第十話 弓の哲学・非殺の誓い・三年の月日
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矢を並べた。あれから作りためた十五本だ。
村外れの試射場に朝の光が差し込んでいた。草地が広がっていて端に藁を束ねた的が並んでいる。一番遠い的までは大人が歩いて百歩以上かかる距離だった。リサは十五本を手に取り、まず五本を続けて射った。
一本目は的の少し右に外れた。二本目は中心に近い。三本目はまた右。四本目は中心。五本目は左に外れた。
矢を一本ずつ手に取って見比べた。竹の節の間隔が違う。乾燥の具合も違う。柔らかいものと硬いものが混じっている。スパインだ、と思った。さっきの五本の散らばり方がそのまま当てはまった。
残りの十本も一本ずつ射って外れた方向を確かめた。右に外れたものと左に外れたものを、それぞれ別の山にした。真っ直ぐ飛んだものだけを手元に残す。最終的に十本が揃った。
揃った矢がどこまで届くのか、まだ知らない。
リサが矢を仕分けし始める前にドロスが来ていた。少し離れた場所に腕を組んで立ち、黙って見ている。
「……何してんだ? あれ」
後ろで村人の声がした。いつの間にか何人か集まっていた。
「矢を射てる」
「見れば分かる。何のために」
「さあ……何かの儀式じゃないか」
リサは聞こえていたが振り返らなかった。選り分けた十本を持って立ち上がる。クルが隣に来て鼻を空に向けた。ドロスが近づいてきて声をかけた。
「何をやっている?」
「矢を選んでいました」
「理由は?」
「硬さが揃っていないと弓がどれだけ良くても矢がばらばらに飛ぶ。射って飛び方を確かめれば硬さで選り分けられる」
ドロスは「ふーむ」と言ったっきり、腕を組んだまま黙って見ていた。
的は試射場の端に立ててあった。藁を束ねて牛の形を模して作ったもので、等身大、頭の部分には丸く印がついている。
「あんな距離、人の顔も見えねえぞ」
「中るわけない」
最初に見ていた数人が誰かを呼びに走ったらしい。試射場の後方に人の列ができている。老人が「職人の狩人でもあんな遠くは射たん」と言い、誰かが「あの距離で中たるわけがない」と続けた。人垣の間からアレックが抜けてきてリサの横に並んだ。
クルが耳を動かし、「ワンッ」と小さく吠えた。
風だ、とリサは思った。クルの耳の向きが変わった。なぜかそれで分かった。試射場に吹いてくる風は一定ではなく、的の手前で向きが変わる。リサは目を細めて遠くの草の揺れを見た。風の流れを読んで狙う場所を頭の中で微調整する。クルが鼻先を向け、リサが同じ方向を向く。二人の間にまだ言葉のない呼吸があった。
リサは弓を持ち、矢を番える。
「……いける」
無意識に呟いていた。隣にいたアレックが小声で聞く。
「いけるって、何が?」
リサは答えなかった。体がそう感じたのだ。
足を揃えて体を横向きにする。持ち手に押し手を添える。弦を引き始めた。からだの重心が安定している。完全に引き切った状態で矢筋を通す三点が揃う。〈ピボットポイント〉、〈アンカー〉、肘。
呼吸を止めた。
指を開いた。
矢は見えなかった。細い線が空気を切って消える。一拍おいて的から音がした。「ズサッ」という微かな音。
二本目を番えた。引いて放つ。三本、四本、五本と同じ動作を繰り返した。的の方向を意識しない。三点が揃った瞬間に矢はそこに向かうと体が知っていた。
十本目を放って弓を下ろした。
三名ほどの村人が的まで駆けて行った。遠くから「おお!?」と声が響く。しばらくして戻ってきた村人の手には先ほどリサが放った矢があった。一人が興奮しながら言う。
「的の頭部分に十本の矢が束になって刺さっていた!」
試射場がざわめいた。どよめきが広がり、誰かが「嘘だろ」と言い、別の誰かが的の方向をもう一度見る。老人が目を細める。以前「守り手だ」と言った年配の女が「あの距離で……」と呟いて口を閉じた。驚きが先に来て、言葉がそれについていかない、という顔だ。
畏怖と戸惑いが混ざった空気が試射場に広がっていた。
「技術ってのはな」
ドロスが言った。
「凄すぎると人を怯えさせる」
リサは答えなかった。
人が散り始めた頃、アレックがまだそこに立っていた。村人たちの顔を目で追っている。
「みんな、怖がってる」
責めているわけではなかった。
「分かってた」
リサが答えた。アレックはしばらく的の方向を見ていた。それから続ける。
「もし誰かが村を襲ってきたら、守れるか?」
「守れる」
「どうやって?」
「急所は外して、できるだけ武器だけを弾く」
勝つために相手を壊すのではない。狙ったところへ、狙った通りに中てる。それができることが強さだ。
頭の奥に言葉がひとつ浮かんだ。〈アスリート〉。意味は感覚で分かった。言葉が唇まで来て、とっさにつなげた。
