第十一話 クルとの連携・美月の覚醒・帝国の影
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試射場のあの朝から三年が過ぎ、リサは17歳になっていた。
早朝の草原にリサは立っていた。夜明けの空気がまだ肌に冷たい。弓の稽古のため、村外れのこの草地に通う日々が続いていた。
クルが北を向いた。
秋の始まりの風が草地を斜めに渡っていった。リサは弓を下ろした。いつもの警戒や索敵とは少し違う静止の仕方だ。
「どうしたの?」
クルは「クーン」と鼻を鳴らし北の方角を見たまま動かない。リサも内陸の方を見た。木立の向こうに低い丘の輪郭が見える。丘の先は北の山だ。その向こうに何があるかは知らない。
一年ほど前から、動く的を狙う稽古を始めていた。
静止した的への精度はもう十分なところまで来ていた。難しいのは動くものを狙う時だ。練習用に矢じりを丸くつぶした矢を数本用意していた。動く的を狙うためだけの矢だ。アレックが縄の端を握って草地の向こうへ走ると、藁を詰めた盾が地面を滑っていく。矢を放つ。矢は盾が通り過ぎた場所に落ちた。遅い。体が静止した的の感覚のまま動いていた。
動きを追えば矢筋が崩れる。矢筋を通そうとすれば動きに乗り遅れる。風の読みも加わって、三つを同時に処理しようとするとどれかが崩れた。
ある朝、クルが草地に出てきた野兎を追いかけた。リサは反射的に弓を構える。放つ。外れた。野兎は茂みに消えた。
クルが戻ってきた。足元に来て顔を見上げた。
その時、頭の中に何かが届いた。言葉ではない。方向だった。矢を放つ場所の感覚が直接来た。今放った場所より少し先。野兎が今いる場所ではなく、これから行く場所を予測する感覚。
「今のはクル?」
クルが尻尾を一度だけ振った。
翌朝から渡り鳥を使った。速い。小さい。最初の三日は一本も中たらなかった。クルが位置の感覚を送ってくる。でも頭で処理しようとすると詰まった。矢筋が通る瞬間には頭で考えていない。体が知っている状態になっている。クルの感覚も同じだった。感覚が届いてきた瞬間に体を反応させる。頭では考えない。
四日目の朝、次の群れが来た。クルが耳を動かした瞬間、リサは弓を持ち上げた。考えない。クルから来た軌道の感覚をそのまま体に流す。矢筋を通す。矢先はすでに鳥の群れが進む先を向いている。
指を開いた。
一羽の羽が一枚だけ落ちた。
クルが静かに立ち上がって羽のところまで歩く。鼻先で一度だけ触れて振り返る。リサは羽を拾った。狙っていたわけではなかったが、結果としてそうなっていた。
「クルが感知役で、私が射ち手ね」
クルがまた尻尾を大きく振った。
その瞬間だった。
クルから何かが来た。いつもの位置の感覚や方向の感覚とは違う。もっと深い場所から来る感じがした。リサの胸の内側で、長く強張っていたものがゆるむ感触があった。
あ! と思った瞬間、頭の奥で断片が動き始めた。何かがもうすぐそこまで来ている、そんな予感だけが残った。
その日の夕方、行商人が広場に来た。予感の続きは、思いがけない形でやってきた。
月に一度この村に立ち寄る男で、旅の噂話を気前よく話す人だった。リサが広場を通りかかった時、男はちょうど話の途中だった。
「帝国の軍事顧問の話、聞きましたか? 照準板と安定棒のついた端っこが曲がった弓で、矢が届く限りの距離を外さないとか」
リサの足が止まった。
照準板、安定棒、端っこが曲がった弓。
三年前にも、同じ男から似た話を聞いた。あの時は照準板と安定棒だけだ。あの時は言葉が浮かんだだけで終わった。今日は違った。
朝から動き始めていた断片が、一気に走り出した。
〈サイト〉、〈スタビライザー〉、〈リカーブ〉。
言葉だけではなかった。感触が体に戻ってきた。手のひらに残っている形。持ち手の太さ。引いた時の弦の抵抗。競技として弓を引いていた誰かの記憶が、今この瞬間に輪郭を持った。
