第六話 消えていくもの
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蜂蜜を取ってから数日が過ぎた昼下がりだった。広場で村の子供たちが魔法で遊んでいる。
水面に気泡を作る。指先に小さな灯りを灯す。葉っぱを宙に浮かべてくるくると回す。誰でもできる力だった。この村に生まれた子供なら、7、8歳のうちには自然と覚えていく。リサもその年の頃は普通にできた。でも急にできなくなった。ドロスの工房で弦の音を聞いた、あのころから。
リサも輪の中に入り、指先に意識を集めた。いつもの感覚を探す。何も起きない。もう一度。また、何も起きない。隣で友達のタリアが軽く手を振ると、掌の上に橙色の灯りがふわりと浮いた。こちらを見ていない。何でもないことのようにやっていた。
輪の端にナイアがいた。じっと見ていた。自分の手のひらに目を落として、それから顔を上げてまた輪の中を見る。また手のひらを見た。指先に何かを集めようとしているのが分かった。でも何も起きていない。ナイアは生まれた時から魔法が使えなかった。この村では珍しいことだった。本人もそれを知っている。それでも時々、こうして試していた。誰にも見せない顔で。
タリアが手を止めて振り向いた。
「リサ、どうしたの? 最近ちょっと変よ」
声に悪意はない。ちょっと確認しただけなのだが、それがかえって痛く感じる。「最近」という言葉が今日だけの話ではないことを示していた。リサは少し笑って「そうみたい」と答える。うまく笑えたかどうか分からなかった。
輪を抜けて工房の方へ歩いた。後ろから子供たちの声が聞こえる。笑い声と魔法の気配。遠ざかるにつれて胸の奥がじわっと重くなった。「なんで私だけ魔法が使えなくなったの?」という言葉が浮かんで消えた。
工房の前まで来てリサは足を止めた。木屑の匂い、膠の匂い、削る音。いつもと何も変わらない。それなのに今日は中に入るのを少しためらった。
ゆっくりと扉を押して入ると、ドロスが作業台に向かっていた。試作弓の調整の続きだ。「また来たか」とも言わない。手元から目を離さなかった。リサはいつもの場所に腰を下ろす。工房の奥の壁には近射用の台が設えてあった。丸太を組んで高さを揃え、その先に藁をきつく束ねた巻き藁が固定してある。弓の調整をするたびに何本か矢を放って振動の収まり方や矢飛びを確かめるための台だ。初めて工房に来た時からそこにあったが、リサが弓を引いて矢を放つのはここでは初めてだった。
しばらくしてドロスが試作弓を持ち上げ、弦を張り、慎重に指で張り具合を確かめてからリサに差し出した。リサが弓を受け取ると、害獣退治をしたあの日と同じ感触が手のひらに戻ってきた。あの時に使った弓はこの工房に元からあったものだった。今ドロスから受け取った弓は自分たちで削り出した。
右手の指を弦にかける。左腕を前に出す。握りを骨格で支え、引き始めた。ゆっくりと滑らかに。引き幅が決まる感覚を体の中で待ちながら、近射台の巻き藁に目を向ける。引き幅が決まった、と感じた瞬間に指を開く。
弦の音が工房に響いた。
その瞬間だった。頭の奥で記憶の断片が閃く。瑞々しい草の匂い。遠くで黄色い旗が風にはためく。矢が的に刺さる、あの低くて鋭い音。そして声。声の主の顔は見えなかった。
(気持ちのいい一射を放てばいいんだよ)
どこかで聞いたような声だった。急に喉の奥が熱くなった。リサは弓を持ったまま、しばらく動けなかった。ドロスは何も言わない。クルが隅から静かに移動してきてリサの足元に座る。大きな体がリサの膝に少しだけ触れた。それで呼吸が戻った。
気づくと工房の隅に誰かいた。
いつ入ってきたのか分からない。ドロスも気づいていなかったのか、手を止めなかった。白っぽい薄い布を纏った、リサより少し年下に見える少女だ。金色の髪に透き通るような肌。壁に背中を預けて、パンを小さくちぎりながら口に運んでいる。リサはしばらく黙ってその少女を見た。少女は気にした様子もなく、また一口食べる。飲み込むのに少し手間取った顔をした。少女がパンを頬張りながら口を開く。
