第八話 出来損ないの蘇り
※読者のみなさまへ(閲覧注意)
この回には、人物の死亡描写および一部グロテスク・刺激的な表現が含まれます。
苦手な方や気分を害されるおそれのある方は、閲覧をお控えいただくか、ご自身の体調に合わせてお楽しみくださいますようお願い申し上げます。
焦げた匂いと、生暖かい血の匂いが、夜の冷気と混ざり合って路地裏に立ち込めていた。
石畳の上に広がった鮮血は、街灯の鈍い光を反射してどくどくと黒ずんでいく。
その中央で、首筋を食いちぎられた男が、最後まで愛娘の名を喘ぐように呟きながら息絶えた。
「ア……ガガ……ッ……」
父親であった肉体を喉に詰まらせながら喰らい尽くしたそれが、ゆっくりと首を回した。
かつては愛らしかったであろう赤い着物は血と脂でドロドロに汚れ、土気色の皮膚の下には、不気味な黒い血管が太いミミズのように脈打っている。
落ち窪んだ目洞には光など一切なく、ただ生者の肉を求める本能の飢餓だけが黒く蠢いていた。
「蓮様……あれは、もう人間ではありませんわ……」
俺の背中に身を寄せた黒江の声が、微かに震えていた。
これまでどれほど強力な刺客や凶悪な付喪神と対峙しても、決して揺らがなかった黒江の霊気が、不快感と恐怖で弱々しく波打っている。
五行の理から完全に外れた存在してはならない歪み。
命を修繕したのではない。
死体に泥と妖気を詰め込み、動く肉塊として騙しているだけだ。
「……分かってる」
俺の右手は、腰の工具袋に差した片刃の鑿の柄を、砕けよとばかりに強く握りしめていた。
指先が痛いほど冷たい。
自分の命を狙ってきた敵なら、職人の知恵と黒江の力で叩きのめし、器を奪って生かして帰すこともできた。
だが、眼前にいるのは生きている者ではない。
死者を蘇らせたいという人間の切なる願いを踏みにじり、悪意で練り上げられた惨劇の残骸だ。
(これを……俺の手で断ち切らなきゃいけないのか……?)
胸の奥が、氷の錐で刺されたように痛む。
——俺は職人だ。
壊れた骨董を直し、途切れた想いを現代に繋ぎ止めるのが俺の生き方だったはずだ。
壊すためではなく、遺すために道具を握ってきた。それなのに、今俺がしようとしているのは、この哀れな少女のカタチをした怪物を「殺す」ことだ。
「ガアァァァァッ!!」
亡者が床を蹴った。
幼い身体からは到底考えられない跳躍力で、血に濡れた爪を剥き出しにし、俺の喉元へ襲いかかってくる!
「蓮様っ!!」
黒江が前に出ようとした。
だが、俺は左手を伸ばし、彼女の肩を力強く制した。
「……引き下がるな、黒江。俺がやる」
「蓮様!? ですが、」
「俺の代わりに、お前にこんな悲しい真似をさせられるかよ!」
叫ぶと同時に、俺は足裏で濡れた石畳を強く踏みしめた。
視界がスローモーションのように引き引き伸ばされる。迫り来る亡者の歪んだ顔面、その胸の奥で、不気味な緑色の妖光を放つ小さな破片が見えた。
死体に偽りの生命を送り込んでいる、化生の器の核だ。
骨董の修理で、一番苦しい作業がある。
それは、再生不能になった素材を、ノミで削り落とす瞬間だ。
削らなければ全体が腐る。だが、削るということは、かつて誰かが大切に作った形を永遠に奪うことでもある。
痛みを忘れるな。刃を入れる責任から逃げるな。
親父に叩き込まれた職人の鉄則が、頭の中で激しく鐘を鳴らした。
「……すまねぇ」
俺は低く呟き、極限まで踏み込んだ。
亡者の爪が俺の頬をかすめ、一すじの血が走る。
その痛みを無視し、俺は右手の鑿を、寸分違わず少女の胸の核へ向けて突き立てた!
