第七話 三点の重なる場所・弓を握らない理由
毎日投稿予定。
その朝、ドロスが工房に来るなり近射台の前にリサを呼んだ。
「型が固まってきた頃だろう。確かめる」
それだけ言って作業台に戻った。リサは試作弓を手に取り、近射台の前に立つ。
射線を跨いで足を肩幅に開き、両足のつま先を射線に揃える。右手の指を弦にかけた。左腕を前に向け、弓の握りに手のひらを当てる。弓は握らず親指と人差し指の又の部分に重みを受け止めさせるように、そっと添える。
引き始めた。押し手はそのまま微動だにしない。弦が顔に近づいてくる。頬の感触が変わった瞬間が分かった。引き手の人差し指の第一関節が頬骨の下に触れる。次に弦が鼻の頭に触れる感覚。薄い膜が一枚鼻の上を通っていくような感触だった。引き手の肘をわずかに上げた。
三点が揃った時だけ、矢は真っ直ぐ飛ぶ。弦にかけた指を開いた。弦の音が工房に響く。矢は近射台の巻き藁の中心に刺さった。ドロスが背中を向けたまま言った。
「今、何を揃えた。言ってみろ」
リサは弓を持ったまま答えた。
「持ち手の一番深い一点、弦と頬が接する一点、引き手の肘。この三点が一直線に並んだ時、体の軸と矢の軸が平行になる。真っすぐ押して真っすぐ放つ。そうすれば矢は正しい軌道に乗る。鼻先に触れる弦は、その三点が毎回同じ場所に収まっているかを知らせる目印。矢筋の三点は、力を真っ直ぐ伝えるための軸です」
「弦を引いて顔に付けるだけでは足りないということか?」
「足りない。弦が接する頬と鼻先が揃っても、引き手の肘が外に逃げていれば力が分散する。全てが揃って初めて矢がまっすぐ飛ぶ」
ドロスは何も言わず作業台の上の木片を一度だけ指で叩く。しばらくして小さくうなずいた。
工房にアレックがやってきたのは昼前のことだった。試作弓を見て、どう構えればいいか分からない顔で立っている。
「俺も試していいか?」
「どうぞ」
アレックが近射台に向かって弓を構えた。左手で弓の握りをしっかり掴む。引いて放つ。矢は巻き藁の端に当たって跳ね返った。
「なんで中らない?」
「握りすぎてる」
「弓は握るものじゃないのか?」
二人の会話を聞いていたドロスが言った。
「リサ、見せてやれ」
リサは弓を受け取り、左手のひらを弓の握りに添えた。骨で支える感覚。親指と人差し指の又の部分に重みを乗せて、残りの指はそっと軽く添えるだけ。力を入れていない。
「……力、入ってないじゃないか」
アレックが声を上げた。
「入ってない方が中る」
「なんでだ? 力を入れなければ弓がぶれるだろ」
「試してみればいい。強く握った時と軽く添えた時でどっちがぶれるか」
アレックが再び弓を構えた。今度は握りを強く掴む。人差し指と中指が白くなるくらい力を入れた。引いて放つ。矢は巻き藁の中心から大きく外れた。
「……」
もう一度。今度はリサの言う通りに手のひらを添えるだけにした。信じていない顔だった。引いて放つ。矢は巻き藁の中心に近い位置に刺さった。アレックが弓を持ったまま動きを止める。
「なんで力を抜いた方が中るんだ?」
ドロスが鼻を鳴らし、リサに向けて目を細めて言った。
「説明してみろ」
リサは弓を見た。
「矢が飛んだ後も弓は振動しながら自然な動きを続ける。弓を強く握ると、その自然な動きに手の力が加わり、弓にねじれや横方向の力が発生する。その結果、矢の飛び方が不安定になる。弓の性能を邪魔してはいけない」
「邪魔?」
「弓を握りしめると腕の力みが弓に伝わる。そして矢の飛ぶ方向がずれる。力で押さえつけるほど、ずれる」
アレックが眉を寄せた。
「じゃあ握らなければ、射つ時弓を放り投げて飛んでいくんじゃないか?」
「それを止めるのがこれだ」
ドロスが棚の奥から細い革紐を取り出した。前にリサが図面の隅に描いたものを、黙って作っていたらしい。親指を通すと手首に巻きつく形の道具だった。頭の奥で知らない言葉が光る。〈ボウスリング〉。どこで覚えたのか分からない言葉だった。放した後に弓が前に落ちないよう手首で受け止める道具だ。弓を握らなくていいから、力を抜いて押せる。
リサはその革紐を受け取って左手首に通した。試作品で縫い目が少し粗かった。構えて引いて放つ。弓が前にわずかに揺れ、手首の革紐が受け止める。矢は巻き藁の中心に刺さった。
工房に静かな時間が流れた。ドロスがしばらく黙って、矢を放つ時のリサの顔だけを見ていた。
「一体どこを見ているんだ?」
ドロスが言った。リサへの問いだった。
「的は見えています。でも意識しているのは、頬骨と弦の触れる感覚と、肘の位置だけです」
工房の東向きの小窓から朝の光が入ってきて、作業台の上だけを照らしている。アレックも黙っていた。
夕方になって工房に戻ると、ドロスがまだ作業台に向かっていた。背中を見せたまま振り返らない。リサはいつもの場所に腰を下ろした。クルがついてきて足元に伏せる。外から声は聞こえなかった。削る音だけがしていた。
リサは膝の上に弓を置いて左手のひらを見た。弓の握りの跡が薄く残っている。今朝の感覚がまだそこにあった。
しばらくしてドロスが、作業台の上に何かを置いた。新しい弦だった。細くて均一で、昨日まで使っていたものより明らかに丁寧に撚られている。
「続けろ」
ドロスはそれだけ言って作業に戻った。リサは弦を受け取り、手のひらの上で少し重さを確かめた。クルが鼻先をそちらに向けて、また伏せる。ドロスの削る音だけが残った。
そういえば今日、ナイアが「もうすぐお姉ちゃんの誕生日だね」と言っていた。14になる。リサは特に何も感じなかった。矢が数本、そこに並んでいた。
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