第八話 アーチャーズパラドックスの奇跡・接着剤の革命
毎日投稿予定。
空き地に着いたのは朝のうちだった。先日アレックと切り出した竹で作った矢を数本持ってきている。藁を束ねた簡単な的を設置して、二十歩ほど離れたところに立つ。矢を番えて引く。一本目は的の中心から右に外れた。二本目は左。三本目はまた右。矢によって外れる方向が違う。弓の引き方は同じはずだった。
(なぜ方向がばらつく?)
首をかしげながら矢を一本ずつ手に取った。その時、頭の奥で記憶の欠片が疼いた。クルに触れた日に流れ込んできた映像の断片。弓の強さと矢の硬さの関係を示した、あの図だ。矢の断面と曲線。数字ではなく形で示されていたあの図が、今になって意味をなしてくる。
(矢の硬さが合っていなければ、弦の力を受けた瞬間に矢のしなり方が変わる。柔らかい矢は右にぶれ、硬すぎる矢は左にぶれる。弓の強さに合った硬さの矢でなければ、どれだけ引き方が正確でも真っすぐ飛ばない)
あの図が言っていたのは、そういうことだった。リサは矢を二つに分けた。しなりやすい竹で作ったもの、節が詰まって硬めのもの。柔らかい方を番えて引く。矢は右に外れた。次に硬い方。今度は左に外れる。やはりそうだった。どちらも合っていない。自分の弓の強さに合った硬さの矢を、最初から選ばなければいけなかった。
(これがスパインか)
言葉が頭に浮かんだ。意味は分かる。どこで覚えたかは分からない。あの映像が今日初めて実物と繋がった。
工房に戻ると、ドロスが珍しく長い時間黙っていた。
工房の床は土になっている。リサは膝をついて工具箱から適当な長さの木の棒を取り、その先で地面に線を引いた。
弓を真上から見た図。弓の位置、弦の中心、矢の付け根。三点を結んで一本の真っ直ぐな線を引く。ドロスが腕を組んでそれを見ていた。
「矢を飛ばした時、羽はここを通り過ぎる」
リサは弓の中心位置を示した。
「矢が弦から離れる。ここから真っ直ぐ飛べば、弓の本体に羽が当たる」
「当たる?」
「でも、実際には当たらない」
ドロスが低い声で唸った。リサは線を描き直した。今度は曲線だ。弦から離れた矢がいったん内側にたわんで、それから弧を描いて的の方向へ向かう軌跡。
「矢は真っ直ぐ飛んでいない」
「……?」
「放たれた瞬間、矢がたわむ、軸が曲がりながら進む。その曲がりが弓の本体をかわして前へ出る。うねりながら飛んで、的に向かう」
ドロスの手が止まった。削りかけの木片を持ったまま、地面の曲線を見ている。長い沈黙だった。
「矢がたわむのか?」
「材質が柔らかすぎればたわみすぎて右へ逃げる。硬すぎればたわみが足りず、弓の本体をかわしきれずに左へぶれる。弓の強さに合った硬さの矢でないとうまくかわせない。弦の通る線から矢がどれだけ外へ出ているか、その量も関係している。矢がたわんで羽が弓を避けて通る余裕を、そこで調整する」
ドロスは何も言わない。作業台に木片を置いてまた地面の図を見た。それからリサを見る。
「……お前、本当に何者だ。どこでそんなことを知った?」
囁くような声だった。
「分からない。でも頭に浮かんできた」
本当のことだった。頭の奥で言葉が光っていた。〈アーチャーズパラドックス〉。弓の中央に向かって放たれた矢が蛇行しながら弓を避けて飛ぶ現象。なぜ腑に落ちるのか自分でも分からない。ただ意味は体で分かった。
ドロスはもう一度地面の曲線を見てから、声を立てて笑った。工房に笑い声が響く。最近では珍しかった。
「お前は本当に人間か?」
昼過ぎ、ナイアが工房に来た。
布巾で包んだ何かを大事そうに両手で持っている。扉を押して入ってきた瞬間、甘い匂いが広がった。蜂蜜の匂いだ。ナイアが布巾をそっとほどくと、小さな琥珀色の固まりが並んでいた。
「作ったの。お姉ちゃんとアレックが森から取ってきた蜂蜜を煮詰めて木の実を混ぜた」
ドロスは手元から目を離さない。リサが一つ口に入れると甘さが広がってから木の実の苦みが来た。
「うまい!」
ナイアが顔を輝かせた。その瞬間、工房の隅の方からするりと人影が現れた。
「あら、おいしそう」
メイルだった。いつの間に入ってきたのか分からない。薄い布を体に巻きつけたような格好で、金色の髪が工房の薄明かりの中で少し光っている。大きな目が布巾の上の菓子をまっすぐに見ていた。獲物を見つけた空腹の小動物みたいな目だった。