ズウゥゥゥンッ……!!
骨と肉を貫く不快な感触が、柄を通して掌に直伝する。
次の瞬間、俺は左手で先の戦いのかけら、懐の練り墨を掴み、刺さった鑿の身を伝わせるようにして、亡者の胸の中へ直接叩き込んだ。
「黒江……! 浄化の霊力を流し込め! 苦しないように……一瞬で消してやれ!!」
「……はいっ!! 蓮様……私と蓮様の絆の墨よ。この哀しき魂に、安らぎを与えなさいな!!」
黒江が俺の背中に両手を重ねた。
俺の身体を伝って流れ込んだのは、暴走する嫉妬の炎でも、熱を遮断する高粘度の練り墨でもない。
ただただ温かく、穏やかな、命の痛みに寄り添うような純粋な愛の霊力だった。
墨が亡者の全身の黒い血管を駆け巡る。
ドロドロとした妖気が浄化され、泥となって崩れていく。
「ア……ぁ……」
胸を貫かれた亡者の少女から、野獣のような呻き声が消えた。
一瞬、その濁った目洞に人間らしい静かな光が宿り、小さな口元が感謝するように綻んだ気がした。
サァァァ……。
少女の肉体は血の塊となることもなく、黒江の墨とともに美しい黒い砂となって、夜風にさらさらと崩れ去っていった。
あとに残ったのは、血に染まった小さな赤い着物の切れ端と、カラリと音を立てて転がった無機質な化生の器のかけらだけだった。
「……っ……!」
俺はその場に膝をついた。
両手を見る。鑿を握りしめていた掌が、ガタガタと震えて止まらない。
命を救えなかった。
助けを求めていた親子を、ただ残酷な現実の結末へ叩き落としただけだった。
「蓮様……」
黒江がそっと隣にしゃがみ込み、震える俺の手を両手で優しく包み込んでくれた。
彼女の手の温もりが、冷え切った指先からじんわりと伝わってくる。
「お辛いですわね……。蓮様の優しいお心が、傷ついていらっしゃるのが分かりますわ……」
「黒江……俺は……」
「逃げなかった蓮様を、私は誇りに思います。あのまま放置され、化け物として誰かを喰らい続けるより……蓮様の手で引導を渡されたこと、あの女の子はきっと、感謝していますわ」
黒江はそう言うと、俺の頭を胸元へ抱き寄せた。
木の匂いと、黒江の甘い和墨の香りが鼻腔を満たす。
泣くまいと歯を食いしばっていたが、黒江の温もりに触れた瞬間、目元から熱いものが溢れそうになった。
死者を蘇らせるという甘い言葉。
それは、愛する者を失った人間の弱みにつけ込み、地獄へ引きずり落とす最悪の毒だ。
この死のゲーム。その裏で糸を引く黒幕どもは、この悲劇を知りながら、高みの見物を決め込んで争奪戦を楽しんでいるのだ。
「……許さねぇ」
俺は涙を拭い、黒江の腕の中からゆっくりと立ち上がった。
膝の震えは止まっていた。腹の底から、冷たく荒々しい怒りの火が燃え上がっていた。
「こんな不条理なシステム……死者の未練を踏みにじって笑ってる黒幕どもを……俺が絶対、ぶっ壊してやる」
「はい、蓮様。どこまでもお供いたしますわ。蓮様の怒りは、私の怒りですもの」
黒江が固い決意を秘めた瞳でうなずく。
俺は地面に落ちていた化生のかけらを拾い上げ、布で厳重に包んで工具袋へ放り込んだ。
もう、誰もこんな目に遭わせない。
そのためには、俺自身がこの戦いに勝ち続け、すべての化生の器を回収して、この狂ったゲームのシステムそのものを解体するしかなかった。
それにしてもこの人が咲かない街並みの中とはいえ、酷い惨状だ。
早く陰陽寮に連絡を入れてなんとかしないと。
スマホを取り出し、何度か電話をかけるが、一向に繋がらない。
仕方ないメッセージだけを送る。
「神崎さん、ちょっとまずい事態です」
この場に誰も入らないように処理をしないといけない。
黒江と2人で墨の結界を作る支度をしていた。
夜風が頬の傷を刺すが、胸の中の怒りの火は消えるどころか、静かにその密度を増している。
「蓮様、お怪我の手当を急ぎませんと。九重堂に戻りましたら、私が心を込めてお手当を……あ、ついでにお着替えのお手伝いも……!」
「手当だけでいい。脱がそうとするな」
いつもの調子を取り戻そうとツッコミを入れた、その時だった。
腰の工具袋の底から、ズキンと強い衝撃が走った。
「なっ……!?」
俺は思わず足を止めた。
工具袋の奥深くにしまってある竹筒。
回収した化生の器や、黒江の竹筒が、尋常ではない勢いで跳ねていた。
カタカタカタカタッ!!
