11.走り出した恋心
帰り道、お父様に様子がおかしいことを指摘されたけれど、なんとか誤魔化した。
殿下に何かしたのか、何かされたのかと聞かれ続けたけれど、私は首を振り続けた。違う、違うのと。
私が頑なに話そうとしないので、お父様はそれ以上追求することはなかった。馬車が静かになって、私はほっとした。
屋敷に戻ると、ドレスを脱ぎ捨てて、湯船に浸かった。
頭を空っぽにして、体の熱を湯に溶かす。
私の体を駆け巡るこの熱はなんなんだろう。
ヴァーノンの事を考えると、彼の声を聞くと、彼に触れると、体温が急上昇する。
本当はこの気持ちがなんというのか知っている気がする。でも、この気持ちに名前をつけてしまうのが恐ろしい。
ヴァーノンは、今まであったことのないタイプの男性だから戸惑ってしまっているだけなの。きっとそうなの。
彼の仕草にも、視線にも、言葉にも、本当は何も意味がないの。私が勝手に「そうあってほしい」と期待を込めてしまうからいけないの。
水面に映る、金の髪と緑の瞳。なんてひどい顔をしているのかしら。
今にも泣きそうで、やるせなくて、つらくて、誰にも言えなくて。
濡れた手で顔を覆う。
温かな滴が、指の隙間からこぼれ落ちていく。
名前をつけたくない、つけてはならないこの気持ち。
私は胸の中で、もて余す。
この気持ちにずっと憧れていた。でも、自分には縁のないものと割りきっていたからこそ、憧れることができた。
それが急に現実のものとして、私の胸の奥に生まれてしまった。
彼には他意がないと自分に言い聞かせても、この胸の熱は消えてくれない。
思考もずっと堂々巡り。
ぼんやりと、熱を湯船に溶かし込む。
洗い流したい。この熱を芯から洗い流したい。
こんな気持ちは邪魔なだけ。公爵令嬢として、この気持ちを持つのは、自分の首を絞めることだと分かっている。
この感情は、本当なら殿下に向けるべきもの。大人になった殿下に向けるべきものなのに。
「あつい、あついよ……」
熱よ、消えて。
湯に溶けて。
お願いだから、ヴァーノンへのこの気持ちを洗い流して。
悶々と湯船に浸かっていれば、時が経つのも忘れるくらいで、私が珍しく長風呂していることに気づいたマリエルにぐでんぐでんに伸びているところを救出された。あっぶない、逆上せて死ぬところでした。
「お嬢様、冷たいお水です」
「うぅ……ありがと……」
グラスに注がれた水を半分くらい飲んで、寝台に戻る。 大の字で横たわっていれば、マリエルが水に濡れたタオルを額や脇に宛がってくれる。
「旦那さまからお嬢様の様子がおかしいのでよく見ていてくれと言われたのですが、お城で何かあったのですか?」
「気にしないで。殿下とは何もないわ」
「何もなければこんなことにはならないでしょう」
うぐ……言い返せれない。
私は額のタオルを少し下ろして目元まで持ってくる。逆上せた体にから、ひんやりと熱を奪っていってくれる。
「私にも言えないことですか?」
「……」
マリエルは私が一番信頼している人。それこそ、家族よりもよっぽど相談することが多くて、姉のように慕っている。
話して楽になれたら……そう思わずにはいられない。でもマリエルはメイドだから、私の事をお父様に報告してしまうかもしれない。
だから、話せない。
「アンリエット……ねぇ、私に教えて?」
ぎしっと寝台がきしむ。少し右手の方が沈んだ。
「旦那様には言わないから。女の子の秘密のおしゃべりをしましょう」
目元を隠していたタオルが取られてしまう。
マリエルの榛の瞳に、顔をくしゃくしゃにして、涙をこらえている私がいた。
「もう、ひどい顔ですね」
「マリエル……」
「ふふ、ちょっと待ってくださいね」
マリエルはシーツを私の体の下から引き抜くと、私と自分の体をすっぽりと覆ってしまった。
私はもぞもぞと動いて少しだけ横を向く。すぐそばに、マリエルの瞳があった。
「内緒のお話。この中で聞いたことは旦那様には報告しないから、私に話してくれますか? 話すことで、何か楽になるかもしれないもの」
「そう?」
「だってこのままだと、お嬢様はいつまで経っても悩み続けて出口を見つけられないじゃないですか」
うっ、それはそうかもだけれど……さすがマリエル、私の事をよくわかっていらっしゃる。
「旦那様に根掘り葉掘り聞かれるときに、仲間は多い方が良いと思いません?」
仲間……仲間かぁ。
そう言われると、確かに一人で抱え込むよりはマシだと思えるわ。それにマリエルなら、私の中にくすぶる熱をどうにかしてくれるかもしれない。
私は体ごとマリエルの方を向いた。ぺたんと額のタオルが落ちる。
なんだか言い出すのも恥ずかしくて、手を胸元でもじもじさせる。
「あのね、マリエル。ある人がね、私に声をかけたり、私に触ったりするとね、すごく胸がドキドキするの。その人の事を考えると、胸がぎゅっとしてつらいの」
「まぁ……」
マリエルは意外そうに瞠目する。でもすぐに柔らかく微笑む。
「素敵じゃないですか。お相手は殿下ですか? まだ御年十歳とうかがっておりましたが、素敵な殿方に成長されていらっしゃるのでしょうね」