「アスリートとして、それが私の誇りよ」
少しの間があり、アレックは前を向いたまま聞いた。
「アスリートって何だ?」
リサはうまく説明できなかった。
「……技術で勝つ人間のこと」
「そうか」
アレックはそれ以上聞かなかった。クルが二人の間に割り込んで腰を下ろす。試射場の朝の光が少しずつ強くなっていた。
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遠く離れたドラヴァル帝国の軍営に一人の男がいた。
若かった。しかし天幕の中に静けさがあった。金属の照準板のついた弓を手に持ち、弦を一度だけ指で弾く。澄んだ音が天幕の中に短く響いた。部下が報告を持ってくる。
「南の小さな村に、変わった弓使いが現れたという噂が入っております」
男は弓を置いて地図を広げた。広大な地図の中にセリア国の輪郭が描かれている。
「セリア国の動きは?」
「変わりません。ただ、百歩先の試射で、放った矢が全て命中したそうです」
男は地図から目を離さなかった。
「子供だそうです。年の頃は14か15。遠距離でも外さないと」
「セリア国は大きい。民が多く、弓を使う者も多い」
男が静かに言った。
「我が国のおよそ十倍の規模。油断はできない相手だ」
部下が「はっ」と答えて下がった。男はまた弓を手に取り、弦を一度だけ弾く。同じ澄んだ音がまた響いた。男はまた地図に描かれたセリア国に視線をおとした。
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その年、ペルネア村に冬が来た。雪は少なかった。
リサは朝いちばんに工房の扉を押すのが習慣になっていた。ドロスより早く来て、炉に火を入れておく。最初の頃は「余計なことをするな」と言われた。三ヶ月ほど続けたら何も言われなくなった。
その日、リサが火を熾していると、後ろで扉が開いた。
ドロスが入ってきて、いつもの位置に座らずに壁の前へ歩いていく。掛けてある弓を一張り外した。試作でも注文品でもない。半年ほど前から、ドロスが誰にも触らせずに削っていたものだ。
「持て」
差し出された。
リサは手を拭いてから受け取った。軽い。自分の弓より一回り小さく、引きも軽い。それでいて、握りの深いところに手が吸いつく。
「……子供用ですか?」
「阿呆。女の腕に合わせたんだ」
ドロスは作業台に戻りながら言った。
「お前の弓は強すぎる。あれは形を覚えるための弓だ。毎日引くならこっちにしろ。強い弓で癖をつけると一生直らん」
リサは弓を見た。
リムの厚みが均等でない。中央を残して先端へ向けて薄く落としてある。自分が図面に描いて、まだ形にできていなかった処理だった。
「これ、私が言った……」
「言われた通りにやったら折れた。三張り折った」
ドロスは削り屑を払いながら続けた。
「四張り目だ。持っていけ」
リサは何も言えなかった。
半年、この人は黙って三張り折っていた。折ったことも、なぜ折れたのかも、一度も口に出さずに。
「あの」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
「礼を言う暇があったら引け」
背中は振り返らなかった。
その日から、リサは毎朝その弓を引いた。三ヶ月で射形が変わった。半年で、村の誰も見たことのない矢の飛び方をするようになった。
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二年目の夏、街道に野盗が出た。
行商人が三度続けて荷を奪われた。村の若い衆が交代で街道の見張りに立つようになり、リサもその輪に入った。獣とは違う、と年長の男が言った。獣は追い払えば帰る。人間は帰らない。
その夕方、リサは街道の脇の低い丘にいた。クルが横に伏せている。
街道の先に、荷車が一台。
行商人だった。月に一度この村へ来る、あの男だ。
その前後に、影が四つ。
クルの耳が前を向いた。
リサは弓を持ち上げた。
距離は六十歩。夕陽が背中から差している。風はほとんどない。
(急所は外す)
自分で言った言葉だ。あの試射場の朝、アレックに向かって守れると言い切った時の。
一人目。腰の剣帯の金具を狙った。矢が金具を弾いて、剣ごと地面に落ちる。男が悲鳴に近い声を上げた。
二人目。振り上げた棍棒の先を射た。手から飛んだ棍棒が草むらへ消える。
三人目が荷車の陰に隠れた。
四人目が行商人の背後に回った。
手に刃物がある。
リサの指が止まった。
狙える。首の後ろが見えている。この距離で外したことは一度もない。
(外せない)
武器だけを弾くには、刃物と行商人の背中が近すぎた。腕を狙えば、その勢いで刃が男の背に入る。
時間が引き伸ばされた。
夕陽。草の匂い。クルの呼吸。行商人の背中。
(じゃあ、どうする?)