いや、微振動などという生易しいものではない。
竹筒の隙間から漏れ出る光が、まるで壊れた信号機のように、赤と緑と紫の妖光を激しく明滅させているのだ。
「蓮様! 竹筒が……こんな反応、今まで一度も……!」
黒江の顔から冗談めかした色が瞬時に吹き飛んだ。
彼女の全身の髪が、静電気を帯びたように逆立つ。
次の瞬間——。
ゴオォォォォォ……ッ。
音が、消えた。
風の音も、遠くの街の喧騒も、虫の羽音すらも。
空気が一瞬にして、カチリと凍りついたかのように重くなった。
ドツンッ!!
胸に巨大な鉛の塊を突きつけられたような、圧倒的な圧迫感。
肺が押し潰され、息を吸うことすら困難になるほどの強烈な霊圧が、上空から降り注ぐ。
「一体なんなんだ、今日は……」
「……来る……蓮様、上ですわっ!!」
黒江が叫び、俺の腕を掴んで後方へ跳び退いた。
ドッスゥゥゥンッ!!!!
俺たちが一秒前まで立っていた石畳が、爆発したかのように弾け飛んだ。
煙と砂塵が巻き上がり、街灯の光を遮る。
カツン……カツン……。
静まり返る路地裏に、金属の拍車が石を叩く冷たい足音が響いた。
煙の奥から這い出てくるのは、これまでの刺客たちのような泥臭い妖気ではない。
研ぎ澄まされた日本刀の刃先のように鋭く、一切の情を削ぎ落とした、圧倒的な殺意の塊。
「……ほう。影朧の【火】と【木】の連撃を破り、亡者をも処理したか。ただの修繕屋にしては、なかなかにしぶとい『バグ』だな」
煙が晴れた先。
そこに立っていたのは、漆黒の漆塗りの甲冑を部分的に纏い、長大な太刀を肩に担いだ一人の男だった。
男の冷酷な切れ上がった双眸が、俺と黒江を射抜いた。
「な……誰ですの、あの男……!?」
黒江が牙を剥き出しにし、警戒を最大級に高めて俺の前に立ち塞がる。
見たこともない顔、だが放たれている圧迫感は、これまで戦ってきたどの刺客とも段違いだ。
この戦いにおいて明らかに最多の器を倒してきただろう最強の刺客。
「我が名は冴木 刹那。……羅刹様より、貴殿の直接排除を命じられた者だ」
男は太刀の柄に手をかけると、冷ややかな蔑みの笑みを浮かべた。
「遊戯は終わりだ、九重 蓮。貴様がこれ以上、五行の理を弄ぶ前に……ここでその首を落とす」
絶体絶命の圧迫感の中、俺と冴木の視線が激しく激突した——。




