第九話 ドロスが語る夜・完成の朝
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その夜、リサが矢を一本ずつ手に取り、軸のしなりを確かめていた。ドロスがその手元をしばらく見ている。それから弦を指で弾いた。低い音が工房に短く響いた。
「俺の弓が原因で友が死んだ」
独り言のような言い方だったが、リサに向けていた。リサは手を止めた。
「若い頃の話だ」
炎が揺れる。クルが炎の横で耳だけをわずかに動かした。
「友はこの工房で一緒に弓を作っていた職人仲間だった。お互い、いかに強力な弓が作れるかを競い合っていた。弓のしなる部分を太くして硬く乾燥させれば、より強い弓が作れると思っていた」
ドロスが弓を作業台に置き、両手を台の縁について俯いた。
「そしてとうとう今までにない強力な弓が完成した。俺は弓を手に取り、工房の巻き藁に向かって矢を放った」
そこで一度言葉が止まった。
「その瞬間、矢が真っ二つに折れて真横に飛んだ。そして隣に立っていた友の喉に刺さった」
リサは息を呑んだ。胸の底が冷えていく感じがした。ドロスの横顔。油皿の光が頬の深い皺と白い眉を照らしている。この人が何十年も工房に一人でいた理由が今初めて分かった気がした。
「矢が柔らかすぎた。弓の押し出す力に耐えきれなかった。強い弓にこだわりすぎて調整することを疎かにしていた。……お前さんは弓の調整をしっかりやっている。だから言える」
リサは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
ドロスは窓の方を見ていた。リサの頷きに気づいたのかどうか分からない。夜が更けるにつれて床から冷気が這い上がってくる。炎が小さく揺れた。煙が細く上がる。クルの寝息が聞こえ始めた。
どれくらい経ったか、ドロスが立ち上がって道具を片付け始めた。作業台の上を手で払って鑿を木箱に戻す。それからリサの方を見ずに、作業台の端に干し肉を一切れ置いた。いつものことだった。それがドロスなりの気遣いだとリサは知っていた。
「帰れ。続きは明日だ」
リサは立ち上がった。弓を壁に掛け、クルを促して扉を開ける。夜の冷気が顔に当たった。
「おやすみなさい」
ドロスは答えなかった。もう作業台に向かっている。
翌朝、夜明け前から二人は動いていた。
言葉はなかった。何を確認するにも手の動きと目だけで済んだ。油皿の炎が揺れるたびに弓の木目が細く光る。
弦を外して弓の幹の表面を細かい石で磨く。握りの部分は手のひらが吸いつくくらいになるまで磨いた。押し手の骨格がぴたりと乗る場所。力を入れなくても弓を支えられる、あの感触だ。仕上げに、しなる部分の両端を確かめた。ドロスが指で押して微妙な角度を直す。弦を張って片目を閉じ、弦の向こうに弓を透かして見た。弓の中心に弦を合わせるのだ。少し右にずれていた。ずれている方のしなり部分を少し削って調整する。もう一度確かめると、弦が弓の中心に来た。
削る音が止んだ。
ドロスが弦を弾いた。低い音が工房に一度だけ響く。昨夜より澄んでいた。しばらくしてドロスがリサの方を向き、目を逸らしながら弓を差し出した。
「これはお前の弓だ」
リサは両手で受け取った。
軽くはなかったが重すぎもしない。弦の張りが掌に伝わってくる。木の温もりもあった。押し手を添えると、骨格にぴたりと乗る感触がある。体の一部になった感じがした。矢じりには青銅を使った。ドロスが古い工具を潰して用意したものだ。クルに触れた時、自分の脳裏に流れてきた映像にあった照準器と安定器具はない。今ここにある素材だけで作られた弓。飾りが何もない。だからこそ弓そのものの形だけが残っていた。ドロスが呟く。
「十の歳から鉋を握って五十年、これが一番美しい弓かもしれん」
「美しくて、一番強い弓ですね」
リサが答えた。ドロスが鼻を鳴らす。それが最上の賛辞だとリサは知っていた。
窓の外が白くなっていた。
朝になってから行商人が来た。
月に一度この村に立ち寄るのだが、来るたびに旅先で仕入れた噂話を持ってくる。この前は「ドラヴァルの兵が見たことのない弓を持っていた」と言っていた。今日もリサが工房の扉を開けた時、男がちょうど通りかかった。
「おや、いい弓だ」
男がリサの手元を見て言い、またすぐに別の話を始めた。
「ドラヴァル帝国に弓の神様と呼ばれる若い軍事顧問がいるそうですよ」
リサは聞いていた。ドラヴァル帝国。行商人が来るたびに話していく国だ。セリア国の北にある、あの痩せた山岳の小国。それがここ数年で急に力をつけ、隣国へ兵を出している。小国でありながら帝国を名乗り、周辺を圧迫し始めた。その背景に何があるのか、まだ誰も分かっていなかった。
「金属の照準板と弓の重心を保つ道具のついた弓で、矢が届く限りの距離を外さないとか」
リサの手が止まった。金属の照準板。重心を保つ道具。
頭の奥で別の誰かの記憶が一斉に動いた。〈サイト〉、〈センターロッド〉、〈サイドロッド〉。
言葉が次々と浮かぶ。自分の言葉ではないはずなのに意味は全部分かった。
行商人はもう別の話をしている。リサはその声を聞いていなかった。
手の中の弓を見た。飾りのない弓。この村の素材だけで作れる今の最高の形。
自分の頭にあるものと同じものが、ドラヴァルにもある。
朝の光が工房の扉から差し込んでいた。ドロスがいつも通りの顔で作業台に向かっている。クルが足元に来て、鼻先をリサの手に押しつけた。温かかった。
リサは弓を握ったまま、しばらくそこに立っていた。
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