第九話 人生最大の窮地
呼吸をするたびに、肺が押し潰されそうな圧迫感に襲われる。
冴木刹那が身に纏う霊気は、これまで戦ってきた刺客たちのような荒々しい妖気ではない。
限界まで無駄を削ぎ落とし、ただ敵を確実に裁断するためだけに研ぎ澄まされた、冷徹極まる刃の意志そのものだった。
「冴木……刹那……」
俺はその名を口の中で呟きながら、じんわりと滲み出る冷や汗を拭うこともできずにいた。
腰の工具袋に入った竹筒は、なおも壊れたアラームのように激しく光を明滅させ、カタカタと狂ったように揺れている。
黒江の器だけでなく、回収してきた敵の器たちが、眼前に立つ男が発する異常な霊力に反応して、恐怖で悲鳴を上げているかのようだった。
「蓮様、お下がりください……っ!」
黒江が、俺を庇うように一歩前へ出た。
普段なら甘え混じりの声を上げる彼女の背中が、今は見たこともないほど緊張で強張っている。
その全身から溢れ出る青黒い墨の霊力は、冴木が放つ刃のような霊圧に触れるたび、チリチリと音を立てて削り削がれていく。
「気をつけるのですわ、あの男自身の霊気……刃そのものが、【金】の極みにまで到達しております……!」
五行説において【金】は【木】を断ち切る絶対の天敵。
かつて戦った少女小夜の『量りの天秤』も【金】の器だった。
目の前の冴木が纏う【金】の霊気は、小夜のそれとは桁が違いすぎる。
ただそこに立っているだけで、周りの空気が目に見えない刃となって俺たちの皮膚を浅く切り裂いていくと感じるほどだ。
「黒江……無理はするな。相性が悪すぎる」
「いいえ! 蓮様をお守りするためなら、相性など何の意味も持ちませんわ! あの男、蓮様の命を本気で奪いに来ています……! ここで叩き潰しますわ!」
黒江が両手を広げ、足元の石畳を黒く染め上げた。
「『純愛塗潰・黒蓮華』っ!!」
ドバッ!!
地面から湧き出した漆黒の墨が、巨大な連華の形を成して冴木へと襲いかかる。
路地裏の狭い空間を埋め尽くすほどの質量と、極限まで高められた黒江の【木】の霊力。直撃すれば、並の妖怪なら一瞬で押し潰されて封印される強力な一撃だ。
だが——。
シュッ……。
静かな風の音が一つ、夜の静寂を切り裂いただけだった。
「……愚かな」
冴木は担いでいた太刀を、まるで日常の動作のように、ただ一筋だけ横に振った。
一閃。
銀色の閃光が走った瞬間、黒江が解き放った巨大な墨の連華が、一切の抵抗もなく上下にスッパリと二つに切り裂かれた。
切断面から墨の霊力がブワッと瓦解し、無害な黒い水となって石畳へ散っていく。
「な……!? 私の障壁と攻撃が……一瞬で……!?」
黒江が息をのむ。
【金】は【木】を断つ。
その五行の原則を、最もシンプルかつ残酷な形で突きつけられた瞬間だった。
「こんなん、雀のお遊戯ですわ」
冴木の後ろには、妖艶な深い紫色の遊女姿の、美しい女が浮かび上がって見えた。
あれはおそらく刀の付喪神。
その姿からも相当の強さの怪異であることがわかる。
「言ったはずだ、遊戯は終わりだと」
冴木は踏み込んだ。
目にも留まらぬ踏み込み。
一瞬で間合いを詰められた俺の目の前に、冴木の冷ややかな切れ上がった瞳と、黒く光る太刀の刃先が迫る。
「くっ……!」
俺は咄嗟に腰から両刃の鑿を抜き、刃先を斜めに傾けて冴木の太刀を受け止めようとした。
職人としての直感が叩き込んだ、刃物の衝撃を逃す受け流し。
ガギィィィィンッ!!!!
激しい金属摩擦音とともに、火花が夜の闇を散らす。
腕全体に、ダンプカーに激突されたかのような強烈な衝撃と痺れが走った。
「ぐああぁぁぁっ!?」
「蓮様っ!!」
衝撃を逃しきれず、俺の身体は路地裏にあった廃墟の壁へと激しく吹き飛ばされた。
背中がコンクリートの壁に叩きつけられ、口から苦い血の味が広がる。
手にした鑿を見れば、刃先が綺麗に削れ、柄の木部分に深い亀裂が入っていた。
(な……なんだこの重さと切れ味は……!? 受け流すことすら……刃先を削り取られる……!?)