「ふふふ、やっと会えたわ。こっちに呼んだのはいいけど、どこに落ちたのかわかんなかったからずいぶん探したのよ」
「え?」
「それにしても、人間って毎日これ食べてるの?」
工房の空気に全く馴染まない問いだった。ドロスが手を止めてその少女を見る。リサも返す言葉がなかった。ドロスが首をかしげながら口を開いた。
「誰だ? この村の子じゃないな」
少女はドロスには答えずに続けた。
「人間の体って窮屈ね」
ひとりごとのようだった。誰かへの不満でも、会話のきっかけでもなく、本当にそう思っているから口に出た、という感じだ。リサには意味が分からない。少女の視線がリサの手元に落ちた。弓を見ている。それから近射台の巻き藁を見た。さっき矢が刺さった場所を確かめるような目だ。
「さっきの、クルから流れ込んできたものと似てたでしょ」
「『さっきの』、って?」
唐突だった。リサは少女の顔を見た。
「あなたの頭の中に浮かんだ風景よ」
「……知ってるの?」
「洪水みたいだったんじゃない? いろんな映像が一気に来て、頭が割れそうででも止まらなくて。知識の洪水現象よ」
リサは何も言えなかった。その通りだったからだ。あの感覚、「知識の洪水」という言葉は確かにそうだった。少女はまたパンを一口食べる。ほっぺを膨らませながらおいしそうに食べた。
「弓の引き方も矢の作り方もあの中に全部入ってたはずよ。洪水の中のひとつが弦の音で出てきた」
少女の言うとおり、何かが急に浮かび上がってくるという感覚のことを言っているのだと分かった。少女がリサをまっすぐ見る。
「怖かった?」
「ううん。怖くはなかった」
「そう」
それだけで少女は視線を外した。また別のことを考え始めたような顔をしていた。
リサは弓を台に戻した。ドロスが調整を加え、また手渡す。的へ向けて放つと、矢は大きく揺れながら飛び、狙いより外側に刺さった。ドロスが弦を指で弾き、眉を寄せながらつぶやいた。
「さっきから同じところで暴れる」
「矢が暴れるのは弦の力を矢がまっすぐ受けられていないからよ」
少女が口を挟んだ。ドロスが振り返り、リサも少女の方を見た。少女はパンをちぎりながら続けた。弦と矢の位置関係を指で示し、矢が弦の力を受けて前に飛ぶ瞬間に何が起きているかを簡単な言葉で話す。
「あなたが描いた図面の弓、あれで正しいわよ。両端の曲がりが逆になってる形。あれがリカーブ構造って言うんだけど」
リサは少し驚いた。あの図面のことを、この少女が知っている。
「知ってる。図面はもうある」
「あら、そう」
少女は特に驚かず、また口にパンを入れた。説明を聞きながら、リサの頭の中で何かが動く。あの知識の洪水の中に確かに似た映像があった。弓の構造はただの棒じゃない。両端が引く方と逆側に反り返っている。
「お菓子と引き換えに手伝ってあげる。あなた、あっちの世界のお菓子の作り方も知っているはずよ」
少女がにこりともせずに言った。「あっちの世界」とはどういう意味なのかリサには全く分からない。交渉しているのか冗談なのか判断がつかない。ドロスが鼻を鳴らした。
夕方までかかって改良を重ねたが三度失敗した。一度目は矢が大きく暴れ、二度目は握りに巻いた留め木が折れた。三度目にリサが指を切る。ドロスが傷を一瞥した。それから工房の隅の少女へ顔を向ける。
「発明ってのは失敗の山だ。……お前さん、弓を知っているな。手伝え」
ドロスは笑っていた。工房でドロスがあんな顔をするのをリサは初めて見た気がする。ドロスが続けた。
「名前は何という?」
「メイルよ、よろしくね。あっ、いいのいいの。ドロスとリサでしょ」
ドロスとリサが名乗ろうとしたら止められた。なぜ自分たちの名前を知っているのか分からなかったが、特に不思議とも思わなかった。
