10.ヴァイオリンとダンス
私が、ヴァーノンと、ダンス?
えっ、殿下、どういうことなの。
ちら……とヴァーノンを伺えば、口許を抑えて顔をそらしている。
「見たいです!」
これは名案だとばかりにイレール殿下は顔を輝かせてるし。
え、でも、その。
「音楽もないですし……」
「ぼくがひきます! バイオリン、上手くなったのですよ!」
え、あの、その。そういうことではなくて。
「それとも、ヴァーノンが相手じゃ、おいやですか?」
「そんな事ないわ。ヴァーノンは素敵な殿方ですもの。でも、お仕事とはいえ、もし恋人がいるなら申し訳が……」
「なんだそんな事を気にしているのか。『あーん』までした仲だろう。恋人がいたらあんなことはしない。今さら寂しいことを言うな」
「なっ、なっ」
ああああなた! 殿下の前でなんということを!
思いっきりヴァーノンを睨み付けてやれば、さっきまでとは打って変わって、意地の悪そうな笑みがある。
この顔! この顔見たことあるわ! 悪のり! 悪のりするときの顔! カフェの時に仕返ししていたときの顔だわ!
はっ、この男……! ドSじゃないの……!?
頬に熱が集まってくる。ヴァーノンが、私に近づいてくる。
殿下の視線に合わせてしゃがんでいた私の前に来ると、膝を折った。
「お手をどうぞ、レディ。殿下の『願い』だ」
甘ったるい声で、ヴァーノンは私を誘う。
殿下は私に期待の目を向ける。
こんなの、断れるわけないじゃない!
私は恨みがましくヴァーノンを睨みながら、渋々差し出された手に、自分の手を重ねる。
大きな手。節ばった、逞しい指。
その手に引き上げられる。
私がヴァーノンに手を引かれて立ち上がると、殿下がととっと離れた。
すっと慣れた手つきで腰に手が添えられる。
ひゃっ、う、本当に踊るのっ?
離れていった殿下を見れば、いつの間にやらヴァイオリンを持ってきてるし。どこに置いてあったのよっ。
私が混乱している内にも、ヴァーノンは応接室のソファのすぐ側で、ダンスのポーズを取る。そっと私の耳元に唇を寄せた。
「力を抜いて」
腰が砕けるような甘いハスキーボイス。零れる吐息が耳に吹きかかる。
頬の熱が、体全体に広がっていく。
「なっ、なっ」
「貴女は本当に猫みたいだな」
くくっと笑うけど、私を挙動不審にしているのはあなたなんですからね!
抗議しようにも、これはもう何を言っても無駄な気がするわ。さらりと二倍にも、三倍にもして返してくるのを知ってるもの。
私はじろりとヴァーノンを見る。腰に添えられた腕に、私も手を添えた。
「……一回だけよ」
「あぁ」
「ありがとうございますお姉さま!」
私、元々押しには弱いけど……さすがに二人におねだりされては断れないわ。
私は姿勢をただす。背筋を伸ばして、体を柔らかく、ヴァーノンに預ける。
「では、ひきますね!」
合図と共に殿下ご自慢のバイオリンが披露される。
細く、長く、たなびく弦の響きに合わせて、ヴァーノンが私をリードする。
ゆったりと流れるバイオリンの音色。
ふかふかの絨毯に、ヒールとブーツがステップを刻む。
くるくると、ソファとローテーブルの回りをなめらかに円を描くように踊る。
騎士の嗜みとしてダンスも習っているのか、踊っていても全く違和感はない。むしろ、かなり踊りやすくて……端的に言えばとてもお上手。
パーティーに行ってもダンスをすることがほとんどないから、むしろ私の方が鈍っちゃってて下手に見えるかもしれないわ。
三拍子のリズムに合わせて足を運ぶ。
でも……うん、大丈夫。リードが上手いし、ワルツくらいなら余裕ね。
応接室をゆったりと回りながら、視線だけちらりとパートナーに向ける。彼と一度くらい踊りたいなぁとは思ったけれど、まさか本当に踊れるなんて夢みたい。
パーティーではないけれど、パーティードレスに身を包んでいるから、舞踏会気分を味わえるのは嬉しい。ドレスを着てきてと言ってくれた殿下に感謝しないとね。
「まさか、貴女と踊れるとは思わなかった」
ヴァーノンが、私にだけ聞こえるくらいくらいの声で囁く。視線だけじゃなくて、顔ごと上向く。
今、なんて? 心を読まれたのかと思って身構えてしまう。
「クラヴェリ家のパーティーで貴女を見かけた時にダンスに誘うおうとして、パトリック様に止められた。俺の身分では、貴女とダンスをする機会など早々無い。むしろあれが最初で最後の機会かもしれないと思ったが、人生とは不思議なものだな」
ヴァーノンが、私をダンスに誘おうとしたの?