「違うの。殿下じゃないのよ」
ネグリジェの、胸の辺りをぎゅっと握りしめる。
マリエルが先程とは比べ物にならないくらいに目を見開いた。
そうよね、そんな反応するよね。
「え……と……それは……」
「分かってる。分かってるのよ。いけないことだって。私は殿下の婚約者なのだから、別の人にこんな気持ちを持ってしまうのはダメだって」
でもね、違うのよ。
殿下に対する愛しさと、ヴァーノンに対する愛しさは。
もちろん、殿下を愛しているわ。
一緒にいると、ゆったりと私は安らげる。元気な笑顔が、私に元気をくれる。その成長を見守ってあげたい。慈しみ、愛を注いであげたくなる。
でもそれだけ。
これじゃ、家族に対する愛となんら変わらない。変わらないのよ。
でもヴァーノンは違う。
私の全てを捧げて、暴いてもらいたくなる。あの金の瞳の中に映る私を蹂躙して欲しい。指の先、髪の一本、私という存在を余すことなく愛してほしい。
彼を想う熱でなら、火傷をしてしまってもいい。あの人に触れてもらいたい。視線を交わすだけでは物足りない。あの声をずっと耳元で囁いてもらいたい。
私の名前を呼んでほしい。
私と一晩中、見つめあってダンスをして。
鼓動する胸のリズムをめちゃくちゃに乱してもらうのさえ、喜ばしいとさえ思ってしまう。
彼への欲が止まらない。手に入らないと分かっているのに、欲張ってしまう。
それは、昼に実現しないだろうと思っていた夢を見せてくれたから? それとも彼が「私と踊りたかった」なんて言ったから?
私には分からない。この気持ちをもて余して、これからどうしていけば良いのか、分からない。
胸の内を全てマリエルに吐露する。
マリエルは何も言わないで、ただ聞いてくれた。
言いたいことを全て話し終わって口を閉じると、マリエルは私の手をにぎって自分の胸に引き寄せてくれる。服越しに、彼女の鼓動が響いてくる気がした。
彼女は瞳をつむる。
優しい表情で、私に言葉をかけてくる。
「素敵な恋を、しましたね」
あやすような声。
そよ風のように、心を優しく撫でる。
「全然、素敵なんかじゃ……だって、私には、婚約者がいて、それなのに」
「恋とは魔物とお教えしましたでしょう? 唐突に落ちるものですから仕方ありません。自分ではどうしようもない強い想いを誰かに対して想うということは、本当は悪いことなどではないのです」
私の両手を握るマリエルの力が、少しだけ強くなる。
「お嬢様のお立場だから許されないだけで、悪いことではないのです。それは尊い人間らしい想いですよ。おつらいでしょうが、その恋を実らせることを私は願うことすらできません。ですが、お嬢様が殿方の存在を忘れるまで見守るはできますから」
忘れる?
ヴァーノンを?
「無理よ……そんなの無理……」
「普通の殿方であれば、旦那様にお伝えして遠ざけてもらうくらいなんてこともありませんよ」
私はふるふると首を振る。髪がシーツにこすれてぐしゃぐしゃになる。
「前に話したでしょう。殿下の側に新しくやってきた騎士様なの」
「えぇと……ヴァーノン様?」
こくりと頷けば、マリエルは暗い表情になった。
どんなにお父様が偉かろうと、殿下の側にいる者を遠ざけるにはそれなりの理由が必要。私のこの想いを明かさなければならなくなる。
何も知らないヴァーノンからしてみれば、突然の左遷になる。それが私のせいだと、私の身勝手な感情のせいだと知られたら。
「私、ヴァーノンに嫌われたくない……」
「お嬢様……」
せっかく我慢していた涙がこぼれ落ちてくる。一粒流れてしまえば、堰を切ったように溢れだして止まらない。
嗚咽を噛み殺しながら、寝台に顔を押し付ける。白い敷布が水溜まりのような染みを作る。
自覚してしまった恋心は、なかったことにはできない。
かといってこれは、私が持っていてはいけないもの。
私が公爵令嬢なんかじゃなくて、もっと彼に見合うような身分の女の子だったら。
そう思わずにはいられない。
これが恋。
熱くて、痛くて、つらくて。
こんなにも私を追い詰めるものだなんて。
恋に憧れていたときは、もっとくすぐったくて、蕩けるように甘い砂糖菓子のようなものを想像していた。
恋とは千差万別だとマリエルは言ったけれど、私の恋はお伽噺の姫君のような柔らかいものではないのね。
糸車の針のように、その存在を知ってしまったら自分自身を傷つける。
眠り姫のように、私は運命の人を選べない。
与えられた運命を愛することが、私の役目。
ヴァーノンはバラの棘に立ち向かっては来ない。万が一に彼が私を愛してくれたとしても、彼は命を懸けてはくれないでしょう。
だって私は高嶺の花、本来彼は見つけることすら叶わないはずだった。
そう、彼は自分と私の間にある壁を知っている。
だから彼はダンスを誘ってこなかった。
パトリックの言葉もあったけれど、結局はダンスに誘うことはなかった。それが答え。
……なんだ、最初から分かっていたじゃない。
今日のダンスは、彼の中の心残り。私は最初から、彼の恋愛対象にはいなかった。
初恋は実らないというけれど、私の恋もまた、実ることはきっとない。