頭が少し痛かった。リサともう一人別の誰か、両方の記憶が同時にある感じ。この村の十七年とは別の場所、別の時間。どちらも夢ではなかった。
(私は……、)
リサとしての記憶がそのままある。お母さんの笑顔。お父さんの大きい声。ナイアの寝息。クルの温かさ。ドロスの削る音。何一つ消えていない。それと同時に、別の場所から来た記憶も同じくらい鮮明にここにある。
射場の匂い。刈りたての芝の青さ。70メートル先の的。そして、そこに立つもう一人の私。
(私は……、美月)
声に出さなかったが確かに来た。あやふやな感覚ではなく、実感として。
(私は、桜麗大学洋弓部三年生、佐倉美月)
頭の痛みが引いていた。代わりに、リサの十七年の手ざわりが少しだけ変わった。
行商人の話が続いていた。リサはその声を聞いていなかった。
手の中の弓を見た。この村の素材だけで作られた弓。飾りのない形。この手がずっと引いてきた弓。でもその前から別の世界の弓を引いていた手だった。
(リサとしているこことは別の世界の弓。それが帝国にある。帝国に私と同じように来た人間がいる)
それは確信だった。名前も顔も分からない。ただ、技術の根が同じだった。そしてもう一つ、言葉にならない感覚があった。取り戻さなければいけない、と思った。何をかは分からない。
「あら?」
声がした。
振り返るとメイルがいた。夕暮れの光の中で金色の髪が橙色に見える。琥珀色の目が真っ直ぐにリサを見ていた。
「やっと目覚めたのね、美月」
リサは言葉が出なかった。
「どうして私の名前を?」
メイルが小さく首を傾けた。それから笑う。楽しんでいるのではなくほっとした顔をしていた。
「あら? 私があなたを呼んだのよ。試合中に」
リサの胸の中で何かが引っかかった。「試合?」頭の中に芝生の射場が見えた。風が止んだ瞬間。クリッカーの音。リリースする瞬間の前に聞こえた声。甘くて遠い声。
(来て。待ってるから)
リサは思い出した。シュートオフの時、どこからともなく聞こえてきた声。
「あの声はあなただったの?」
メイルは答えなかった。うふふと言いながら少し眉を上げた。しばらくして、短く言った。
「頃合いが来たら、私が動くわ」
それだけ言ってメイルは行商人の荷の方に視線を移した。布地の端を指でつまんで、「この柄、いいわね」と、普通の顔で言う。話が終わった、という態度だった。
リサはしばらく立っていた。何かが動き出している、という感覚だけがある。でも何がどこへ向かって動いているのかは分からなかった。
村の外れに出るとクルが待っていた。座って北の方角を見ている。リサが近づくとクルが顔を向けた。
「あなたはクル、最初から知ってたんでしょ。私が美月だということ」
クルが鼻先をリサの手に押しつけた。温かい。あの日と同じ温かさだった。首に巻いた古い革の帯が、その動きに合わせて小さく鳴った。
「蓮先輩の家のワンちゃんもクルって言うのよ。大きさは全然違うけど、あなたもしかして……」
急に蓮を思い出したリサは言葉に詰まった。「クル」という名は自分がつけたのだが、美月の知っているクルとこのクルが同じかどうかは確信が持てない。
リサは草の上に手をついたまま、しばらく北の空を見ていた。「取り戻さなければいけない」。その感覚が胸の奥から消えない。根拠はない。それでも消えない。
クルが突然立ち上がった。耳が真っ直ぐに立ち、しばらく静止していた。草が風に揺れる。それからクルが一声だけ遠吠えをした。短くて低い、迷いのない鳴き声だった。
〈あっち、知ってる〉
クルの感覚がリサの頭に入ってきた。とっさにリサは北の空を見た。クルが鼻先をその方角に向けたまま動かなかった。
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