「だめ、これはお姉ちゃんに持ってきたの」
ナイアが布巾を胸にかき抱いた。
「一個だけ」
「だめって言ってるでしょ」
「ほんの一個。小さいやつでいい」
「小さいやつも私の」
メイルがするりと手を伸ばした。ナイアが身をよじって避ける。メイルが反対側から回り込む。ナイアが今度は逆に動く。工房の中を二人がぐるぐると回り始めた。ナイアが「こっちこないで!」と笑い声交じりに叫び、メイルが「一個くらいいいじゃない」と涼しい顔で追いかける。棚の角を曲がり、作業台をぐるりと回り、またドロスの前を横切る。
クルが鼻をひくつかせて立ち上がった。甘い匂いの方へのそのそと歩いていく。
「クルもだめ!」
ナイアが片手でクルの鼻先を押さえた。クルは押さえられたまま、「クゥン」と甘えた声を出した。尾だけが左右に大きく振れている。メイルがその隙に手を伸ばした。ナイアが「ずるい」と言いながらまた身をよじる。クルがまた鼻を鳴らし、今度は前脚を床についてお座りの姿勢で訴えた。
ドロスが「ふんっ」と息を吐いた。表情はないが、それがドロスの笑いだとリサは知っていた。工房が笑い声で騒がしくなった。
メイルがふと動きを止めた。地面に引いたままになっていた曲線の図を、しゃがんで指でなぞる。弓の位置から出て、いったん内側にたわんで、弧を描いて的へ向かう、あの軌跡だ。しばらくそうしていて、それから窓の方を見た。
「世界って真っ直ぐじゃないもんね」
「え、なに?」
とナイアが聞いた。メイルは「ううん」と答えて、また菓子の方に目を戻した。リサはその言葉を聞いて、地面の曲線のことを思う。うねりながら飛んで、それでも的に当たる。この世界も、この矢も。
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夕方、ドロスが膠の鍋を前に唸っていた。
「従来の膠は湿気で剥がれる」
独り言のような言い方だった。
「雨の翌日に弓を引くと矢羽が浮いていることがある。気づかず放つと飛びが変わる」
作業台の隅に松脂の塊と、細かく砕いた樹皮の欠片が転がっていた。何かの足しになるかと試して、うまくいかず放り出したものらしい。リサは松脂の塊を手に取った。指で押すとじわりと油が滲む。
「松脂は熱に強い。でも単体では硬くなりすぎて衝撃で割れる。膠と混ぜれば柔らかさが出る。樹皮の粉が繊維になって割れを抑える」
頭の中で手順が見えていた。〈ホットメルト〉。熱で溶かして接着し、冷えると固まるもの。あちらでは矢じりを留めるのに使っていた、という感覚が一緒に来た。
「熱を加えながら混ぜる。それを矢羽の根元に薄く塗って押さえながら冷ます」
ドロスが黙って試した。小鍋に三種を入れ、火にかけながら木べらで混ぜる。とろりとした茶色い液体になった。乾かした矢羽の根元に薄く塗り、矢の軸に貼って親指で押さえる。
冷えるのを待った。
ドロスが貼りついた羽を指で引いた。剥がれない。もう少し強く引いた。剥がれない。横に力をかけた。それでも剥がれない。ドロスが矢を作業台に置き、長い間、黙って見ていた。
「……これだけで弓の寿命が変わる」
静かな声だった。驚いているのか感心しているのか、たぶん、両方だ。
貼り直す時間があれば、膠が乾くまで待つ。それが村では当たり前だった。誰もおかしいとは思っていなかった。その当たり前が、この調合一つで変わる。
夜になった。
炉に小さく火を起こし、その横に完成した矢が並んだ。六本。長さと重さが揃っていて、羽の取り付け角度も同じだ。石を円形に並べた炉の火が揺れるたびに矢の軸が細く光る。木屑と膠の匂いが混ざっていた。外は静かだった。
ドロスが一本手に取って軸を指で弾いた。澄んだ音がした。それから矢を元の場所に戻して炉の火を見る。
「お前の弓は」
低い声だった。
「こんな小さな村で収まるもんじゃない」
リサは答えなかった。矢を見ていた。六本の矢が並んでいる。うねりながら飛んで、それで的に中たる。そういうものが今ここにあった。
クルが炉の横に腹を下ろして目を細める。炎が揺れた。矢の影が壁に伸びた。
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