俺は必死に呼吸を整えながら、膝をついて冴木を睨みつけた。
今までの刺客は、器の能力に依存したトリッキーな攻撃が多かった。
だが、この冴木刹那という男は違う。
自らの剣技と【金】の霊気を極限まで高め、背後の付喪神の力を補助として使いこなす、完全無欠の暗殺者だ。
「ほう……我が一撃を受けて、手首を折られることもなく鑿の刃で受け流したか」
冴木は太刀を眼前に構え直し、薄く唇を歪めた。
「道具の構造を知り尽くした者ゆえの、理に叶った受け技。なるほど、羅刹様が貴様を『理を乱すバグ』と警戒された理由が分かった。だが……その程度の工夫で、理そのものを超えられると思うな」
瞬間、素早い動きで三人に見える冴木。
それお同時に太刀を構え、俺を取り囲むように間合いを詰めてくる。
左の冴木から漂う圧倒的な殺気。
中央の冴木から発せられる風の切り裂く音。
右の冴木が踏みしめる石畳の振動。
そのどれもが「本物」の気配を纏い、どれもが虚像のように揺らめいている。
(くそっ……! 【金】の絶対的な切れ味に加えて、あの動き。隙がねぇ……!)
俺は血を吐き出しながら、なんとか立ち上がった。
視界が赤く染まり、体力を激しく削られていく。
減らしてきた借金、九重堂の復興、そして死者を弄ぶ黒幕どもをぶっ潰すという誓い。
ここで終わるわけにはいかない。
「蓮様……私が……私が囮になりますわ……!」
血を流しながら、黒江が俺の前に立ちふさがろうとする。
その瞳には、自分の身を捨ててでも俺を逃がそうとする悲壮な決意が宿っていた。
「やめろ、黒江! 無茶をするな!」
「いいえ! 私にとって、蓮様がいらっしゃらない世界など……何の価値もございません! この命、蓮様のために捧げますわっ!」
「黒江ええぇぇぇっ!!」
黒江が全身の霊力を狂乱させ、自らの身体を巨大な墨の塊へと変えようとした、その時。
「——そこまでだ」
突然、三人いた冴木の虚像が一瞬でブレ、実体である中央の冴木がピタリと動きを止めた。
パチ……パチ……。
路地裏の入口から、聞き覚えのある呑気な拍手が響く。
「いやあ、危ない危ない。九重くん、間一髪セーフといったところかな?」
煙草の煙をゆらりと吐き出しながら現れたのは、陰陽寮の神崎正宗だった。
だが、その表情からはいつもの軽薄さが消え、その手に構えられた古びた符には、凄まじい密度の朱色の霊光が宿っている。
「……神崎か」
冴木は太刀を下ろすことなく、冷ややかな視線を神崎へ向けた。
「陰陽寮の狗が出ばってきたか。……こいつを庇うつもりか?」
「ハハハ、庇うも何も、彼は我が陰陽寮の大切な協力業者でね。これ以上、君たち好き勝手に街を荒らされたら、私の始末書が何枚あっても足りないんだよ」
神崎が符を指先で弾くと、朱色の陣が路地裏全体に展開され、冴木の放つ紫の光を押し返していく。
「……なるほど。陰陽寮の結界術か。厄介だな。今日のところはここまでにしておこう」
冴木は深追いすることなく、あっさりと太刀を鞘に納めた。
その佇まいには、強者の絶対的な余裕が漂っている。
冴木は去り際、俺を冷たい瞳で見下ろした。
「九重 蓮。今回は命拾いしたな。だが、覚えておけ……次に出会った時、貴様のその職人の知恵ごと、その首を切り落としてやる」
不気味な光とともに、冴木刹那の姿は夜の闇の中へと消え去っていった——。
圧迫感が消え去り、俺はその場にガクリと崩れ落ちた。
「蓮様っ! 蓮様ぁぁぁっ!!」
黒江が泣き叫びながら俺に抱きついてくる。
多すぎる借金、立ちはだかる最強の刺客・冴木刹那、そして深まる敵の脅威。
俺たちの命を賭けた修繕の戦いは、いよいよ最大の窮地へと突入しようとしていた。




