ。これ以上を望めば、互いに不幸になるのだろう?」
「完璧ね」
私は唇の端を上げる。
そこまで互いの立場が分かっているなら、大人の火遊びをいたしましょうよ。
私はヴァーノンに囁いた。
「誓えるならキスをして。痕が残らないように」
ヴァーノンにねだると、心得たとばかりに私の唇に彼の唇が重ねられた。
ぶわっと全身に熱が広がる。
私のファーストキス。
私の、初めての人。
殿下の目と鼻の先である王宮のこんな通路の死角で、その婚約者と騎士が口づけを交わしている。
ヴァーノンがいけないと言われるほど燃えると言っていた意味がよく分かった気がした。
全身の熱が火傷しそうなくらいに熱くて、脳がとろとろに蕩けそう。情熱的な口づけってきっとこういうことを言うのだわ。
触れあったのは一瞬だったのか、数秒だったのかは分からない。いつ人が通るか知れない場所でそんな長居はできないから、どちらからともなく顔を離した。
ヴァーノンが私を抱いていた腕をほどいたから、私も首に回していた手をほどく。
ヴァーノンが口元に手をやって上を見上げた。つられて私も上を見るけれど、すごく高い天井があるだけで何もない。
「ヴァーノン、どうしたの?」
「いや……こうも上手く物事がいくとは思っていなくてな……戸惑っている。これは現実か?」
「現実よ。これから私とあなたは一蓮托生、堕ちるときはどこまでも一緒に堕ちていってあげる」
「悪魔だな、お前は」
「あら、狩人のような目をしていたあなたに言われたくないわ。逃がす気、無かったでしょう」
「違いない」
くくっとヴァーノンが肩を震わせる。私もつられて笑った。
「行きましょう。あんまり遅いと怪しまれるわ」
「そうだな」
ヴァーノンが先程と同じで私を先導する。先程と違うのは、背中越しに私に声をかけてくると言うこと。
ヴァーノンが休みの日にまた会おうという話になった。私も都合がつけられそうだったので賛成する。返事をしてから気づいたけれど、い、所謂、デートのお誘いだと、思っていいのかしら?
馬車のそばまで来ると、ヴァーノンが気を引き締めたので私も気を引き締める。お父様に、この関係を知られてはならないから。
───こうして私とヴァーノンの、期間限定大人の火遊びが始まった。