答えは、狙う場所を変えることではなかった。
リサは矢を空へ向けて放った。
高く。真上に近い角度で。矢は弧を描いて、四人目の男の三歩先の地面に突き立った。
男が跳ね上がった。
その一瞬で、リサは二の矢を番えていた。今度は水平。刃物を持つ手首の外側、皮一枚のところを掠めさせる。刃が落ちた。
行商人が地面に伏せる。
クルが走った。
四人が逃げるまで、それから十を数えるほどもかからなかった。
その夜、リサは工房の隅に座っていた。
弓は膝の上にある。手が震えていた。矢を放った時ではない。放てなかった、あの一瞬を思い出すと震えた。
ドロスが話しかける。
「外したのか?」
「……殺しませんでした」
「中てられたのにか」
「中てたら、あの人が死んでしまいますよ」
削る音が止まった。
「弓は中てる道具だ。的を外す道具じゃない」
「……はい」
また鳴り始めた。
「だが、急所を外す腕がねえ奴に、中てるかどうかを選ぶ資格はねえ」
リサは顔を上げた。
ドロスの背中は動かなかった。
「それでいい」
技術で勝つ、と自分は言った。あの言葉の裏側にあるものを、この夜に初めて教わった気がした。
リサは震えが止まるまで工房にいた。削る音が、ずっと横で鳴っていた。
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三年目の秋、アレックが工房に来た。
珍しく朝早くに来て、扉の前で立ち止まったまま入ってこない。リサが呼びに出ると、変な顔をしていた。見つかって気まずいのに、それを悟られたくない時の顔だ。
「なにやってるの?」
「……別に」
「入れば」
「いや」
そう言いながら入ってきた。
中に入ってからも、しばらく作業台のあたりを見ていた。壁の弓。並んだ鑿。炉の火。
ドロスが顔を上げずに言った。
「用がねえなら邪魔だ」
「あります」
アレックの声が硬かった。
「弟子にしてください」
削る音が止まった。リサも手を止めた。
ドロスがゆっくりと振り返る。上から下までアレックを眺めて、それから鼻を鳴らした。
「なぜだ?」
「……剣を振っても、リサに追いつけないからです」
正直すぎる答えだった。
リサは何か言おうとして、やめた。
ドロスがもう一度鼻を鳴らした。
「弓を引きたいのか?」
「いえ」
アレックが首を振った。
「作る方です」
少し間があった。
「理由は?」
「あいつが引く弓を、あいつ以外の誰かが作ってるのが嫌なんです」
言ってから、アレックが真っ赤になった。
言い直そうとして、うまい言い方が見つからなくて、結局そのまま黙った。
ドロスが笑った。声を立てて笑った。工房でその声を聞いたのは、リサはこれで二度目だった。
「不器用だな」
「よく言われます」
「木を舐めたら死ぬぞ。弓ってのは、人の腕の前で折れるもんだ」
「はい」
「明日から日の出前に来い。遅れたら帰す」
アレックが深く頭を下げた。
工房を出てから、リサは追いかけた。
「アレック」
「……何も言うな」
「言ってない」
「顔が言ってる」
二人で村の道を歩いた。
秋の風が畑の上を渡っていく。刈り入れの済んだ麦の匂いがした。
「ねえ」
「なんだよ」
「ありがとう」
アレックは前を向いたまま、何も言わなかった。
耳だけが赤かった。
---
その年の暮れには、試射場の朝の畏怖はもう薄れていた。残ったのは「守り手」という呼び方だけだ。
害獣は減った。野盗は街道を避けるようになった。「あの村には弓手がいる」と他所で話しているらしいと、行商人自身が教えてくれた。
朝、工房に着くと、炉にはもう火が入っている。アレックが先に来ているのだ。ドロスは何も言わない。三人分の削る音が工房に響くのが、いつの間にか当たり前になっていた。
変わっていくものと、変わらないものがある。
夢の頻度は落ちていた。あの芝生の広い場所も、遠くの丸い的も、月に一度見るかどうかになっていた。忘れかけている、と思う夜もある。
それでも弓を引く時の体の感覚だけは、日ごとに確かになっていった。
その感覚が何なのかを、リサはまだ知らない。
知る日は、もうすぐそこまで来ていた。
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