メイルはその間ずっと隅にいて、ドロスの手元を見ながら時々口を挟んだ。直接教えるわけではなかった。「そこが問題じゃないかしら」とか「もう少し薄い方がいいんじゃない?」とか、そういう言い方だ。正解を言うのではなく、考える方向を示す。何かを知っているのにわざと全部は言わない。
四度目の改良で、矢が近射台の巻き藁の中心に近い場所に刺さる。ドロスが無言で弓を見て、それから少しだけ頷く。それがドロスの評価だった。工房の外から子供たちの笑い声が聞こえた。メイルもつられたように小さく、ふふと笑った。
夜になって、リサは工房の外で弓を持ったまま夜空を見ていた。クルが足元に伏せている。工房からメイルが出てきた。足音がない。気づいたら横にいた。メイルは少しの間、黙って空を見ている。それから小さく言った。
「……急がないと」
「え? なにを」
と聞くと、メイルは「ううん、独り言」と答えた。この子が何者でどこから来たのかを問う気になれない。この場所に不釣り合いなのにもかかわらず、妙に自然だった。クルがメイルの方を一度だけ見て、また目を閉じた。
翌朝、工房に来るとメイルはいなかった。ドロスも特に何も言わない。
夕方、空き地に来た。竹の矢を放つ。中心から右へ外れた。もう一本、今度は左へ。矢の揃えのせいだと分かっていたが、それだけではない気もした。
弦だけを指で弾く。低い音が夕暮れの空き地に響いた。工房で初めて聞いた時と同じ音のはずが、今日はただの音だった。
矢を拾って番え直し、放つ。中心に刺さった。腕は確かに上がっている。それでも、逆に何かが静かに減っていた。
その夜、ナイアが声をかけてきた。夕食の片づけを一緒にしながら、ナイアが少し遠慮がちに言った。
「お姉ちゃん、魔法、最近やってないね」
リサは手を止めなかった。
「弓の練習の方が忙しいから」
「でも前は毎日やってたでしょ」
「うん」
ナイアはしばらく黙ってから、追いかけるように続けた。
「やろうとしたけど、できなかったとか?」
目が良すぎる、とリサは思った。
「少し、やりにくくなってる」
「病気?」
「違うと思う」
「じゃあ何?」
「分からない」
本当のことだった。クルに触れてから流れ込んできたものと関係があるのか、弓の練習を重ねていることと関係があるのか、あるいは全く別の理由があるのか。何も分からなかった。ナイアが皿を拭く手を止める。
「怖い?」
リサは少し考えた。
「怖くはない。ただ、変な感じがする」
「どんな」
「ここにあったものがここにない、みたいな」
胸の少し下のあたりを手のひらで押さえた。ナイアが真剣な顔でその手を見る。それからまた皿を拭き始めた。しばらくして小さく言った。
「お姉ちゃんがいなくなるわけじゃないなら、まあいいか」
リサは答えなかった。「いるよ」と言おうとしてやめた。この前海辺で言った言葉をまた繰り返すのが怖い。根拠のない言葉を重ねていくのが。ナイアは、リサのそんな様子を気づかないふりをして鼻歌を歌い始めた。
その夜、夢を見なかった。
明け方近くに目が覚めて天井を見る。ナイアの寝息が聞こえた。窓の外は暗い。夢を見ない夜は最近増えていた。以前は毎晩のように見ていた。芝生の広い場所。遠くに並んだ丸い的。見慣れない弓を持った人たち。あの映像が薄くなっていた。完全に消えたわけではなく、輪郭が曖昧になっている。細部が思い出せなかった。
リサは布団の中で指先を動かした。何も起きない。おかしい、という感覚はもうなかった。これが今の自分だ、という感覚がある。失っているのか、それとも別のものに変わっているのか、まだ判断できなかった。ただ、弓を引く時の体の感覚だけが夜ごとに確かになっていた。的の位置が体に入ってくる感じ。矢が飛ぶ軌道が目に見える感じ。魔法を使っていた頃にはなかった感覚だった。
クルがベッドの横で寝ている。大きな体が静かに上下していた。
あの映像は本当に夢なのだろうか、自分の中にあるもう一つの記憶のような感じがしてならない。
リサはゆっくりと目を閉じた。
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