……なぜ?
いや、だってね? ご機嫌伺いのために誘うならともかく、ヴァーノンの言葉を聞く感じ、私の立場を知らないときに誘おうとしたってこと、で、は……
え、え? つまりそういうことなの?
せっかく収まっていた熱が、また頬に集まってくる。
「どうした、ステップが疎かになっているぞ」
「だ、誰のせいだと……!」
「俺のせいだと嬉しいな」
ふっと目を細めて微笑みかけてくる。
そそそれってどういう!?
「あっ、きゃっ」
「おっと」
混乱のあまりにステップを間違える。足がもつれて、姿勢を崩した。
ヴァーノンが私の腰に添えていた手に力を入れる。足を捻る前に、私を支えた。
逞しい腕が、私の細い腰に回る。私の背中が少しだけそった。彼の顔が近づく。
「そのドレスで踊れるとは、殿下に感謝だな。この軽さは、貴女が妖精だからだろうか」
「なっ、なっ」
「妖精の貴女も良いが、子猫になる貴女もまた好きだ」
言葉も出ないとは、まさにこの事。
私はぱくぱくと口を開閉する。砂糖菓子よりも甘い言葉に何か言ってやりたいけど、残念ながら私の辞書からそれに対抗するような言葉は出てこない。
ヴァーノンが私の腕を軽く引いて、姿勢を正してくれる。いつの間にか殿下のバイオリンの音色は途切れていた。
バイオリンを持って、殿下が私の側までやって来る。
「お姉さま、とてもおきれいでした! でもちょっとだけ、いっしょにおどるヴァーノンがうらやましいです」
すねたように殿下がヴァーノンを見上げる。ヴァーノンは私から体を離して殿下の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「羨ましいと思うなら、最初からやらせるな」
「むぅ……でもお姉さまのおきれいなすがたを見られたので、いいです!」
どうだ、羨ましかろうと胸を張る殿下。ヴァーノンが笑いながら、ますます殿下の髪をかき混ぜる。
「お姉さま? どうしました? つかれましたか?」
私は殿下の声にハッとした。いけないいけない、さっきのヴァーノンの言葉に混乱するあまり、ぼーっとしてしまった。
まだドキドキと心臓がうるさい。
頬の熱が下がらない。
どんな顔をしてヴァーノンを見れば良いのか、分からない。
知らない熱が、体の奥底から沸き上がってくる。この感情を、私は知らない。
「だ、大丈夫よ。それよりも殿下、バイオリンが上手になられましたね」
「わかりますか! 一曲ぜんぶ、ひけるようになりました!」
ヴァーノンから視線をそらして、殿下を見る。殿下は嬉しそうに笑った。私もつられて微笑む。
「もっとゆっくり聞きたいわ。弾いてくださいますか?」
「お姉さまのおねがいなら、いくらでもひいてみせます!」
やる気に満ちた海の色を見て、私の心臓はだんだんと落ち着いていく。あー……殿下の無邪気さが、心に染みるわぁ……。
殿下にエスコートされて……というより手を引っ張られて、ソファに座らされる。
殿下がローテーブルを挟んで前に立つ。さていざ弾こうというところで、ヴァーノンが殿下に話しかけた。殿下に話しかけているはずなのに、私の心がどきりと跳ねる。
「殿下、私はそろそろ失礼する。騎士団の方に顔を出しに行くゆえ」
「わかりました。いってらしゃいです」
ダンスの時のような柔らかさが幻のように荒々しく絨毯をブーツで踏みつけた。ヴァーノンは扉の前で一礼して退出する。礼をした後、顔をあげたとき、私と一瞬視線が合った気がした。
自意識過剰……かしら。どうかしら。
気のせい、気のせいよね。きっとそう。あの視線に、深い意味はない。私の、勘違い。
でも、視線に意味はなくとも。
ヴァーノンの言葉の意味、は。
おさまっていたはずの熱が、また私の頬を染める。
なんで、なんでこんなに体が熱くなるの。
「お姉さま? やっぱり、おつかれですか?」
またやってしまった。考え事をするあまり、ぼんやりしてしまった。
様子がおかしいと思った殿下が、気づかってくれる。不安そうに揺らめく海色の瞳。その瞳に映りこんだ私が微笑んだ。
「心配しないで。でもそうね、殿下が私のために素敵な曲を弾いてくれたら、私はもっと元気になるわ」
「ほんとうですか? それならぼく、お姉さまが元気になるようにひきます!」
有言実行とばかりに、殿下はバイオリンを構えた。
ゆっくりと流れ出す、バイオリンの音色。
私はそっと耳をすませた。
───さざ波の立つ胸を、落ち着けるように。




